「絞首台の謎」

ジョン・ディクスン・カー/井上一夫訳

ドットブック版 354KB/テキストファイル 177KB

600円

濃霧のロンドンを疾走する一台の車。だがハンドルを握っていたのは喉を切られた黒人運転手の死体であった……17世紀イギリスの首切り役人の名刺を持つ男が出没し、今はなき幻の「破滅の街」が忽然と現われる。そこには不気味な絞首台が立っていた。怪奇と魔術と残虐恐怖をガラス絵のような色彩で描く、カーの初期作品を代表する雄編。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

立ち読みフロア
 それは目の前のテーブルに、茶碗などの間に立っていた。小さな精巧を極めた絞首台の模型である。丈は八インチ足らず、杉材で作って黒く塗ってある。十三段の階段を上ると、台になっていて、小さな蝶番(ちょうつがい)でとめた落とし戸(トラップ)を落とす操作桿がついている。てっぺんの横木からは、より糸の小さな絞首索がぶら下がっていた。
 夕暮れ間近の黄色っぽい電灯の下に、茶碗やサンドイッチの皿などと並んで、まっ白なテーブル・クロースにくっきりと浮かび上がっていた恐ろしい姿は、いまだに目の前に浮かんで見えるような気がする。われわれの席を占めた張出し窓の外では、薄汚い霧がペルメル街の街灯をかすませていた。渦巻いて流れる濃い黄褐色の霧は、明りという明りを一つ残らずぼんやりと包んでしまうのだった。車の通る鈍い音がまた窓をふるわし、バスの警笛が鳴りひびく。そして、このおぞましい玩具を見つめるバンコランとジョン・ランダーボーン卿の顔がその窓ガラスにうつっていた。
 この二人の探偵は、いい対照の取り合わせだった。
 ジョン卿は血色が悪く、苦虫を噛んだような顔つきの人物だった。額は狭く禿げ上がって、髪は銀髪だが、眉毛がいやに細くて黒い。目は肉の薄い鼻にかけた金縁眼鏡の陰で陰気くさく光っていた。ごま塩の口ひげや短く刈りこんだ顎ひげをなでるたびに、まぶたがゆっくりと上がったり下がったりする。彼は小さな絞首台を熱心に見つめていた。テーブルの反対側ではバンコランが、煙草の煙ごしにジョン卿を見つめていた。ジョン・ランダーボーン卿はかつてロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)の副総監をつとめた人物である。
 彼と向かいあったこのフランス人は、背が高くて怠けものの悪魔(メフィスト)という面構えの人物。ぴょこんと眉を吊り上げた悪魔(メフィスト)だ。黒い髪をまん中で分け、両端が角(つの)のようにくるりとまき上がっている。鼻の下から小さな口ひげのところを通って、黒いとがった顎ひげまで細いしわが通っている。その口もとには、今かすかな笑みが浮かんでいた。頬骨が高く、瞳は深い光をたたえ、その顔立ちは、才気煥発だが気まぐれ、お天気屋だが冷酷なところがあることを示している。ものうげに煙草を持った指には、指輪がいくつもはめてあった。この人物こそ、セーヌ地区予審判事(ジュージュ・ダンストリュクション)にしてパリ警察界の大立物、ヨーロッパでもっとも恐れられている人物、アンリ・バンコラン氏その人なのだった。
 時は十一月十六日の午後五時三十分。ところはロンドンの〈ブリムストン・クラブ〉の休憩室(ラウンジ)である。ここでこの絞首台の模型を発見したことが、幻の街の幻の絞首台にまつわる有名な殺人事件に、われわれがまきこまれる端緒となったのである。ことのなりゆきは、こんな具合だった――

 バンコランと私はヘイマーケット劇場でやる『銀仮面』の初日を見るために、パリからやって来た。これはエドワール・ヴォートレルの書いたもので、去る四月のサリニー公爵事件〔『夜歩く』参照〕の恐ろしい手がかりとなった芝居である。部屋は、ジョン卿の住んでいる〈ブリムストン・クラブ〉にとってあったし、卿がわざわざ出迎えにきてくれることになっていた。ジョン卿はバンコランの旧友の一人で、ロンドン警視庁で、大いにその組織の才を発揮した人物である。戦前はかのロナルド・デヴィシャム閣下の下で、副総監を務めていた。ときどき彼はパリにバンコランを訪ねて来たので、私も面識があった。背の高いいつも背中をかがめているような男で、慇懃だが愛嬌のない苦い顔の人物だった。いつもチェス盤に向かって次の一手を考えあぐねているような態度――時代がかった大ロマン小説なら、謎を秘めた男とでも描写しそうな人物だった。バンコランの話によると、卿は戦争中に子息を亡(な)くした痛手から立ち直れないのだそうだった。一九一九年に役所をやめて隠遁生活を送り、前年にロンドンに出てこのクラブに住むようになるまでは、ハンプシャーの田舎に引っこんでいたのである。
 その日の午後、卿はヴィクトリア駅までわれわれを迎えに出てくれた。汽車がごとごとと薄暗い構内にはいっていったとき、煤煙と霧でかすんだプラットフォームに立っている人たちで一番先に目にはいったのが卿だった。彼は取ってつけたような陽気さでわれわれを迎えたが、誰も心から愉快な気分になれたわけではない。寒さは寒し、陰鬱な天候、それに荒れたイギリス海峡の虚(うつ)ろな波のとどろきは、この旅の目的と同様にいいかげんうんざりするようなものだったからである。〈ブリムストン・クラブ〉に落ちついて、四方山(よもやま)話がはじまっても、話はどうしても暗い犯罪の話になってしまうのだった。

……「冒頭」より


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