「黒田如水」

吉川英治作

ドットブック版 321KB/テキストファイル 187KB

400円

黒田如水(じょすい)は通称黒田官兵衛として知られる、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。キリシタン大名でもあった。如水は時勢を見ぬく確かな眼をもち、毛利の勢力下にありながら、織田の天下を予見した。また、荒木村重の奸計によって、伊丹城地下牢での多年の幽囚生活を余儀なくされながらも、見事に耐えぬく胆力の持ち主でもあった。…本作品は36歳までの若き日の如水を格調高く描いている。

吉川英治(1892〜1962)神奈川県生まれ。小学校中退。いくつもの職業を転々としつつ独学。新聞社にはいって作家活動を本格的に開始し、傑作『鳴門秘帖』で人気作家となった。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、代表作となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を発表して幅広い読者を獲得し、「国民文学作家」といわれた。

立ち読みフロア
 一

 太鼓櫓(たいこやぐら)の棟木(むなぎ)の陰へ、すいすいと吸いこまれるように、蜂(はち)がかくれてゆく、またぶーんと飛び出してゆくのもある。
 ここの太鼓もずいぶん久しい年代を経(へ)ているらしい。鋲(びょう)の一粒一粒が赤く錆(さ)びているのでもわかる。四方の太柱(ふとばしら)でさえ風化(ふうか)して、老人の筋骨のように、あらあらと木目のすじが露出(ろしゅつ)している。要するに、この御着(ごちゃく)の城と同時に建った物であることは疑いもない。
「……あ、蜂の巣か」
 官兵衛(かんべえ)は眼をさました。とたんに自分の襟(えり)くびをつよくたたいて、廂(ひさし)の裏を赤い眼で見あげた。
 ゆうべから彼は寝ていない。一睡(すい)のひまを偸(ぬす)むこともできなかったのである。そこでさっきから独りここへ逃避(とうひ)して、柱の下に背を凭(もた)せかけたまま、よいこころもちで居眠っていたのであった。
 本丸の方からは見えないし、夏の陽(ひ)ざしもぐあいよく四囲の青葉が遮(さえぎ)ってくれている。それに城内でもここの位置は最も高いので、中国山脈の脊梁(せきりょう)から吹いてくるそよ風が鬢(びん)の毛(け)や、懐(ふところ)を弄(なぶ)って、一刻の午睡(ひるね)をむさぼるには寔(まこと)に絶好な場所だった。
「これはいかん、だいぶ食われた。……蜂までがおれを寝かさんな」
 官兵衛はひとり苦笑して、襟くびや瞼(まぶた)をしきりに手でこすっていた。
 為に、眠った間はほんのわずかであったが、それでも、大きな欠伸(あくび)を一つ放つと共に、夜来の疲れは頭から一洗(せん)されていた。そしてまた今夜も寝ずに頑張らなければならないと、ひそかに考えていた。
 しかし彼は容易にそこから起(た)たなかった。袴(はかま)の膝(ひざ)を抱いたまま、柱に凭(よ)って、ぽかんと屋根裏を仰いでいた。蜂の巣を中心に、蜂の世界にも戦争が行われているらしいのである。偵察蜂(ていさつばち)が出て行ったり、突撃蜂を撃退したりしている。官兵衛は見飽(みあ)かない顔をしていた。けれど頭のなかではまったくべつなことを思案していたかも知れなかった。
 するとやがて二人の家中(かちゅう)が上がって来た。侍小頭(さむらいこがしら)の室木(むろき)斎八と今津(いまづ)源太夫のふたりだった。官兵衛のすがたをここに見出すと、ふたりとも意外な容子(ようす)を声にまであらわして告げた。
「や、ご家老には、こんな所へ来ておいで遊ばしたか。いやもう、彼方ではたいへんな騒ぎです。きっとご立腹の余り姫路へ帰ってしまったにちがいないという者もあるし、いやいや、殿に無断で立退くほど非常識なお人ではない、まだどこかにいるだろう、などと諸所を探しまわるやら、城外まで人を見に出すやらで……」
「ははは。そうか。そんなに探しておったか」
 まるで人事(ひとごと)のような官兵衛の顔つきだった。そんな問題よりは、蜂に食われた瞼のほうが重大らしく、眉と眼のあいだを、しきりと指の腹で掻(か)いていた。

 二

 全国、どこの城にも、かならず評定(ひょうじょう)の間(ま)というものはある。けれどもその評定の間から真の大策(たいさく)らしい大策が生れた例は甚だ少ないようだ。多くは形式にながれ、多くは理論にあそび、さもなければ心にもない議決におよそ雷同(らいどう)して、まずこの辺という頃合いを取って散会を告げる。
 三人寄れば文殊(もんじゅ)の智(ち)というが、それは少なくとも一と一とが寄った場合のことで、零と零との会合は百人集まっても零に過ぎない。時代の行くての見えない眼ばかりがたとえ千人寄ってみたところで次の時代を見とおすことは出来ないが、評議となって列座すれば、誰ひとりとして、
(それがしは、めくらである)
 と、いう顔はしていない。
 そのくせ信念もなければ格別の達見(たっけん)も持ってはいないので、ただ自己をつくろうに詭弁(きべん)と口舌(こうぜつ)の才を以てすることになる。従って、評議は物々しくばかりなって、徒(いたず)らに縺(もつ)れ、徒らに横道に入り、またいたずらに末梢的(まっしょうてき)にのみ走って、結局、何回評議をかさねても、衆から一の真も生れず、そしていつまでも埒(らち)はあかないという所に陥(お)ちてしまうのだった。
「もう止めい。前夜からの評議というに、そちたちの旨を一わたり訊いてみれば、つづまるところ昨夜の初めのことばから一歩も進んではおらない。……それよりはもう一度、この席へ官兵衛を招いて、篤(とく)と彼の意見を質(ただ)してみてはどうか。かりそめにもわが御着城(ごちゃくじょう)の興亡にかかわる大事ぞ。たとえ官兵衛に快(こころよ)からぬ者どもも、日ごろの私心(ししん)や不和などは一切打ち捨てて談合もし結束もしてくれねば困る」
 城主の小寺政職(おでらまさもと)は、並居る一同の上から、ついに長嘆ともいえる語気を以て、こう一先ずいいわたしたところであった。
 それで一応は、日和見的(ひよりみてき)な消極論も末梢的意見も、我意と我意の角突(つのつ)きあいも、鳴りをひそめたかに見えたが、また突如として、
「いや、その官兵衛殿ならば、今も今とて、どこへ参ったか、姿を探しにやっているところでござる。ほかならぬご評議の席を、ご家老たるものが、ひそかに座を外(はず)してしまうなどとは、実に言語道断。あの仁(じん)には、お家の浮沈を憂うるとか、殿の将来を案じるとか、そんな忠義のかけらも心にはないとみえる。ただ大法螺(おおぼら)を吹くだけが能事のおひとらしいて」
 重役のひとりたる陶義近(すえよしちか)が罵(ののし)ると、その列の上座にいた老臣の蔵光正利(まさとし)、村井河内(かわち)、益田孫右衛門なども口をそろえていい出した。
「元来、口さき巧者だが、実のうすいさむらいじゃ。不作法もしかたがない」
「日ごろの不作法はゆるされるが、いったいこのご評議を何だと心得ているのだろうか」
「さればよ、官兵衛どのに、その忠義などを、求めるのが無理であろうよ。われわれ譜代(ふだい)の臣とはちがい、つい父の代からご当家に縁故をむすんだご被官(ひかん)に過ぎぬ」
「そういわれれば、元々、目薬屋の伜どの。ついわれらどもが、ご家老として、重んじるのがかえって、ご本人には、辛(つら)いのかも知れませんな」
 主人をおいて、聞えよがしの私語である。多少、官兵衛に好意をもち、また彼の説を支持している末席の若い武士たちには不愉快なことだった。
 で、耐えかねたか、その辺の席から一名の若い声が、
「宿老方のおことばを遮(さえぎ)って恐れ入りますが、殿の仰せでもあります。ともかく官兵衛どのが見えるのを待って、もう一応、あのお方のご意見をよく問い質(ただ)し、そのうえで如何(いか)ようとも、是非を仰せあるもよし、反駁(はんばく)なさるのも結構だと思いますが、ここは私(わたくし)ならぬ場所です、余りな陰口などはお慎(つつし)みあるべきではございますまいか」
 と、自分の身分に顧慮(こりょ)しながらも勇気をふるって窘(たしな)めた者がある。
 城主の小寺政職(まさもと)は、
(そうだ、よくいうてくれた)
 と感謝しないばかりな眼をして末席の方を見ていた。彼はそれほど自分を主君として重く臨めない人だった。決して暗君ではないし、地方の豪族の主人として教養もあるほうだったが、この世代に一族郎党を統率(とうそつ)してゆくには、多分に欠けているものがあった。大きく今の時流とその作用する分解や再建を観てゆく活眼であった。またその動揺のなかに処して迷わない信念とであった。彼にはそれがない。
 もっとも、この播州(ばんしゅう)にいて、僻地(へきち)の数郡を領すに過ぎない地方の一城主に、そんな達見を望むのは無理だともいえるのである。いま、天正三年という今日のうごきは、余りにも烈しく、また余りにも大き過ぎた。

……巻頭「蜂の巣」より

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