「黒船前後」

服部之総著

ドットブック版 268KB/テキストファイル 123KB

400円

史家としてまれに見る、すぐれた着想と文章力の持ち主であった服部之総の歴史随想は、「小説以上のおもしろさにあふれている」と評される。本書の各編からは明治維新史が新たな視点から生き生きとよみがえる。本書には、「黒船前後」「黒船来航」「汽船が太平洋を横断するまで」「咸臨丸その他」「撥陵遠征隊」「尊攘戦略史」「新撰組」「志士と経済」「上海由来」「福沢諭吉」「武鑑譜」「望郷――北海道初行脚」の12編をおさめた。

服部之総(はっとりしそう 1901〜56)歴史学者。随筆家。島根県浜田市の浄土真宗の寺の長男に生まれる。第三高等学校をへて、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。東洋大学に教鞭をとり、30年中央公論社初代出版部長となったが、翌年退社。マルクス主義理論家を結集した『日本資本主義発達史講座』に関係し、36年に逮捕された。38年花王石鹸株式会社に入り、取締役となったが、敗戦とともに退社し、歴史学界に復帰。三枝博音らと鎌倉アカデミアをつくり、著述活動に専心した。53年法政大学教授(社会学部)。主な著作に『明治維新史』『歴史論』『明治の政治家たち』『蓮如』『親鶯ノート』があるが、本書『黒船前後』や『微視の史学』などのすぐれた実証性に富む読んで面白い歴史随筆集を残した。

立ち読みフロア
 鉄で船を造ることは、技術的には、ヘンリー・コートが鉄板製造法を発明したことで(十八世紀末)可能になった。だがその後も長いあいだ、水に沈む代物で船が造れるもんかという意見が支配していた。いまだからこそ一口噺(ひとくちばなし)にでもありそうな気がするのだが、十九世紀十年代のはなしとして、英国王室造船所の技師長が、有名な造船業者スコット・ラッセルにむけて、
「鉄造船のはなしは聞きたくもない、だいいち、自然に反している!」
といった。
 八トンほどの河船で、船名をトライアルとつけられた最初の鉄造船(一七八七年)が英国でできてから、二番目の鉄造船ができるまでに二十年も間があった。ナポレオン戦争も済んで貿易と船舶業が恐しい繁栄時代にはいって、何よりも船材(英国産オーク材)が暴騰した。利潤のためには鉄の意志をもつ船舶業者は本気で鉄造船の試図(トライアル)をやりはじめた。
 自然に反するどころではなかった。鉄造船は同じ図体の木造船にくらべてかえって総重量は軽いことがわかった。
 当時の技術をもってして鉄造船の場合、船体および艤装(ぎそう)を合わせて重量は排水トン数の三十パーセントで済んだが、木造船の場合は四十パーセントだった。
 鉄造船は同一トン数の木造船より四分の一だけ軽く済んだ、したがってそれだけ貨物積載量が殖(ふ)えた。
 耐久力の上ではいうまでもないが、一八三四年に鉄造船ガリー・オーエン号が処女航海で暴風を喰った。ほかの木造船は完全に難破したが、この船だけは無傷だった。
 それでもまだ諸国逓信(ていしん)省は郵便物の托送を頑として鉄造船にたいしては拒みつづけた。「自然に反する――浮かぶはずがない」という以前の曰(いわ)くの代りに「自然に反する――コンパスを狂わせる」という信条だった。一八五四年にメルボルン行の鉄造帆船テイラーがランベイ・アイランドで霧のため難破して三三四人死んだ。もってコンパスにたいする憂いの実証とされた。
 世界に君臨する大英国海軍ですら、鉄造戦艦をはじめて持ったのが一八六〇年である。
 ところで木造船では三百フィートというのが構造上の極限だった。大西洋に就航した木造(汽)船では長さ二八二フィート三千トン(一八五〇年)というのが最大である。汽船帆船を問わず激化する競争は否応なしに大船を要求した。
 テイラー号の難破に遅れることわずか四年、一八五八年に英国で起工した長さ六八〇フィート、幅八二フィート、一万八九一四トンという巨大船「レヴィアザン」こそ、鉄造船にたいする半世紀にわたる頑強な杞憂(きゆう)を永遠に吹き飛ばした、「自然にたいする闘争」のこの方面における決定的勝利のシンボルだった。ところが経済的に落第してしまった。
 というのも――

 二

 船材としての木と鉄の競争は、帆船と汽船の闘争とはまた別のことがらであった。しいていえば帆船は鉄造船時代に入るとともに最後の発展段階に到達して、なお初期の発達段階にあった汽船にたいする競争力を一時増したのである。
 それにたいする汽船の究極の勝利は、エンジンの発達によって購(あがな)われた。単式低圧機関から複式高圧機関へ、三段膨脹(トリプル・エキスパンション)ないし四段膨脹(カドラブル・エキスパンション)機関へ、タービンおよびギア・タービン機関へ、内燃機関へ――ここで現在の時点が争われている。
 複式機関の発明からタービン機関船までの発展はわずか三十年で行われたが、汽船史上の最も興味のある時代はむしろ、フルトンのクレルモント号の進水(一八〇七年)から数えて六十年間にわたる単式機関船時代にある。あらゆる技術上の驚異的成果にもかかわらず、単式機関船時代には、経済的に、帆船にたいする勝利はついに不可能に終ったのである。
 これは汽車のはなしだが、スティーヴンソンの最初の試験的な機関車がキリングウォース炭坑で一年間石炭を運搬したときの算盤(そろばん)は、馬に牽(ひ)かせる場合の費用とまさに同じだった。技術的には進歩だが経営経済の上では何の足しにもならなかった。機関車の食糧節限――一馬力当りの石炭消費率の減少を可能にしたスチーム・ブラストの発明(スティーヴンソン、一八一五年)がはじめてストックトン=ダーリントン鉄道(一八二五年)を旅客用にも貨物用にもひとしく「経済的」に完成させたのである。
 陸のスチーム・ブラストに対応する海の技術的転回は同じく高圧蒸気と容積縮小を実現した複式エンジンの発明(一八五六年)で、石炭消費量はおよそ半減した。
 それまでは――低圧単気筒の時代には――石炭消費量は一馬力一時間当り平均六ポンド。そこへもってきて後年のように石炭供給所が到るところにあったわけでないから、いよいよもって尨大(ぼうだい)な炭庫を必要とした。それだけ貨物ないし旅客のための比例容積は狭められたのである。

……「黒船前後」冒頭より


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