「幸福の獲得について」

バートランド・ラッセル/日高一輝訳

ドットブック版 123KB/テキストファイル 119KB

500円

「幸福を得るにはどうしたらよいか」…この大切で平凡な希望をかなえるための処方箋。ラッセルは偉い学者だけれど、私生活・社会生活では、多くの苦難をなめ、それをなんとか乗り切って生きた。「立ち読み」に入れた「著者まえがき」を読めば、その誠実さは疑いないし、実際に読めばあちこちで、「なるほど」、「確かに」という感想を必ず得られる本である。

バートランド・ラッセル(1872〜1970) イギリスの哲学者・数学者。ホワイトヘッド、ヴィトゲンシュタインらと数理哲学・記号論理学の発展に寄与。ホワイトへッドとの共著「プリンキピア・マテマティカ」は著名な業績として知られる。第一次大戦のとき反戦運動のために大学を追われたが、以後、ベトナム反戦運動にいたるまで終始、社会運動に挺身、その一方で多くの社会評論を著した。1950年にはノーベル文学賞を受賞した。

立ち読みフロア
著者まえがき

 この書は、学問のある人とか、あるいは、実際的な問題をただおしゃべりしていればいいぐらいにしか考えない人達のために、書いたものではない。
 この本の中には、深遠な哲学とか深い学識などは、一つも書かれていない。
 わたくしは、ただ、常識だと自分が考えているものでなされた評論のいくつかを、ここにならべようと思ったにすぎない。
 ここで、読者に公開する幸福の秘訣について、わたくしが言い得るすべてのことは、それがことごとく、わたくし自身の経験と観察によって確かめられたものだということである。そして、わたくしが、その通りに実行した時には、いつでも、わたくし自身の幸福を増大してくれた、ということである。
 そこで、わたくしはあえてこう思う――不幸のために苦しみ悩んでいるおおぜいの男女の中には、この本を読むことによって、自分の不幸の実相がよくわかり、その不幸からのがれる方法を学びとる人達がたしかにあり得ると。そういえるのも、わたくしは、世の多くの不幸な人達が、この本を書いたわたくしの努力に導かれて、幸福になることができると確信しているからである。



第一部 幸福はどうして得られるか

1 幸福ははたして可能か

 わたくしはこの章で、わたくしの一生の間にめぐり会った幸福な人々について研究してみたいとおもう。
 幸福には二つの種類がある――もっとも、その間《かん》に中間的なもののあることももちろんではあるが。
 わたくしのいうこの二つの種類とは、現実的なものと空想的なもの、動物的なものと精神的なもの、情的なものと知的なものとに区別できよう。こうした相対する種類のどちらに属するかを決めるのは、もちろん、その決めようとする主題の性質いかんにかかっている。わたくしは、ここではそれをしないで、ただ叙述するだけにとどめようとおもう。こうした二種類の幸福の違いを叙述する最も単純な方法は、一方は、人間ならば誰でも得られる幸福であり、他方は、読み書きのできる知識人に限られていると言うことだろう。
 わたくしは少年の頃、幸せでいっぱいという一人の人を知っていた。彼の仕事は井戸掘りだった。彼はとほうもなく背の高い人で、信じられないほどたくましい筋肉をしていた。彼は読み書きが全然できなかった。そして、一八八五年に国会議員の選挙権を持つようになったとき、初めてそのような制度のあることを知った。彼の幸福は知識に関係したものではなかった。彼の幸福は、自然の法則を信じるとか、種の安全性を信じるとか、公共施設の所有者が一般市民であることを信じるとか、「土曜日を安息日とするキリスト再臨論者」の最後の勝利を信じるとかいったような信条や、知識人たちが人生を楽しむのに必要だと考えているような信条などには全然関係のないものだった。彼の幸福は、その体力とか、仕事が十分にあるとか、どうにも手のつけられないほどではない岩石の形をした障害物を取り除くとか、そういうことにあったのである。
 わたくしのところで仕事をしてもらっている植木屋の幸福も、こうした種類のものである。彼は、兎と年中絶え間なく戦っているわけであるが、彼がその話をするときは、ロンドン警視庁がボルシェヴィキについて話すのとちょうど同じような調子で話す。彼は、兎はこそこそしていて、陰険で、それに凶悪だと考えている。そこで、兎と同じくらい悪知恵をはたらかせなければ、とうてい兎には対抗できないという意見をもっている。ヴァルハラ〔北欧神話で、芸術・文化・戦争・死者などの神といわれるオーディン神の殿堂〕の英雄たちは、毎日々々野猪を一匹ずつ獲って暮らしていて、その野猪が毎晩々々殺されても、翌朝になると奇跡的に生き返ってきたといわれているが、その物語のように、この植木屋のばあいも、彼が翌日にはいなくなってしまいはしないかという心配をせずに敵を屠《ほふ》ることができるのである。
 その植木屋は、七十歳をとっくに越しているけれども、一日中働きつづけ、仕事の往きかえりに、十六マイルの険しい坂道を自転車で通っている。それでも、彼の喜びの泉はつきることがない。そしてその喜びをあたえてくれるのが、「かれら、兎ども」なのである。
 しかし、あなたがたはこう言うだろう――こんな単純な喜びでは、われわれのような優秀な人間には満足できない――兎のようなちっぽけな生きものと戦って、どれほどの喜びが得られるというのかと。そのような議論は、わたくしには全くつまらないものにおもえる。兎は、黄熱病のバチルス〔桿菌〕よりははるかに大きい。――しかも、普通より優れた人間が兎よりもちっぽけなバチルスと取り組んで幸福を見出すことができるのである。その情緒的な内容からいえば、最高の教育を受けた人でも、わたくしの植木屋の快楽とそっくりの快楽を味わうことができるのである。教育があることによって生ずる相違というのは、ただ、その快楽を得るための活動に関してだけにすぎないのである。ものごとを為し遂げるという喜びを味わうには、さまざまの困難を克服することが必要である。やがては成就するのが普通であっても、初めは、成功がおぼつかなそうにおもえるような困難である。それで、幸福の源とは、自分自身の力をあまり過大評価しないことであるともいえる。自分自身を低目《ひくめ》に評価する人は、成功することによって驚嘆するのがつねである。それと正反対に、自分を高目に評価しすぎる人は、こんどは失敗によって、驚愕するのがしばしばである。前者のような驚嘆なら喜びであるが、後者のような驚愕は不愉快である。だから、あまりに謙虚すぎて、何も企てられないというのは賢くないが、不当に自惚《うぬぼ》れすぎることも賢明ではないのである。

 ……冒頭より

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