「湖中の女」

レイモンド・チャンドラー/田中小実昌訳

ドットブック 331KB/テキストファイル 185KB

600円

フィリップ・マーロウはサンバーナディオの湖の別荘を訪れた。澄んだ湖水、明るい陽光…だが、緑がかった水底に発見されたのは、目も口もなくなった女の死体だった。これが化粧品会社社長の失踪した妻クリスタルなのか? そうではなかった、クリスタル の情夫を再訪したマーロウは、元気だった情夫の射殺体と対面させられる。難解な事件に奔走するマーロウ。

レイモンド・チャンドラー(1888〜1959)シカゴ生まれ。ハメット、ロス・マクドナルドと並ぶ、最も有名なハードボイルド作家の一人。イギリスで育ち、第一次世界大戦ではカナダ海外派遣軍、イギリス空軍に従軍、除隊後アメリカに戻る。33年にパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に「脅迫者は撃たない」が掲載されデビュー。39年発表の処女長編『大いなる眠り』で探偵フィリップ・マーロウを登場させ、一躍売れっ子となる。他の代表作は『さらば愛しき女よ』『 高い窓』『長いお別れ』。

立ち読みフロア

 トレロア・ビルは、今でもそうだが、ロサンゼルスの西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにある。ビルの前の歩道には白と黒のゴムブロックが敷いてあり、戦争がはじまったので、政府にゴムを供出するためか、掘りおこしていた。それを、トレロア・ビルの管理人らしい、青白い顔つきの無帽の男が、恋人でも連れていかれるような顔でみつめている。
 おれは、その男の前をとおり、ずらっとならんだいろんな売店のあいだをぬけて、黒と黄金(きん)色のデザインの、だだっぴろいビルのロビーに入った。ギラーレン社は七階の表のほうにあった。入口の、左右にひらく板ガラスのドアのふちにはプラチナがつかってある。入ったところの部屋は、支那絨毯(しなじゅうたん)をしきつめ、壁はにぶく銀色にひかり、かたくるしい、だが凝(こ)った家具をそろえ、台の上にのった、鋭角的なアブストラクトの彫刻がいくつか、そして、部屋の隅には、三角のガラス箱に入った、なにか大きなものもあった。たて、よこにかさなり、あるいはポツンと島のようにはなれ、また、岬みたいにつきだした、ピカピカひかる鏡ばりの陳列棚の上には、それこそ、あらゆる恰好のしゃれた壜(びん)や箱がならんでいる。いろんな季節、いろんな時にふさわしいクリーム、パウダー、石鹸、化粧水などだ。フッと息をふきかけたら、ころんでしまいそうな、ほそながい香水の壜。ダンスのクラスの、ちいさな女の子みたいな、よくひかるサテンのリボンをつけた、パステルカラーのちいさな香水の壜もある。だが、最高級のやつは、シンプルなデザインの、ごくちっぽけな、琥珀(こはく)色のひらったい壜の香水のようだった。それは、陳列棚のちょうど目の高さのところにあり、うんと空間をとっておいてあった。ラベルには、ギラーレン特製、シャンペン香水〔シャンペンとは、最上という意味もふくむ〕とかいてある。まちがいなく、トビキリ上等の香水だ。こういうやつを、一滴、喉もとのひっこんだところにたらすと、夏の雨みたいに、粒のそろったピンクの真珠がふってくるような気分になる。
 部屋のずっとはしの、ちいさな交換台に、金髪(ブロンド)のちまちまっとした、かわいい女の子が坐っていた。だが、交換台の仕切りのうんと奥で、いたずらな男の手も届きそうにない。奥のドアにならんで、大きなかざりのない机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた。机の上の名札には、ミス・エイドリン・フラムセットという字が浮彫(うきぼり)にしてある。
 エイドリン・フラムセットはスチールグレーのビジネススーツに、ダークブルーのシャツブラウスを着て、あかるい色の男物のネクタイをしていた。胸のポケットからのぞいているハンカチは、パンでも切れそうなくらい、きちんとたたんである。エイドリン・フラムセットはリングの腕輪をしたきりで、ほかにアクセサリーらしいものは身につけていなかった。黒い髪はまんなかでわけ、ゆるくたらしているが、ウェーヴひとつ乱れていない。なめらかな象牙色の肌。すこしきつい眉、その大きな黒い瞳は、時と場合によっては、情熱的にかがやくことがあるのかもしれない。
 私立探偵の肩書がついたのではなく、ふつうの名刺をエイドリン・フラムセットの机の上におき、ドレース・キングズリーさんに会いたい、とおれは言った。
 エイドリン・フラムセットは、おれの名刺に目をやった。
「会うお約束がしてございますの?」
「いや」
「でしたら、社長にお目にかかるのは、むずかしいとおもいますが――」
 おれは、べつになにも文句をいうことはなかった。
「どんなご用件でしょう、マーロウさん?」
「個人的な用でね」
「わかりました。社長はあなたを存じあげておりますか、マーロウさん?」
「さあ、どうかな。名前はきいたことがあるかもしれん。ミギー警部補の紹介だと伝えてくれたまえ」
「ミギー警部補と申せば、社長にはわかりますのね?」
 タイプしたばかりの、会社の名だけ入ったブランクの事務用箋(ようせん)をかさねた横に、エイドリン・フラムセットはおれの名刺をおき、からだをうしろにそらし、片手を机にかけて、ちいさな黄金(きん)色のペンシルのさきをコツコツやりだした。
 おれはニヤッとわらった。交換台の金髪(ブロンド)の女の子は、貝殻みたいな耳をピンとたて、かすかにほほえんでいる。なんでもおもしろく、ふざけたいのだが、叱られやしないかと心配なのだ。ちょうど、猫のことなんかあまりかまわない家にもらわれてきたばかりの仔猫みたいだった。
「ま、そう願いたいな。だけど、キングズリーさん自身にきいてみるのが、いちばん、てっとりばやいんじゃないかい?」
 エイドリン・フラムセットは、いそいでメモ用紙になにか書きこんだ。手に持ったペンシルをおれになげつけそうになったからかもしれない。そして、視線をあげないまま、言った。
「ただ今、社長は会議中です。ひまをみて、お名刺をとりつぎましょう」
 おれは礼をいい、クロームと革でできた椅子に腰をおろした。見かけよりも、うんと坐りごこちのいい椅子だった。時間がたち、沈黙がひっそりと部屋をつつんだ。出入りする者はだれもない。エイドリン・フラムセットのエレガントな手が書類をめくり、交換台の仔猫がちいさな声でしゃべるのが、時々きこえ、電話のプラグをつっこんだり、ぬいたりする音がするだけだ。
 おれはタバコに火をつけ、灰皿を椅子にひきよせた。時間はしのび足ですぎていった。シッ、と指を口にあてて――。おれは部屋のなかを見まわした。こういったところは、表のオフィスだけみたのでは、さっぱりわからない。百万ドルぐらい儲(もう)けがあるのかもしれないし、もしかしたら、なにかヤバイことをやっていて、ワイロをつかまされたお巡りが、奥の部屋で金庫によりかかり、張り番でもしているかもしれん。
 三十分ほどたち、タバコの吸いガラが三つ、四つになったとき、エイドリン・フラムセットのうしろのドアがあいて、二人の男が、笑いながら、うしろむきに出てきた。三人目の男はドアのノブをにぎり、調子をあわせて、やはり笑っていた。そして、いかにも親しそうに握手をすると、二人は部屋を横ぎり、廊下にでた。そのとたんに、三人目の男の顔から笑いがひっこみ、生まれて一度も笑ったことがないような表情になった。グレーの背広を着た背のたかい男で、ふざけたりするのはぜったいにゆるさん、といった顔をしていた。
「電話はなかったかね?」男はボス風をふかして、しかつめらしくたずねた。
 エイドリン・フラムセットは、ひくい声でこたえた。「マーロウさんとおっしゃる方がおいでになってます。ミギー警部補の紹介とかで――。ご用件は個人的なことだそうです」
「そんな男の名前はきいたことがない」とノッポはぬかしやがった。そして、名刺を手にとると、おれのほうを見向きもせず、奥のオフィスに入り、圧縮空気仕掛けの自動開閉ドアが、フーイ、用はないよ、といったような音をたてて、しまった。エイドリン・フラムセットは、きれいな顔に、ほんとうにお気の毒、といった微笑をうかべた。で、おれは、いやらしい目つきをしてやった。そして、またタバコをくわえた。時間はのろのろすぎていった。おれは、ギラーレン化粧品株式会社が、腹のそこから好きになってきた。
 十分ほどすると、おなじドアがあき、大社長は帽子をかぶって出てくると、散髪にいくとほざいた。そして、支那絨毯の上を、スポーツでもやったらしいキビキビした足どりで、部屋のまんなかあたりまで大股ですすみ、クルッとふりかえって、おれが腰かけているほうにやってきた。
「わたしに会いにこられたのかな?」やつはでかい声で言った。
 背は六フィート二インチはあるだろう。よくひきしまり、だぶついたところなどこれっぽっちもない、いい身体(からだ)だ。石のような灰色の目が、つめたくひかっている。やつは、そのでかい身体を、白い、こまかい縞のあるグレーの上等なフランネル地のスーツにつつんでいたが、着こなしも、なかなか上品だった。

……冒頭より


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