「ピーター卿乗り出す」

ドロシー・セイヤーズ/小山内徹訳

ドットブック版 176KB/テキストファイル 158KB

500円

セイヤーズの処女長編で、原題はWhose Body?(だれの死体?)。若い建築家の住むアパートの浴室で、ある朝、男の全裸死体が見つかる。身につけていたのは鼻眼鏡と金鎖だけ。たまたま前夜、金融界の大御所が謎の失踪をしていたが、関係があるのか、ないのか? 死体はその男というわけでもなさそうだ…貴族探偵ピーター・ウィムジー卿はふとした機縁から、この事件を手がけることに。執事バンターとの息のあったやり取りはユーモラスで、余裕を感じさせるが、はたして首尾は?

ドロシー・セイヤーズ(1893〜1957)英国を代表する女流ミステリ作家で、黄金時代にはクリスティと人気を二分した。東部イングランドの沼沢地で育ち、オックスフォード大学では中世文学を専攻した。卒業後の数年間はロンドンの広告会社でコピーライターをしていたが、23年に「ピーター卿乗り出す」でミステリ作家としてデビュー。以後、この処女作に登場するピーター・ウィムジー卿を主人公にして、ほとんどの長篇と短篇を書いた。代表作「ナイン・テイラーズ」「毒」「死体を探せ」「大学祭の夜」など。しかし1940年にはミステリから手を引き、ダンテの「神曲」の翻訳に従事したが、「地獄編」「煉獄編」と完成し、「天国編」を途中まで完成した時点で心臓麻痺で死亡した。きわめて優れた、ミステリのアンソロジー編者としても知られている。

立ち読みフロア

「あっ、しまった」
 ピカデリー広場のところで、ピーター・ウィムジー卿は大声をあげた。
「君、運転手君」
 呼びかけられた運転手は、ちょうど車が櫛(くし)の歯をすくような錯雑した曲り角を横切り、下(しも)リージェント街に向っているときだったので、いやいや耳を傾けた。
「目録を忘れてきてしまった」
 おだやかな声でピーター卿は話しかけ、
「我ながら実に不注意千万、君、すまんが、乗ってきたところへ車を戻してくれたまえ」
「サヴィル・クラブへ行くんでしょう、旦那?」
「いやいや、ピカデリーの百十番地だ、乗ってきたところは。すまんな」
「あっしゃね、お急ぎかと思ってたんですぜ」
 運転手は、馬鹿をみたという調子で答えた。
「引きかえしてもらうには厄介なところだが……」
 いかにも案じ気にピーター卿はいった。彼にしてみれば、まるで車が牛の歩みのように思えたからであった。
 巡査の眼の下をかいくぐるように、タクシーは歯ぎしりのようなひびきを立て、方向を転じた。
 新装の、しかも高級なアパートの三階にピーター卿は住んでいた。彼の部屋には永年来の蒐集品が山と積まれていた。
 一歩足をふみ入れようとしたピーター卿は、図書室からの下僕の声を耳にした。それは手馴れた男が押し殺すようなはなしぶりで電話している声であった。
「旦那様は、もうお戻りのはずでございます、大奥様、少々電話をそのままお切りいただかずにおきますならば……」
「何だい、バンター?」
「デンヴァーーから大奥様のお電話でございます、旦那様。競売におでかけになりましたと申しあげようといたしておりますと、外から戸をおあけになる旦那様の鍵の音を耳にいたしましたもので……」
「いや、ありがとう」ピーター卿はこういってから「すまんが、僕の目録を探してくれないか? たぶん寝室か、でなければ机の上におき忘れたようだ」
 彼は、さもたのしい無駄ばなしに仲間入りするように、電話を手にした。それでいて礼儀正しく、ゆっくり、
「母上――ですね」
「ああ、お前なのね」デンヴァーー公爵未亡人の声が答えた。「一足ちがいになったのかと思いましたよ」
「いや、実のところはそうだったのです。僕はブロックスベリの売立てで一、二冊本を掘りだしに出かけたところでした。ところが目録を忘れたのでとりに戻ったところなのです。何かあったのですか?」
「こんなおかしなことってあるかしら?」公爵夫人はいって「それで私はお前にはなそうと思ったのよ。お前、若いティップスさんを知っているだろう?」
「ティップス?」ピーター卿はそういうと「ティップスですね、あ、ええ、教会の屋根の仕事をしている若い建築屋ですね。ええ、彼がどうしたんです?」
「スログモートン夫人が今みえて、とても心配しておられるの……」
「失礼、母上、よく聞こえませんでしたが、何夫人ですって?」
「スログモートン――スログモートン、牧師様の奥様よ」
「ああ、スログモートンですか、わかりました」
「ティップスさんが、今朝電話をかけてきたの。今日は仕事にくる日だったのよ、知ってるでしょう」
「それで?」
「電話をかけてきて、こられないといったんです。可哀そうに、とてもあわててて。彼は浴室で死体をみつけたんですよ」
「失礼、母上、よく聞こえませんでした。何をみつけたんですって、どこで?」
「死体ですよ、お前、浴室で――」
「何ですって? ちがうちがう、まだ電話中だよ、電話を切らないでくれたまえ、もしもし、母上ですか? もしもし? 母上ですね? ええ、いや失礼しました、交換手が電話を切ろうとしたもので。それで、その死体というのは?」
「死んでる男の人のだよ。お前それが、鼻眼鏡の外には何一つ身につけていないんだって。スログモートン夫人は、私に話しながら赤面していたけれど、教区牧師館のがちがちたちが、どううけとるか、それが私の心配さ」
「なるほど少々常軌を逸してますね。それが誰だか彼は知らないんですか?」
「そのようよ、お前。もちろん、彼は夫人にくわしいことをはなさなかったのだよ。ティップスさんは、てんやわんやだと夫人はいってるの。彼はね、まっとうな若者だし、それにおまわりさんが来ていたりして、本当に心配らしいのさ」
「気の毒なことですね。全く処置に困ったでしょうな。ええと、彼はバターシーに住んでいたんじゃありませんでしたか?」
「そうだよ、お前、クイン・カロリーヌ館の五十九号だよ。公園の反対側のね。病院の角を曲がった、あの大きな一画さ。たぶんお前はすぐに行って彼に逢ってやり、何か私たちにできることがあったらと、きいてくれると思うのだけど。私はいつだって彼のことを好い若者と思っているものね」
「おっしゃる通りです」ピーター卿はうなずいて答えた。
 いつも公爵夫人は彼の趣味である犯罪研究のすばらしい助手だったが、決してそれをひけらかすようなことはなかった。そして常に完全犯罪はありえないと主張していた。
「母上、それは何時ごろおきたことなのです?」
「彼が死体を発見したのは今朝早くだと思うのだけど、むろん、すぐにスログモートンさんのところへ知らせたとは思われないよ。だって、夫人が私のところへやってきたのが、お昼のちょっと前でしょう、いやーね、私は待たせてあるの。運のいいことに、私一人だったのよ。私は自分が退屈するのは構わないけど、お客さんを退屈させる気はないのよ」
「ご親切にどうも、母上、わざわざおしらせ下さって感謝します。じゃあ僕は競売のほうはバンターにまかせて、大急ぎでバターシーに行って、その哀れな若者をなぐさめてやることにします、さようなら」
「ご機嫌よう、お前」
「バンター」
「はい、旦那様」
「母上のはなしだと、バターシーの実直な建築屋が、自分の浴室で死人をみつけたとおっしゃる」
「さようでございますか、旦那様? それではさぞやお喜びでございましょう」
「バンター、うまいぞ、お前は時宜にふさわしい言葉を使うな。立派な教育をうけた奴でも、そううまくいいあらわせるものではない。ところで、目録はみつかったろうな?」
「ここにございます、旦那様」
「よろしい、僕はすぐにバターシーに出発する。お前は僕の代りに競売へ行ってくれ。ぐずぐずしないでだ――僕はダンテの二折本〔原註 これはニコロ・デイ・ロレンツォによる一四八一年のフィレンツェ初版本である。ピーター卿のあつめたダンテ本は高く評価されている。それにはさらに一五〇二年の有名なオルデイン八巻や、一四七七年のナポリ二折本も含まれている〕とか、ドヴォラジンを手に入れたいんだ、わかったな? 黄金伝説の一四九三年の「ウィンキン・ド・オルド」これは手に入るかな? それからカックストン版の「エイモンの四人の息子たち」を手に入れるため、特に骨を折ってもらいたい。それは一四八九年版で一冊しかないものだ。これをみてくれ、僕は色々手に入れたいものに印をつけておいた。印のついていないのでも一々注意してくれたまえ。全力を捧げてね、僕は夕飯までには戻ってくる」
「かしこまりました、旦那様」

……巻頭より

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