「靴に棲む老婆」

エラリー・クイーン/宇野利泰訳

ドットブック版 298KB/テキストファイル 182KB

600円

全米一の製靴会社の創業者コーネリア・ポッツは、豪勢な靴の館に女王さながら君臨していた。先夫との子供3人のうち、裁判狂の長男が提訴した事件の法廷で、エラリー・クイーンは、黒ずくめの扮装をしたこの奇怪な老母と息子をはじめて眼にする。それがまさか、マザー・グースの童謡さながらの連続殺人の悲劇に巻き込まれていく端緒だったとは! トリックの面白さでは数多いクイーンの作中でも群をぬく傑作。

エラリー・クイーン
エラリー・クイーンは、従兄どうしのアメリカ人作家フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)の共同のペンネーム。二人は同年、ブルックリンに生まれ、典型的なニューヨーカーだった。1929年、クイーン警視の息子エラリー・クイーンが登場する『ローマ劇場毒殺事件』でデビュー、その後『ギリシア棺謀殺事件』『エジプト十字架事件』『フランスデパート殺人事件』などの「国名シリーズ」、『X』『Y』『Z』『最後の悲劇』からなる4部作の「悲劇シリーズ」など、最高の傑作を生み、アメリカ・ミステリー界を代表する作家となった。のちには「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)を創刊し、編集者・アンソロジストとしても活躍した。

立ち読みフロア
 フォリー・スクエアにある裁判所のビルは、地球のように球形で、真珠母色のやわらかな光を放っている。この構内に一歩、足を入れた者は、この建物の内で、ニューヨーク州のありとあらゆる正義が、あたかも地球が太陽の運行に従うごとく、人間の良識の指示するところに従って、法という形態の下に顕現している状態(さま)を見るであろう。少なくとも今、刑事第六部法廷で、うだるような暑さに、額に汗がにじみ出てくるのをじっと我慢しながら、開廷のベルを待っているエラリー・クイーンの眼には、そう思われた。
 彼といっしょに待っている顔ぶれは、殺人課のトーマス・ヴェリー巡査部長とクイーン老警部。彼等は、この物語には直接関係のない、ギルバート・サリヴァン事件という、別の事件の証人として出廷しているのだが、かんじんの裁判長、グリービー判事がまだ顔を見せないのだ。
「待たせるなア」
 エラリーは大きな欠伸(あくび)をした。
「こんな事件には、グリービーは大した関心を持っていないんだよ」
 父親の警部は言った。
「今ごろは、ベッドの中で伸びでもしながら、さて起きようか、どうしようか、と考えている最中だろう……だが、それにしても遅いな。ヴェリー、済まんが、ちょっと行って、なにか事故でもあったのか聞いて来てくれんか」
 これまた先刻からじりじりしていたヴェリー部長は、さっそく立ち上がると、様子を聞きに出て行った。が、じきに戻って来た彼の顔は、前よりいっそう苦々しげに歪んでいた。
「警部さん。書記の話では、いま裁判長閣下から、お電話があったところです、とこうなんだ。奴(やっこ)さん、耳が痛むので、二時間ほど出勤が遅れるんですって――書記が言ってました。閣下は、そのためにイライラしていらっしゃるそうだ。イライラしてるのは、こっちのほうでさね」
「なに、イライラしてるって?」
 エラリーも、苦々しげに眉をよせて、
「カラカラしてるって、言い直せと言ってくれ。あのグリービーの、カラカラに乾ききっている埃(ほこり)だらけの身体に、水を注ぎこんでやる必要があるね。僕の睨んだところでは、グリービー閣下、たしか二日酔いにちがいないぜ」
 巡査部長は、まさかといった顔をした。クイーン警部は口髭をまさぐりながら、口のなかで呟いた。
「あと二時間か! 本当に、わしも水をぶっかけてやりたくなったよ。廊下へ出て、煙草でも喫おうか」
 警部が先に立って、三三一号法廷を出て行った。つづいて、ヴェリー部長、最後にエラリー・クイーン――かくて彼等は、あの怪奇きわまるポッツ家の事件に捲き込まれる運命になったのである。
 廊下へ出ると、すぐそばの、刑事第七部三三五号法廷のドアの前で、これまたイライラしながら誰かの到来を待っているチャーリー・パクストンにバッタリ出会った。メシナの大守の姪のように鋭い眼光の所有者エラリーは、すれちがいざまに、この背の高い若者について、以下の諸点を一眼で見てとった。
(一) 職業は弁護士(書類カバン)
(二) 姓名はチャールズ・ハンター・パクストン(カバンに浮いている金文字)
(三) パクストン弁護士は依頼人の出廷を待ちわびている(腕時計を絶えず見ている)
(四) 事件はどうやら、敗訴の色が濃厚(意気消沈している)
 わが主人公、エラリー・クイーンは、電気掃除機のように一眼で、チャールズ・ハンター・パクストンを観察しおわると、しごく満足して通り過ぎた。
 しかし、父親のほうは、立ち止まって瞬(またた)きしながら、

[警部] また事件かね? 今度はなんだね、チャーリー?
[パクストン] 大逆罪ですよ、警部さん。
[警部] 事件の場所は?
[パクストン] ボンゴ・クラブ。
[ヴェリー部長](大理石を敷きつめた広間に、哄笑を高らかにひびかせて)あの賭博場へ、サーロウが現われたんですか?
[パクストン] そこで、やられましてね。ひどい目にあわせられたんです。
[警部] 暴行脅迫か?
[パクストン] いえ、いえ。告訴状どおり、名誉毀損(きそん)ですよ。相手はコンフリン・クリフスタッター、あの呑(の)んべの……
[部長] 多分、また酔っ払っていたんだろう。
[パクストン] それはもう、飲んでいたことはたしかだが、それにしても、ポッツ家の名誉を毀損したことは否定できませんよ。ヒビの入った壺(ポッツは壺の意)だなんて、洒落や地口(じぐち)で悪口を吐(は)いたのです。
[エラリー・クイーン](ジリジリして)お父さん!

 ここで、クイーン警部は、チャーリー・パクストンに息子のエラリーを紹介した。二人の青年は、たがいに手を握りあった。かくて――繰り返して言うが、エラリー・クイーンは、あの奇怪きわまる童謡殺人事件の渦中に捲き込まれることになったのである。

……巻頭より

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