「心は孤独な狩人」

カースン・マッカラーズ/河野一郎訳

ドットブック版 419KB/テキストファイル 300KB

800円

舞台はジョージア州のうらぶれた工場町。人々は無気力な状態にある。主人公の唖(おし)で聾(つんぼ)のシンガーは、同じく唖のアントナープロスと共同生活をおくり、思慕を寄せるが報われない。そのシンガーに、多感な少女ミックはほのかな思いを寄せるが、当のシンガーは少女の思慕に気づかない。またそのミックに、ニューヨーク・カフェの主人ビフ・ブラノンは年甲斐もなく愛情を感じているが、ミックは彼を気味悪く思うばかり。作中人物はそれぞれが《報われざる愛》の連鎖関係のなかに生き、そこに解決はない……魂の孤立を透徹するまなざしで描ききった20世紀アメリカ文学の代表的古典。

カースン・マッカラーズ(1917〜67)アメリカの女性小説家。コロンビア大卒。処女作「心は孤独な狩人」で一躍みとめられ、以後一貫して、聾唖者や精神薄弱者などハンデを負った人たちを主人公に、人間の孤独を掘り下げた作品を書き続けた。代表作は他に「 夏の黄昏(結婚式の メンバー)」「悲しきカフェのうた」など。

立ち読みフロア

 町にはふたりの唖(おし)がいた。ふたりはいつもいっしょだった。毎日朝早く家を出ると、腕を組んで町の通りを働きに出かけた。しかし友人同士とはいえ、まるで違ったふたりだった。舵(かじ)取り役は、でぶでぼんやりとしたギリシア人だった。夏になると、彼は黄色か緑のポロシャツの前をぞんざいにズボンにたくしこみ、うしろはだらりと垂(た)らしたまま家から出て来た。陽気が寒くなると、その上に不恰好な灰色のセーターを着こんだ。てかてか光る丸顔の男で、目をなかば閉じ、口もとは間のぬけた穏やかな微笑にゆがんでいた。相棒のほうは背が高かった。目にも機敏で聡明(そうめい)な表情があった。いつもきちんとしていて、いたって地味な身なりだった。
 毎朝、ふたりの友人は押し黙ったまま、つれだって町の本通りまで歩いて行く。やがて、くだものや菓子を売る、とある店の前まで来ると、ふたりはおもての歩道にちょっと立ちどまる。ギリシア人のスピロス・アントナープロスは、このくだもの屋の持主である従兄(いとこ)の手伝いをしていたのだ。菓子を作ったり、くだものの箱をあけたり、店の掃除をしたりするのが彼の仕事だった。やせたほうの唖のジョン・シンガーは、相棒と別れる前、たいていきまって片手を相手の腕にかけ、ちょっと顔を見つめた。この別れがすむと、シンガーは通りを横切り、銀製品の彫刻師として働いている宝石店へ、ひとりで歩いてゆくのだ。
 夕刻になると、ふたりはまた落合った。シンガーはくだもの屋までやって来て、アントナープロスの仕事がひけるのを待った。ギリシア人は桃やメロンの箱をものうげにあけたり、菓子を作る店の奥の台所で漫画新聞を眺(なが)めたりしている。つれだって帰る前に、アントナープロスはきまっていつも、昼間台所の棚(たな)に隠しておいた紙袋の口をあける。袋の中には、くだものやキャンデーの見本、レバーソーセージの切れはしなど、彼の集めておいたさまざまな食べ物がはいっていた。たいてい店を出る前に、アントナープロスは肉やチーズの入れてある店頭のガラス・ケースのところへそっと歩み寄る。そしてケースのうしろをあけると、肥(ふと)った手をさしこみ、前々から目をつけていたおいしい食べ物を、さもいとしげに手さぐりするのだ。ときには、店のあるじである従兄の見ていないこともあった。しかし気がつくと、従兄は青ざめたきつい顔に警告の表情を浮かべてにらみつけた。アントナープロスは悲しげに、目的の食べ物をケースの隅(すみ)から隅へと移すのだった。そのあいだ、シンガーは両手をポケットに入れてまっすぐに立ち、そっぽを向いていた。ふたりのギリシア人のあいだの、この小さいいさかいを見るに耐えなかったのだ。酒を飲むことと、ひそかな自分ひとりの楽しみをのぞくと、アントナープロスのこの世での楽しみは、もっぱら食べることにあったからだ。
 たそがれた中を、ふたりの唖はゆっくりと家路をたどった。家の中でしじゅう語りかけるのは、シンガーのほうだった。彼の両手がすばやく動き、さまざまな形を描き言葉を形づくった。真剣な顔に、灰色がかった緑色の目がキラキラ輝いた。やせた力強い手で、彼はアントナープロスに、その日起こった出来事を残らず語って聞かせるのだった。
 アントナープロスはものうげに椅子にもたれかかり、シンガーを見つめた。彼はめったに、両手を動かし話しかけようとしない――話しかけるのは、何か食べたいか飲みたいか寝たいかを伝えるときだけだった。その三つを、彼はいつも同じ、はっきりとしない、ぎこちない手つきで伝えた。夜になり、あまり酔っていないときは、彼はベッドの前にひざまずき、しばらくのあいだお祈りを捧(ささ)げるのが常だった。彼のむっくりとした両手が、「聖なるイエス」とか、「神様」とか、「聖母マリア様」などの言葉を描いた。アントナープロスの話す言葉は、それでぜんぶだった。せっかく自分の語ったことが、はたしてどれだけ友人に理解されているのか、シンガーにはまったくわからなかった。しかし、それはどうでもいいことだった。
 ふたりは、町の商店街に近い小さな家の二階に住んでいた。二部屋の下宿だった。台所の石油ストーブの上で、アントナープロスはふたり分の煮炊(にた)きをやった。台所には、シンガーの使っている背のまっすぐな粗末な台所用椅子と、アントナープロス専用の厚い詰め物をしたソファが置かれ、寝室には、大柄なギリシア人用の羽根ぶとんのかかった大きなダブルベッドと、シンガーの狭い鉄製ベッドが置かれていた。
 夕食はいつも長い時間かかった。食い道楽のアントナープロスが、食べるのにひどく手間どったからだ。すっかり食べ終わると、大柄なギリシア人は自分のソファに寝そべり、一種の身だしなみか、食事の味わいをなつかしんでいるのか、舌先で歯を一つ一つゆっくりとなめまわした――そのあいだ、シンガーは皿洗いに忙しかった。
 夕食後、ふたりはチェスをさすこともあった。むかしからチェスの大好きなシンガーは、何年か前、アントナープロスにもさし方を教えようとした。はじめのうちアントナープロスは、さまざまな駒(こま)を盤上で動かすことに興味を持たなかった。そこでシンガーは、上等な酒の瓶(びん)を机の下にしまっておき、一レッスンすむごとにそれを取出すことにした。ギリシア人には、奇妙な動きをするナイトや、盤上を広く動きまわれるクイーンなどがのみこめなかったが、やがて最初の何手か定石どおりの駒の動かし方を覚えた。彼は白い駒が好きで、黒い駒がくるとゲームをやろうとしなかった。最初の何手かをさしたあとは、シンガーが自分ひとりでゲームをすすめ、相手はそれを眠そうな目で眺めていた。シンガーが白駒で自分の駒を果敢に攻撃し、ついには黒のキングを倒してしまうと、アントナープロスはしごくご機嫌(きげん)で得意そうだった。
 ほかに友人のなかったふたりの唖は、働きに出ているときのほかはいつもふたりきりだった。くる日もくる日も、似たような日のくり返しだった――ふたりだけですごすことが多かったため、じゃまのはいることもなかったのだ。週に一度は図書館へ出かけ、シンガーが推理小説を借り出し、金曜の夜には映画を見に行った。そして給料日には、きまって陸海軍購買組合売店の上にある十セント写真館へ行き、アントナープロスは写真をとってもらった。彼らの行きつけの場所はこれだけだった。町にはふたりの見たこともない場所が、まだたくさんあった。
 最南部のまん中に位置した町だった。夏は長く、寒い冬の季節はごくみじかかった。ほとんどいつも、空はガラスのように青く輝き、太陽はどぎついまばゆさで地上を焦がした。やがて十一月の冷たい霧雨(きりさめ)の訪れとなり、つづいて霜がおり、みじかい寒さの季節となる。変りやすい冬の空模様にくらべ、夏は常に灼(や)けつくような暑さだった。町はかなり大きかった。目抜き通りには、二、三階建ての店や事務所が数区画にわたって並んでいる。だが、町でいちばん大きな建物は工場であり、町の人間の大半が雇われていた。こうした紡績工場は規模も大きく栄えていたが、町に住む工員たちは大部分がきわめて貧しかった。通りを行く人びとの顔には、しばしば飢えと寂しさのせっぱつまった表情が見られた。
 だが、ふたりの唖はすこしも寂しさを感じていなかった。家でくつろぐふたりは飲み食いに満足し、シンガーは両手を使い、考えていることを残らず友人に熱をこめて物語った。こうして月日は平穏のうちにすぎ、やがてシンガーも三十二歳、アントナープロスとこの町に暮らすようになって十年の歳月がたった。
 そうしたある日、アントナープロスは病気になってしまった。彼は両手を肥(ふと)った腹にあててベッドの上に起き上がり、大粒の涙が油の垂れるように頬(ほお)を伝った。シンガーはくだもの屋をやっている従兄に会いに行き、自分の店からも休暇をもらうことにした。医者は食養生の指示を与え、酒を禁じた。シンガーは厳格に医師の指示を守った。一日じゅう友人のそばにすわり、時間が早くたつようできるだけのことをしたが、アントナープロスは怒ったように横目で彼をにらみつけ、心なぐさまぬようであった。
 ギリシア人はいたって気むずかしくなり、シンガーの作ってくれるくだものジュースや食べ物に、いちいち難くせをつけた。お祈りをしたいと言っては、ベッドからおりるのにしじゅう相棒の手を借りた。床にひざまずくと、彼の大きな尻(しり)はぽっちゃりした両足の上にだらしなく垂れ下がる。彼は両手をもぞもぞ動かして「聖母マリア様」ととなえ、きたない紐(ひも)で首からぶら下げた小さな真鍮(しんちゅう)の十字架に手を持ってゆく。その大きな目は、おののきの表情をこめて天井を仰いだ。お祈りのあとはひどく不機嫌になり、相棒が話しかけるのも許さなかった。
 シンガーは辛抱強く、できるかぎりのことをしてやった。ちょっとした絵心のあった彼は、あるとき友人を慰めるため、その肖像画を描いてやった。ところがせっかくの肖像画は、アントナープロスの気持ちを傷つけてしまい、シンガーが顔をうんと若く美男子に、髪の毛をまばゆい金髪に、目をまっ青(さお)に描き変えるまで、つむじを曲げたままだった。描きなおしたあとも、彼はうれしそうなようすを見せようとしなかった。
 シンガーの献身的な看病のおかげで、一週間もするとアントナープロスはまた仕事に戻れるようになった。だがそれ以来、ふたりの生活は変ってしまった。困った事態が訪れたのだ。

……巻頭より

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