モーム短編集

「手紙/環境の力」

モーム/西村孝次訳

ドットブック版 124KB/テキストファイル 61KB

300円

サマセット・モーム William Somerset Maugham(1874〜1965)は今世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。甘さとペーソスの底には一貫してニヒルなリアリズムが横たわっている。イギリスの作家中、現在でも最も広い読者層をもっている。代表作 「人間の絆」「月と六ペンス」「お菓子とビール」のほか、数多くの多彩な短編も有名で、この「手紙」などは、その中の代表作として知られる。
立ち読みフロア
 埠頭(ふとう)には烈しい日ざしが照りつけていた。雑沓した大通りをトラックやバス、自家用車にハイヤーなどの車がひっきりなしに往き来し、運転手はみな警笛を鳴らしていた。人力車が軽い足どりで人ごみのあいだを縫って行くし、苦力(クーリー)たちは息を切らしながら互いに叫び合っている。重い袋をかついだ苦力たちは、小走りに駈け抜けながら通行人に、どいた、どいたとどなっている。行商人が大声で品物の名を呼び立てている。シンガポールは何百という人種の交流点だ。だからあらゆる色の人種が、まっ黒なタミル人、黄色い中国人、褐色のマレー人、アルメニア人、ユダヤ人やベンガル人が、声を嗄らして互いに呼び合っている。しかしリプリー・ジョイス・アンド・ネイラー法律事務所のなかは快い涼しさであった。ぎらぎらした埃(ほこり)っぽい外の通りから入ってくるとうす暗く、表の絶えまない喧騒にひきかえて気持ちよくしずかだった。ジョイス氏は私室で、テーブルを前に、扇風機の風を真正面から受けていた。悠然と椅子によりかかり、両肘を肘かけにかけたまま、のばした両手の指先をきちんと組み合せている。正面の長い棚に並んでいる壊れかかった判決録に視線が注がれている。戸棚の上には、さまざまな弁護依頼人の名前を入れた漆塗(うるしぬ)りの四角なブリキの箱が載っていた。
 ノックの音がした。
「お入り」
 白の麻服を着こなした中国人の書記が扉をあけた。
「クロスビーさんがお見えになりましたが」
 きれいな英語で、一語一語に正確なアクセントをつけて話す、そしてジョイス氏はその言葉の豊富なのによく驚いたものだった。王芝孫(ワン・ジェスン)は広東(カントン)の生れだが、グレイズ・インで法律を勉強した。将来は自分で法律事務所を開くつもりで見習いのためにこの一、二年リプリー・ジョイス・アンド・ネイラーで働いているのである。勤勉で、まめで、まず模範的な人物であった。
「お通しして」ジョイス氏はいった。
 立ち上って来訪者と握手をすると椅子をすすめた。腰をおろすと客は光を受けた。ジョイス氏の顔は影になったままだった。生れつき無口な男で、今もまる一分間も物もいわずにロバート・クロスビーをじっと見ていた。クロスビーは、優に六フィートをこえる大男で、肩幅の広い、たくましい体格だった。ゴムの栽培をやっているのだが、しょっちゅう栽培地を歩き廻っている運動や、一日の仕事が終ると楽しみとしているテニスで、みごとな体である。すっかり日焼けしている。毛深い手、不恰好な深靴をはいた足はとてつもなく大きく、あの大きな拳骨を一撃くらおうものなら、ひ弱いタミル人などはひとたまりもなくお陀仏になるだろう、などとジョイス氏はぼんやり考えていた。しかしその青い目にはそんな獰猛(どうもう)な色はなかった。ひとを信じきっているやさしい目つきである。大柄な、これといって特長のない造作の顔は、あけっぱなしで、率直で正直だった。だがこのときの顔には何か深い悩みの色が浮んでいた。ゆがんでおり、やつれていた。
「ここ一晩か二晩おちおち寝てないといったような様子ですな」ジョイス氏はいった。
「そうなんだ」
 このときジョイス氏は、クロスビーが卓上に置いていた鍔広(つばひろ)の、古いフェルト帽に気がついた。それからクロスビーのはいている、赤毛の毛脛(けずね)を丸出しのカーキ色の半ズボンや、ノーネクタイに開襟(かいきん)のテニス・シャツ、袖口を折りかえした汚れたカーキ色の上衣などをひとわたり見まわした。ゴムの木々のなかをさんざん歩きまわったその足でやってきたとでもいった恰好だった。ジョイス氏はかすかに眉をひそめた。
「しっかりなさらなくちゃあ、ねえ。気をおちつけなくっちゃあ」
「なあに、大丈夫さ」
「奥さんにお会いになりました、今日?」
「いや、今日の午後会うことになってるんだが。ねえ君、とんでもない話だよ、あれを逮捕するなんて」
「やむをえなかったんでしょうな」ジョイス氏は例の穏やかな、しずかな調子で答えた。
「保釈で出すくらいにはしてくれそうなもんだと思ってたんだがね」
「非常に重大な事件ですからねえ」
「ひでえもんだよ。あれはだね、ああした場合ちゃんとした女なら誰だってすることをしただけだよ。ただね、十人の女が九人まではその勇気がないというまでのことさ。レズリーみたいなあんなおとなしい女ってあるもんじゃない。蝿一匹だって殺しゃあしない。まったく、癪(しゃく)にさわるったら、ねえ君、あれと一緒になって十二年にもなるんだぜ。あれのことがわからないと思うかい? ちくしょう、もしこのおれがその野郎をひっ捉(つかま)えてでもいろ、首っ玉をねじ上げて四の五のいわさずたたき殺してしまってやるんだが。君だってそうするだろ」
「なあに、みんなあなたの味方をしてますよ。ハモンドのことをよくいう人間なんてひとりもいませんや。私たちは奥さんが出られるようにしようと思ってるんです。陪審員だって裁判官だって法廷に出ないさきにちゃんと無罪の判決を下す腹をきめていると思うんですがねえ」

……《手紙》冒頭より


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