「シェリの最後」

ガブリエル・コレット/高木進訳

ドットブック版 151KB/テキストファイル 109KB

500円

この作品では、男が中心として描かれている。レアの姿はもはや、舞台の奥の方に、おぼろに浮かんでいるにすぎない。しかし、シェリの夢の女性として、常に、またいたるところに存在しているのである。第一次世界大戦後の不安動揺の社会の中で、なんの実行力もないシェリは、ますます虚無的になって行く……当時の若い世代に絶大な人気を博した名作。

ガブリエル・コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
 シェリはうしろ手で小さな庭の鉄柵を閉め、夜の空気を吸いこんだ。《ああ! いい気候だ……》すぐにかれは言いなおした。《いや、いい気候じゃあない》葉を生い繁らせたマロニエの並木が、梃子でも動きそうにもない暑さの上にのしかかっていた。いちばん近くのガス燈の上では、茶色になった木の葉の繁みが、ドームのように拡がって震えていた。アンリーマルタン通りは、草や木に窒息させられて、ブーローニュの森から立ちのぼるほんのかすかな涼気を、夜が明けるまで待っているかのようであった。
 帽子もかぶらず、シェリは、ひとの気配はないが明りのついている自分の家をじっと見つめていた。クリスタルガラスの器を乱暴に取り扱う音が聞こえてきた。それから、叱りつけるためにこわばった、明るいエドメの声が。シェリは、妻が、二階の表広間の張り出し窓のほうに来て、身をかがめるのを見た。妻の真白なドレスは、雪のような白さを失い、ガス燈のみどりがかった光線を受けて、軽くふれたラメ織りの絹のカーテンに映え、ぱっと黄色く燃えあがった。
「歩道にいるのは、あなたなのね、フレッド?」
「誰だったらいいのかい?」
「じゃあ、フィリペスコをお見送りするのではないの?」
「もちろんさ。あいつはもうとっくに行ってしまったよ」
「でも、わたし、そうして欲しかったのだけれど……いいわ、たいしたことじゃない。お帰りになる?」
「すぐにはもどらない。暑すぎるもの。散歩してくる」
「でも……いいわ、お好きなように」
 エドメはちょっとのあいだ、口をつぐんだ。笑っているにちがいなかった。なぜなら、ドレスのきらきらが震えているのが、シェリには見えたからである。
「ここから、あなたのお姿、はっきり見えることよ。まっ暗闇にぽっかりと浮いている、白いワイシャツの烏賊(いか)胸と、あなたの白いお顔……まるでダンスホールのポスターみたい。致命的ね」
「きみは、ぼくのおふくろの言い回しが好きなんだね」と、シェリはもの思わしげに言った。「みんな休ませていいよ。ぼくは鍵をもっているから」
 エドメは、シェリに手をふった。窓の明りがひとつずつ消えて行った。にぶい青色の、独特な明りが、シェリに、エドメが、自分の居間を通って、邸の裏側にある庭に面した寝室へ行ったことを教えた。
《まちがいない》と、シェリは思った。《居間はいまでは書斎と呼ばれている》
 ジャンソン=ド=サイイ校の鐘が、時をつげた。シェリは顔をあげて、まるで雨の滴を受けるかのように、飛び去ってゆく鐘の響きをひとつ残らず耳に集めた。
《十二時だ。あいつはずいぶんいそいで寝るんだな……あっ、そうか! あいつは、明日の朝、九時に、病院に行かなければならないんだ》
 シェリは、神経質そうに数歩あるき、肩をすくめた。そして、落ち着きを取り戻した。《まるで古典バレエの踊り子と結婚したようなものだな、要するに。九時に、レッスンだ。神聖にして侵すべからず。何よりも先行するんだ》
 シェリは、ブーローニュの森の入口のところまで歩いた。塵埃がよどんでいて、色あせた空が、星のまたたきを弱めていた。整然とした足音が、シェリのきっちりとした足音に重なった。シェリは立ち止まり、待った。あとをつけられるのを好まなかったのだ。
「今晩は、プルーさん」と、《夜警》の男は、帽子に手をふれて、言った。
 シェリは、こめかみのところまで指をあげて、返礼した。そうした、士官のよくやる鷹揚な挨拶を、戦争中、かれは同僚の軍曹とよくつきあうことで身につけていたのだ。そして、閉まっている小公園の鉄の扉に手をかけて調べている《夜警》の男を追い越した。
 ブーローニュの森の入口のところには、アベックが一組、ベンチに腰かけていて、服をしわくちゃにして寄りそい、息をころして言葉をかわしていた。シェリは一瞬、しっかりと抱きあったからだから、見えない口から立ちのぼってくる、船のへさきが静かな水をうち砕くような、甘いもの音に耳をかたむけた。
《男は軍人だな》と、シェリは気づいた。《革バンドの留金の音が聞こえたぞ》
 考えごとから解放されて軽快になっていたシェリのあらゆる感覚が、ぴーんと張りつめていた。こうした荒々しいまでに繊細な聴覚が、戦争のさなかに訪れる静かな夜など、シェリに、複雑な悦びと、突きささるような恐れとをもたらしたものだった。土と垢(あか)でまっ黒になったかれの兵士の指は、メダルや貨幣の刻印を、確実に触りあてることができたし、名も知らぬ植物の茎や葉を見分けることができたのだった……《おい、プルー、おいらがもっているものが何だか、あててみい?》暗闇の中で、死んだモグラや、小さな蛇や、雨蛙や、ぽっかり口をあけた果物や、なんだか汚らしいものをかれの指の中にすべりこませて、《おい! あててみい!》と、どなった、あの赤毛の若者を、シェリは思い浮かべた。このことを、この死んだ赤毛の若者を思い出して、シェリは非情にもほほ笑みを浮かべた。シェリはまた、しょっちゅう、あお向けに寝て、いつもいぶかしげに眠る仲間のピエルキャンのことを思い浮かべるのであった。シェリはしばしばピエルキャンのことを口にした。今晩もまた、晩餐のあとで、エドメは、わざと不器用に作られたその短い話をさせようと、たくみに話題をはこんで行った。シェリはもう空で覚えていた。いつもこんな工合に終るのだ。「そこで、ピエルキャンが、ぼくに言ったんだ。《なあきみ、おれは猫の夢を見た。それから、故郷の川の夢をまた見た。胸が悪くなるほど汚ない川なんだ……どうしようもないんだ……》ちょうどその瞬間、やつはあたったんだ、一発の榴散弾(りゅうさんだん)にね。ぼくはやつを運ぼうとした……そして、そこから百メートルほど離れたところで、やつを上にして、折り重なっているぼくらが発見されたんだ……ぼくがこんな話をするのも、やつがほんとにいいやつだったからなんだ……ぼくがこんなものを貰ったのも、やつのおかげだということもちょっぴりあるけどね」
 恥ずかしそうに話を打ち切ってすぐ、シェリは、みどりと赤の略綬勲章に目をおとし、平静をよそおうために、シガレットの灰をふりおとした。たまたま弾丸が炸裂して、生きているシェリと死んだピエルキャンを、おたがいの肩を重ねてほうり出したからといって、そんなことは誰にも関係のないことなのだ、とシェリは思っていた。というのも、嘘よりも曖昧な真実が、突如として動かなくなったピエルキャンの巨大な重みで、反抗的で、執念深い、生きているシェリを、なかば窒息させるようになってきたからなのだ……シェリはピエルキャンを恨んでいた。そのうえ、真実が、ひとをけがし、傷つけるために、しゃっくりのようにかれの口から出てきた、すぎし或る日以来、シェリは真実を軽蔑していたのだ。
 だが、今晩は、シェリの家で、アメリカ軍の少佐アトキンスとマーシュ=メイヤーも、アメリカ軍の中尉ウッドも、シェリの話に耳を傾けているようには見えなかった。初聖体を拝受するスポーツ好きの子供たちのようなかれらの顔と、うつろではあるがじっと見つめている明るいかれらの眼は、ほとんど痛ましいくらいの気づかいでもって、ただひたすらダンスの時間を待っていた。フィリペスコについては……《見張ってなければ》と、簡単にシェリは考えた。
 よどんだ水からというよりむしろ、刈りこまれた堤から発散する、むんむんする湿気が、湖を取りかこんでいた。とある木に、シェリがよりかかろうとしたとき、女らしい人影が、大胆にもかれのからだにふれた。《今晩は、坊ちゃん……》シェリは、すれっ枯らした低い声で言われた《坊ちゃん》という言葉に身ぶるいした。乾燥した夜の、ほこりっぽい街道の、渇ききった声で……シェリは一言も答えなかった。さだかに見えぬ女は、足音もたてず一歩かれのほうに近づいた。しかし、黒い毛織物と、身につけている下着と、しめっぽい髪の毛の匂いでそれとわかったので、シェリは、軽やかな足どりで、大股に家路をいそいだ。
 にぶい青い明りがまだついていた。エドメが、居間書斎にまだいるのだ。おそらく、エドメは書きものをしたり、薬局の引換券や、手当の項目票にサインをしたり、その日の伝票や、秘書の簡単な報告書に目を通しているのだろう……書類の上に、細かく波うった髪と、小学校の先生のような可愛らしい額をかたむけているのだろう。シェリは、ポケットから、金の鎖の先についている、平べったい小さな鍵をとり出した。
《さあ、入ろう。あいつはまたぼくに定規とセックスさせるんだろう……》

……「冒頭」より


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