「ロード・ジム」(上下)

コンラッド/蕗沢忠枝訳

(1)ドットブック 220KB/テキストファイル 195KB
(2)ドットブック 216KB/テキストファイル 191KB

各500円

コンラッドはこの作品によって、海洋冒険物語を、名誉と勇気、忠節と裏切りの深い意味をもつ物語に変えた。理想主義肌の商船の一等航海士ジムは、沈没の運命にあった「パトナ号」と船客たちを見捨てることで、若き日の栄光への夢を見捨てた。法廷で「臆病」の烙印を押されたとき、ジムは極東での放浪の暮らしに活を見出そうとする。コンラッドの『闇の奥』と同じ語り手マーロウは、社会に拒否されながら、なお償いへの欲求につかれた男の、不可思議な心のうちに探りをいれていく。コンラッドの代表作。

ジョーゼフ・コンラッド(1857〜1924) ポーランド生まれの英国の作家。帝政ロシア支配下の南ポーランドに貴族の息子として生まれた。11歳で孤児となり、母方の伯父の家に引き取られる。のちイギリス船員になり、8年後イギリスに帰化し、結婚して作家生活に入った。名前もそのころに英国風に改めた。処女作「マライ群島のキプリング」が賞讃をもって文壇に迎えられ、以来、未完の長編「サスペンス」を残して急逝するまで、多くの長編、短編、評論、劇作を発表し、イギリスを代表する作家となった。代表作「闇の奥」「密偵」「ロード・ジム」「ナーシサス号の黒人」など。

立ち読みフロア
第一章

 彼は、六フィートよりたぶん一インチか二インチ低く、逞しい骨格で、わずかに肩をかがめ、頭を前につき出して、突進してくる牡牛を連想させる、下から見据えるような動かない視線で、まっすぐ進んで来た。
 彼の声は深く、大きく、彼の動作は、少しも不愉快さを含まない一種の頑固な自信を見せていた。それは、ごく自然で、明らかに、他の人に対すると同様に、自分自身に向けられたもののようだった。
 彼は一点のしみもないほど清潔で、頭の上から足の先まで純白の衣服をまとい、船具会社の水上店員として生活していたいろいろな東洋の港で、大そう人気があった。
 水上店員は、およそ天下になんの試験もパスする必要はなかったが、しかし、この職業の人間は抽象的な才能を持ち、それを実践で証明しなければならなかった。水上店員の仕事は、海に投錨しようとする船が現われると、他の諸会社の水上店員を抜いて、帆にしろ、蒸気にしろ、オールを漕ぐにしろ、とにかくレースに勝ってその船に一番乗りをし、その船の船長に愉快に歓迎の挨拶をし、彼にカードを――つまり、船具商店の取引きカードを――押しつけ、そして、船長が初めてその海岸に来た場合に、彼が船で食べたり飲んだりできるさまざまの品が一ぱい詰まっている、大きな大洞窟のような自分の店へ、断固として、しかし生意気でなく、案内してくるのが役目である。
 この店で、船長は、船を航海に耐える、美しい船にするありとあらゆる物品を、船の大索(おおづな)につける鎖ホックの一式から、船の船尾(とも)彫刻の図案をあつめた金箔装の本にいたるまで手に入れることが出来、一度も会ったことのない船具店主から兄弟のごとくに迎えられるのである。
 ここには、涼しい客間、安楽椅子、各種の酒瓶、葉巻、書き物用具一式、港規則の写し、それと、海員の心から、三カ月の航海の苦塩を溶かすあたたかい歓迎とが、待っている。
 こうして一度つけられたコネは、その船が港にいる間じゅう、水上店員か毎日船を訪問することで保持される。
 水上店員は、船長にとって、よき友のごとく忠実で、息子のごとく魅力的であり、ヨブ〔旧約聖書ヨブ記の主人公、忍耐と信仰の典型とされている〕のごとく忍耐づよく、女のごとく献身的で、愉快な飲み友達のごとく楽しい人物でなければならない。あとから、請求書は送られる。
 それは美しい、人間味のある職業である、それだけに、よい水上店員は逸品である。
 こういう抽象的な才能のある水上店員が、また海員として育てられたという特点を持っている場合は、彼は、傭い主にとって多額の金を払い、かなり機嫌をとってもかかえられるだけの値打ちがある。ジムはいつも高いサラリーと、悪魔でも忠誠をつくさずにいられない程、大事にされて傭われていた。
 が、それにもかかわらず、彼は、恩知らずもいいところ、とつぜん、仕事を投げ出して行ってしまうのだった。彼の傭い主たちにとっては、ジムの言う退職の理由は、まるで不得要領だった。傭い主たちは、彼が背中を向けて立ち去るや否や、呆れて「忌々しい大馬鹿野郎!」と言った。これが、ジムの絶妙な感受性にたいする彼等の批判だった。
 海岸の商業にたずさわる白人や、船の船長たちにとって、彼はただジムで――それっきりだった。もちろん、彼はちゃんと別の名前を持っていたが、彼は懸命に、その本名を言われまいとしていた。
 篩(ふるい)のように穴だらけの彼の匿名は、人柄を隠すためではなく、ある事実を隠すためだった。その事実が匿名の穴を押し分けてもれると、それがどこで起きようと、彼はいつあたふたとその港を去って、別の港へ行くのだった――大てい、更に東の方へ。でも彼はいつも港から離れなかった。それは、彼が海から追放された海員で、抽象的な才能を持っていたからで、水上店員の仕事にしか適さなかったからである。
 彼は、いつもあとを濁さず、整然と陽の昇る方へ向かって東へ東へと退却して行き、匿した事実は、いつも思いがけなく、しかも不可避的に、彼を追いかけていくのだった。
 こうして、数年のうちに、彼はつぎつぎと、ボンベイ、カルカッタ、ラングーン、ペナン、バタヴィアで知られ――こうした碇泊地の各所で、彼はただ水上店員ジムで通ってきた。

……冒頭より

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