「ルコック探偵(上・下)

E・ガボリオ/松村喜雄訳

(上)ドットブック 177KB/テキストファイル 146KB
(下)ドットブック 147KB/テキストファイル 111KB

各400円

シュパン女将《おかみ》の居酒屋から、恐ろしい悲鳴とともに3発の銃声がひびき渡った。不思議な殺人事件の発端だった。パリ警視庁の若手刑事ルコックが捜査に乗り出す。そして浮かび上がったのは、ナポレオン時代にさかのぼる、貴族たちの血塗られた歴史だった……史上初めての長編ミステリーとされるガボリオの傑作。江戸川乱歩はこの作が大のお気に入りで、少年向きにした「ルコック探偵」を書いている。

エミール・ガボリオ(1835〜73)フランスのソージョンに公証人の息子として生まれる。25歳のとき週刊誌の記者になり、デュマと知りあう。大衆小説の人気作家フェヴァルの代作を務めながら、腕を磨き、のちに一本立ちして、「ルルージュ事件」「ルコック探偵」などのルコック・シリーズで人気を博し、新聞連載小説の大御所となった。

立ち読みフロア
  一八××年二月二十日のことである。その日は日曜の告解日《グラ》(肉食日)だった。夜もふけた十一時ごろ、警察警備隊の一団が、旧イタリー広場の駐屯所から出動した。連日ふりしきった雪がとけ始め、ひどい霧になっていた。この警官の一団を指揮しているのは、パリ警視庁でも一番といわれる腕ききジェヴロール警部だが、ふだんみんなは彼を『大将』と呼んだ。
 一行がシャトー・デ・ランチエ街を通り過ぎようとしたときのことだ。突如どこからともなく、すさまじい叫び声が聞こえてきた。とすぐに、その声を追いかけるようにして、前よりもさらに恐ろしい声があたりに響き渡った。
「おお、あの声はシュパン女将《おかみ》の居酒屋からだ。ポァヴリエールから聞こえてくるぞ」と、大将がさけんだ。「居酒屋はすぐそこだ、急げ!」
 警官隊は猛然と駆けた。一分とたたないうちに、空地のなかにひっそりと建っている陰気くさくみすぼらしい居酒屋の前に着いた。絶叫が聞こえて来たのは、この見るからにいかがわし気な建物のなかからだった。さらにものすごい悲鳴が起り、続いて二発の銃声が響いた。
「警察だ、開けろ、開けろ!」と、ジェヴロールが連呼した。
 返事がないのでドアを打ち破った。中になだれ込んだ警官隊は、そのうす汚い店の、半地下式になった土間の光景を見て棒立ちになった。ジェヴロールでさえ、あまりの恐ろしさに足が動かなかった。暖炉のなかでパチパチ火が燃え、その近くに男が二人うつぶせになって倒れていた。死んだように動かない。三番目の男は部屋の中央に横たわっていた。その右手の奥まった階段のすそのところに女がうずくまり、呻《うめ》き声を上げていた。そのまた奥の正面のドアは開けたままになっていて、頑丈なテーブルを盾《たて》にして男が一人、威丈高《いたけだか》に立ち構えていた。かなりの年輩で顔いちめんひげが濃かった。服装といえば船場の荷揚人夫の着ているもので、ズタズタに裂けていた。殺人を犯したのは確実にこの男だった。眼を見ても狂人のそれのように兇暴だった。五連発のピストルを手にしている。
「おとなしくこっちへ来い!」と、ジェヴロールがさけんだ。
「あたしは何もしちゃいない」男はかすれ声で言った。「襲われたのはあたしだ。そこの女将にお訊きなさい。あたしは自分の生命を守っただけだ。あたしにもそのぐらいの権利はある」
 男はピストルをかまえて威嚇した。
 警官隊の一人が、戸口から半身をつき出した格好のまま、ジェヴロールの腕を力まかせに引っぱり、注意をうながした。
「気をつけてください、大将。やつは五連発をもっています。だが、まだ二発しかぶっぱなしていませんよ」
 ジェヴロールは、相変らず男のほうへにじり寄っていった。男はテーブルを盾にしながら、隣室のほうをうかがった。裏口から逃げ出そうとしているのだ。しかし一人の警官が、男のそんな作戦をいち早く見抜き、家のまわりをぐるりと迂回して、裏口のドアから隣の部屋に先回りし、待ち構えていた。そして殺人犯の背後からおどりかかり、羽がいじめにした。男はテーブル越しにあお向けにひっくり返り、大声でわめいた。
「何もかもお終いだ。やって来たのはプロシア兵だ!」
 警官隊はドッとその男に襲いかかり、とり押さえてしまった。
「さあ、被害者のほうを調べろ」と、ジェヴロールがさけんだ。
 暖炉のそばに倒れている二人はすでに死んでいた。三番目の男はまだ呼吸《いき》をしている。被害者の三人のなかでは一番若く、歩兵の軍服を着ていた。
「苦しい……。頭をやられた!」警官が抱き起すと、その歩兵服の男は呻きながら言った。「ラシュヌール、ラシュヌール」
「おい、ラシュヌールとは何者だ?」
「ジャン・ラシュヌールだ。もと役者……ここに誘い出した……」
 それ以上続けることはできなかった。この男も、前の二人のあとを追って息を引きとった。
「ふん」とジェヴロールが言った。「まあ、それでも何ほどかの手がかりは残してくれたな。こいつは兵隊だから、外套のボタンに刻んである所属の番号をたどれば、何者か判明するにきまっている」
 すると傍から例の警官が、
「そうはいかないと思います」と、微笑しながら口を出した。
「それはまた、どうしてだ?」
「おっしゃるとおり、確かにこいつは兵隊の服を身につけています。服装はそうですが、中身は違いますよ。この男をよく見てごらんなさい。軍隊の規則では、頭髪は短くしておかなければならないはずです。いったい、肩まで髪をたらした兵隊なんているものでしょうかね?」
 そう若い警官から指摘されて大将はたじろいだが、すぐに立ち直った。
「ご高説はうかがっておくよ。まあ、おおかた休暇中をいいことに、散髪代を倹約してやがるんだろうよ」
「でも、少なくとも……」
「おしゃべりはもういい。それよりも事の経過を調べなければならんぞ。シュパン女将は幸い死んでいない。ふん、このあばずれ婆め、立つんだ」そう言って、ジェヴロールは、ぺたんと坐りこんだままの女将の肩をゆすった。「おい、この騒ぎはどうして起った?」
「あたしは何も知りませんよ」と、歯の抜けた口でこの性悪女は答えた。「息子のポリットの古着を縫い直していたんだよ。牢屋に放り込まれているんだ。そのとき階下《した》で騒ぎが聞こえてさ、降りてみるとそこにのびている三人が、この罪もない人に喧嘩を吹っかけてるじゃあないか。それ、お前さんたちがとっ捕まえたその人にだよ。それであたしゃ、大声で助けを呼んだってわけでね。他のこたあ何にも知りゃしませんよ」
 聞き出せたのはそれだけだった。むろん殺人者からも、いっさい経緯はわからなかった。
「さきほど言ったとおり、あたしは無実だと申し上げるほかに言うことはありません。判事さんから訊かれれば答えはしますがね。だがそれまでは、もう何もしゃべるつもりはありませんよ」
「おおいに結構」ジェヴロールは、それ以上あまりしつこくは訊こうとしなかった。警官隊にてきぱきと命令した。「お前たちのうち二人だけここに残れ。わたしは他の者を引き連れて帰る。警視どのを起して、あとはその命令しだいだ。シュパン女将とこのお客人のご両人には、ご一緒願うとしよう」
 ジェヴロール警部の命令に従って、二人の警官がそれぞれ容疑者を連れてこの場を引揚げようとしたとき、例の一番若い警官がジェヴロールの前に出た。
「おい、何だ?」
「大将、この事件をどうお考えでしょうか」
「簡単な事件さ。四人の男が、このいかがわしい場所で落ちあったのさ。そのうち、仲間割れの喧嘩になって、なぐりあいになった。ところがそのなかの一人がピストルをもっていたので、他のやつを殺《や》っちまったのさ。それだけの単純な事件だ。殺人者はいずれ裁かれる。世間から鼻つまみのごろつきが何人か処分できたのだから、かえって喜ばれるさ」
「すると大将は、これ以上の捜査は必要ないと判断されておられるのですか?」
「まるで必要ないね」
 若い警官はすっかり考え込んでいるようだった。
「大将、この事件は意外に底が深いような気がしてならないのです。殺人容疑者の物腰、顔つきをごらんになって変だとお思いになりませんか? あるいはわたしの思いちがいかも知れません。でもわたしには、見たままを信じるのはどうかなと思われます。どうも、なにやらピンと来るものがあるんですよ」
「おやおや、具体的に説明してくれんかね?」
「猟犬が獲物の匂いを嗅ぎつけたとでも言うほかに、説明のしようがないのです」
 現実主義者の警察官であるジェヴロールは肩をすくめただけだった。
「ひとことで言えば、君はメロドラマ趣味にわざわいされているんだ。大貴族が変装してポァヴリエールに出向いて来て、何者かと秘密の会合をしたとでも言いたいのだろう。シュパンの居酒屋で、そんなことが起るはずがないよ。それとも、君がその証明をしてみせるかね?」
「お許しいただけるのでしたら……」
「よかろう。それほどまで熱心に言うのなら、君に捜査をまかせよう。君の同僚のなかから好きな相棒を選んでいい。その相棒とここに残って調べてもらうことにする。そして、もし何かわしの見落した事実を発見したら、この目玉の節穴ぶりを何とでも言ってもらおうじゃないか」
 ジェヴロールが無駄としか思えぬ調査をまかせた警官は、この手のことにかけてはいわば新米だった。名前をルコックという。年齢は二十五、六歳ぐらい。ひげはなく色白で、まっ黒な髪の毛が豊かに波打っていた。小柄ではあるが、均整のとれた体格の持ち主だった。そして、そのちょっとした動作からさえも、並々ならぬ意欲がうかがわれた。目先がきき、頭の回転は抜群で、捜査活動にあたってもあくまで自分独自の考えで判断し、既成の概念にとらわれ、ふり回されるようなタイプではなかった。
 ポァヴリエールの建物の前に立ちながらルコックは、警官隊が引き揚げるのをじっと見送っていたが、やがて店にもどると床を足で蹴り大声で言った。「さあこれで二人になったぞ」
 ルコックが警官隊のなかから選んだ同僚というのは、頭の働きこそあまりよくはないが、捜査の助手としてこれ以上の人材はなかった。ルコックの言いつけどおり動いてくれる男だった。五十歳ほどの好人物。騎兵隊を除隊してからパリ警視庁に入った。アブサントおやじとよばれている。なぜか理由はわからないが、この名前で通っている。
「君がおれを選んでくれて、ありがたいと思っているよ。連中がこの雪の中で、えっちらおっちらやってるってのに、こっちはぬくぬく居眠りしていられようってものだ」
「冗談じゃないよ」と、ルコックが声を大きくした。「もっと念入りに細々したことを調べるために、ここに残ったんだぜ。手がかりになる証拠を集めるんだ。警視、検屍医、予審判事が来るまで、あと何時間もないんだ。ぼくはそのとき報告書を提出するつもりだ」
「すると君は、大将が見落した何かを見つけだそうというわけか?」
「大将だってまちがうことはあるさ。まず手はじめにおやじさんの意見を聞いておくがね、例の逮捕された男のことをどう思うかね?」
「船場の人足か屑拾いだね」
「教育のない男だというのだね?」
「そうさ」
「よかろう。ぼくはおやじさんの考えと反対の証拠をあげてみせるよ。逮捕されたときにしゃべった言葉を思い出してみろ」
「やって来たのはプロシア兵だ、か。要するにおれたちを罵《ののし》ったのさ」
「まるで違うね。フランスが敗北した、あの恐ろしい事件のことを聞いたことがないとでもいうのか。ワーテルローの戦いのことさ」
「ああ、その戦争のことなら知っている。でも、それとこれと、どんな関係があるんだ?」
「それなら、ワーテルローの戦いは最初フランス側が勝利をかち得るかと思われたことも知っているだろう。イギリス兵は切り崩され、ナポレオン皇帝が『勝利をつかんだ!』とさけんだときのことだ。突然右翼から、一団の兵が姿を現わしてこっちに向って突進して来た。この一団がプロシア兵だった。ワーテルローの戦いはこうして敗れたのだ」
「わかったぞ。するとあの男の言葉は何かの暗示だったのだな」
「ぼくの話を最後まで聞いてくれ。ナポレオン皇帝がそのプロシア兵の出現に呆然となったというのも、その方角からグルーシイ将軍の率いる三万五千の軍隊がやって来るものと期待していたからだ。そこへプロシアの兵隊が現われた。もしあの男の暗示が正しいとすれば、味方が来るのを待っていたところに警官隊が現われた、ということにならないかな」
「なるほど、たいしたものだ。どぎもを抜かれたよ」アブサントがほめた。
「さらにいわせてもらえば、考えれば考えるほどおかしいことばかりさ。たとえばなぜあの男が逃げようとしないで、残ったままで大将と押し問答をしたかということだ」
 アブサントおやじは席から立ち上がり、ルコックの話をさえぎった。
「なぜだって? 共犯者がいたんだ。そいつらが逃げおおせるよう、時間をかせいでいたのさ。そうに決まっているじゃないか」
「ぼくが言おうとしたのもそれだよ。そのとおりかどうか確めるのは造作もないことだ。まだ外には雪がつもっているからな」
 アブサントが灯りを手に持って、ルコックのあとに続く。二人はドアのほうに急いだ。それは建物の裏手に出られるもので、小さな庭に通じている。そのあたりは、雪がまだ解けていなかった。くまなく地面をおおった白い雪の表面に、無数の足跡が残っている。ルコックはズボンが濡れるのもかまわず、ひざまずいてその足跡を調べた。短い時間ですませ、すぐにルコックは立ち上がった。
「男の足跡ではない。女のだよ」
「なに、女の足跡だって。こいつはすてきな事件だぞ。女がからんでるとはね」

……巻頭より

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