「死体を探せ」

ドロシー・セイヤーズ/宇野利泰訳

ドットブック版 244KB/テキストファイル 243KB

700円

海辺を散策していた推理作家ハリエット・ヴェーンは、遠望する岩礁のうえに動かない人物を発見した。それは喉を剃刀で切られた男の死体だった。だが、浜辺には男のものと見られるひとすじの足跡しかなかった。やがて死体は満ちてきた潮に流されて行方不明になる。……錯綜する謎また謎。ピーター卿はこの難事件を解けるのか? シリーズ屈指の重厚な長編。

ドロシー・セイヤーズ(1893〜1957)英国を代表する女流ミステリ作家で、黄金時代にはクリスティと人気を二分した。東部イングランドの沼沢地で育ち、オックスフォード大学では中世文学を専攻した。卒業後の数年間はロンドンの広告会社でコピーライターをしていたが、23年に「ピーター卿乗り出す」でミステリ作家としてデビュー。以後、この処女作に登場するピーター・ウィムジー卿を主人公にして、ほとんどの長篇と短篇を書いた。代表作「ナイン・テイラーズ」「毒」「死体を探せ」「大学祭の夜」など。しかし1940年にはミステリから手を引き、ダンテの「神曲」の翻訳に従事したが、「地獄編」「煉獄編」と完成し、「天国編」を途中まで完成した時点で心臓麻痺で死亡した。きわめて優れた、ミステリのアンソロジー編者としても知られている。

立ち読みフロア
一 死体の話

 六月十八日、木曜日

 傷愴(しょうそう)のこころを癒す最良の方法は、ふつう考えられているように、その打撃にめげずに、忘却に努めることよりも、むしろ、一心不乱に仕事に打ちこむに越したことはない。その結果、富と名声まで獲得できるようなことになれば、こんな効果的なやり方はないといえよう。女流小説家ハリエット・ヴェーンも、愛人殺害の容疑が晴れると、さっそくこの手段を採用して、原稿執筆に没頭した。その結果は、思わぬ成果まであげることができた。この間、例のピーター・ウィムジー卿が、貴族たるその身分にふさわしく慇懃丁重(いんぎんていちょう)に、しかも熱烈に求愛の手を差し伸べてきたが、彼女はそれに、心を動かされることもなくて済んだ。
 著作は相ついで出版された。彼女自身が殺人事件の容疑を受けて苦しんだことは、探偵小説の作者として、この上もない宣伝になったのだ。出版界には、ハリエット・ヴェーン旋風が巻き起ったといっても過言ではなかった。米仏両国の出版社からまでも、驚くほどの好条件で執筆依頼が殺到して、いつか彼女は、夢にも思わなかった富裕な身分になっていた。
 しかし、さすがに彼女も疲れたとみえて、『連続殺人事件』を完成させて、『万年筆殺人事件』の執筆に移る前、寸暇を利用して、ひとり徒歩旅行に出た。時は六月、天候は上々だった。おそらくピーター・ウィムジー卿は、留守になった彼女の部屋に、日夜しきりに、電話してくるにちがいなかったが、彼女は別に、それを気にすることもなく、風光明媚なイギリス西海岸を、誰に煩わされることもなく、しずかな旅をつづけていた。
 六月十八日の朝、彼女はレストン・ホウを出発して、海に沿った崖道を南にむかった。十六マイルさきには、ウィルヴァクムの町がある。それは、彼女の旅行目的のひとつだった。西海岸に散在する避暑地のひとつで、大都会から離れているので、慎ましやかなものではあるが、それでもシーズンの頃になると、近隣のここかしこから、中産階級の老女や子供たちが集まって、豪奢な避暑地風景を真似た可憐な世界を展開するのである……道が高い崖鼻をまわると、眼のとどくかぎり、黄いろい砂浜が展開している。さんさんたる初夏の太陽の下に、ところどころに巨岩が海中に突出して、寄せては砕ける波頭に、絶えずまっ白い飛沫をあげていた。
 空は果てしなく澄んで、ちぎったような薄い雲が、ごく高いところに浮かんでいて動かない。微かな風が西から吹きはじめたのでこの地方の漁夫たちならば、やがて天候が変ると察知したかも知れないが、とにかく彼女にとっては、この上もなく楽しいハイキングであった。道は狭くて、鋪装もなにもあったものではないが、大型トラックは残らず、もっと海から遠い本街道を通っていくので、何に煩わされるおそれもなく歩くことができる。ごみごみした村や町は、ことごとく本街道に沿っているので、この曲りくねった街道には、小さな村が忘れられたように点在しているだけだった。
 犬を連れた羊飼いが、彼女を追い抜いていった。犬も人も、彼女などふり返りもしない。道の端で、草を食(は)んでいた二匹の馬が、おどおどした眼をあげて、彼女の姿を見送っていた。農家のわきを通るとき、牛が石の塀に顎をこすりつけるようにして、にぶい声で鳴いた。ときどき思い出したように、漁船の白い帆が、水平線を横切っていく。たまにすれちがう行商人の自転車。追い抜いていく毀(こわ)れかかった古自動車。はるか彼方に、白い煙を吐く汽車が見えて、二百年むかしの田園風景だった……
 軽いリュックを肩にして、ハリエットは歩きつづけていた。頭髪の黒い、痩せぎすの二十八才の女だった。どちらかといえば、病的なくらいの青白い皮膚が、ほどよくビスケット色に日焼けしている。いまさら日焼けを怖れるほどの年配でもないので、彼女のリュックには、ハイカーの常備品であるクリーム類は、何ひとつ入っていなかった。袖なしのシャツに、薄いセーターという服装で、リュックのなかには、下着と靴下の着換えのほかには、トリストラム・シャンディのポケット版と小型カメラ、あとは昼食用のサンドイッチが詰めてあるだけだった。
 そのサンドイッチの包みを拡げたくなったのは、あと十五分で一時という時刻だった。今朝早く宿を出たのだが、まだ八マイルしか歩いていない。しかし、もともと目的のある旅ではないし、夕暮れどきまでに、ウィルヴァクムの町に入れば、よいのだった。旅行案内に教えられるままに、ローマ人の遺蹟を尋ねようと、途中でわき道にそれてみたりしたのだった。それにしても、ようやく空腹を覚えてきたので、眺望のきく場所を見つけて、一休みしてランチを摂(と)りたいものだとあたりを見まわしてみた。
 潮はすっかり干(ひ)ききって、なぎさは濡れた砂を光らせていた。ものういような午後の太陽を照り返して、金に銀に輝いている。それを眺めていると、つい服を脱いで、泳ぎたくなってくる。勝手を知らぬ海岸のこととて、どんな底流が渦巻いていないものでもないので、その気持ちだけは辛うじて押えつけたが、それでも彼女は、切り立ったような崖を辿って、波打ちぎわまで行ってみたい誘惑には抗しきれなかった。さいわい途中に、正面からの風を避けて、青草がやわらかく茂っている場所が見つかった。彼女は、疲れたようにリュックを下ろすと、サンドイッチとトリストラム・シャンディを取り出した。
 きらめく陽ざしの下で、汐風に吹かれながらの食事が済むと、当然のことながら、うとうとと睡気を催してきた。ハリエットの指のあいだから、トリストラム・シャンディが、二度ほど滑り落ちた。三度目には、その本も拾いあげずに、彼女のうなじは適当な角度に坐って、いつかそのまま、まどろんでいた。
 急に鋭く、叫び声のような音を耳にした。彼女は、ハッと眼を醒まして、瞬(またた)きながら起きなおると、大きな鴎(かもめ)が頭の上で舞っている。食べちらしたパン屑を狙ってきたのだ。彼女はあわてて、腕時計に眼をやった。二時である。寝過ぎたかと思ったが、それほどでもなかったので、ハリエットは安心したように立ち上って、膝のパン屑を払い落した。夕刻までにウィルヴァクムの町に到着すればよいのだから、時間はまだ充分にあった。海のほうに眼をやると、きらきらと煌(きら)めいている砂浜を、紺青(こんじょう)の海と引き離すように、白く細い波の泡が、一本の帯のように寄せてはまた遠ざかっていった。
 きれいに洗ったような砂浜を見ていると、誰だって、それに駈けよって、最初の足跡を、くっきりとつけてみたいという、あられもない欲望に駆られるものだ。とりわけ、探偵小説家の身ともなれば、その誘惑が一層熾烈(しれつ)なのも無理はなかった。ハリエットは、散らかった手廻り品をいそいでリュックに詰め込むと、追い立てられるようにしてみぎわに降りていった。
 やがて、波打ちぎわに近づくと、こまかく砕けた貝殻と乾きかけた海藻の類が、うねうねと一本の線をひいて、今日の上げ汐の高さをしめしていた。
 ――この貝殻の破片と海藻でできた、曲りくねった線をみれば、潮の干満の様子を推理することができるはずだ。小潮のときは、大潮の日ほど、汐(しお)が遠くまで差して来ないのだから、海藻の列が、二本並んでみられるはず。その場合、陸に寄って、乾いた海藻が残っているのが、大潮の登った痕で、波打ちぎわに近い、湿り気の強いのが、今日の上げ汐の印(しるし)ということになる。


……冒頭より

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