「幻滅」( 上・中・下)

バルザック/生島遼一訳

(上)ドットブック版 307KB/テキストファイル 231KB
(中)ドットブック版 322KB/テキストファイル 249KB
(下)ドットブック版 285KB/テキストファイル 207KB

各600円

「自分の力をもてあましている青年たちは、これをジャーナリズムや党派争いや文学芸術にうちこんだが、そればかりでなく、もっとも奇怪な放蕩にも乱費していた。若きフランスには、それほどありあまる精力過剰があったのだ。これらの青年はみんな活動的で、権力と快楽をもとめた。芸術家肌の者は富を欲し、無為の者は情欲をもっぱら刺激しようとした。なんとかして地位にありつこうとけんめいだった。が、政治は、どこでもそれをあたえなかった。多くの者がりっぱな才能をもっていたが、ある者は刺激の多い生活でその天賦の才を失い、ある者たちはなんとか生活にたえていた」……「ゴリオ爺さん」から「本書」、さらに「浮かれ女盛衰記」へと続く、重量感あふれる「人間喜劇」。

バルザック(1799〜1850)ユゴー、デュマとならぶ19世紀フランスを代表する作家。パリ大学に学ぶが中退して文学を志す。出版、印刷などを手がけて失敗したあと、負債返済のために頑張り「ふくろう党」で成功。以後、みずから「人間喜劇」と名づけた膨大な小説群を生み出した。代表作「ウジェニー・グランデ」「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」「従兄ポンス」「風流滑稽譚」など。20年間、毎日50杯のコーヒーを飲みつづけて創作に打ち込んだ逸話は、派手な女性遍歴と浪費癖とともに有名。

立ち読みフロア
 この物語がはじまるころ、田舎(いなか)の小さな印刷屋では、まだステナップ印刷機やインキをのばすローラーは運転されていなかった。アングレーム〔フランス西南部、シャラント県の主要都市〕はパリの印刷業とは深い因縁のある土地だが、当時はあいかわらず「印刷機を泣かせる」という、今では用いられぬ言葉をあみだしたあの木製印刷機をつかっていた。まだこの町の時代おくれの印刷屋では、印刷工が活字の上をパタパタたたいてインキをつけるのに使う毛皮の刷毛(はけ)がやはりはばをきかしていた。活字がぎっしりつまった《組版(フォルム)》には刷(す)る紙があてがわれるのだが、その《組版》をのせるための運動自在の台もまだ石であって、その名が大理石(マルブル)といわれるのも道理であった。いろいろ欠点があったにせよ、エルゼヴィール、プランタン、アルド、ディドといった人々がすばらしくりっぱな書物を刷った歴史のあるこうした道具は、今日ではどんどん新しく変わっていった印刷機械のためにすっかり世人から忘れられているし、それにまた、ジェローム・ニコラ・セシャールが、これに迷信じみた愛着をよせていたという事情もあるので、この古い道具類のことに若干ふれておく必要がある。こういうものが、この大きな、しかもささやかな物語の中で一役演じているのだから。
 このセシャールという男は、もともと、文選工から印刷屋仲間の隠語で『くま』とあだ名をつけられている刷工であった。刷工がインキ溝から印刷機へ、印刷機からインキ溝へと行ったり来たりする動作が、檻(おり)のなかの熊にそっくりだというわけで、こんなあだ名をいただくことになったらしい。その返報に『くま』のほうは、文選植字工が百五十二の小さい仕切り箱におさまった活字を拾いだそうとして絶えずくりかえす動作から、この連中を『さる』と呼んでいた。一七九三年というひどい時代〔フランス革命の恐怖政治が始まった年〕に、およそ五十歳になったセシャールは結婚した。年をとっているし妻帯者というので、職人という職人をごっそり軍隊へ連れさったあの大徴集令からまぬがれた。印刷所の主人つまり『親方』が子供のない後家をひとり残して死んでしまうと、あとしばらく、この老印刷工セシャールはたったひとりきりになってしまった。印刷屋はいまにも行きづまりそうだった。ひとりきり取り残されたこの『くま』は、『さる』にふりかわることができないのだ。なにしろ刷工は読み書きのほうはてんでだめだった。国民公会の布告書をいそいでばらまく必要にせまられた地方派遣の議員が、このような刷工の文盲など無視して、この男に印刷屋開業の免許を与え、その工場をお上(かみ)のご用に徴発した。市民セシャールはそのあぶなっかしい免許をうけると、女房のへそくりを親方の後家さんにわたして補償にし、印刷所の器具いっさいを半値で買いあげてしまった。これは簡単なことだった。が、誤りなく遅れずに、共和派の布告書を印刷しなければならない。こまっているときに、セシャールは運よく、マルセーユ生まれの貴族上がりの男をひょっくり雇うことができた。この男は国外に亡命して所領地を手ばなしたくもなく、身分を知られて首をはねられたくもなく、そのうえパンにありつくためにはどんなことでもして働く以外に道がなかった。
 こうして、このモーコンブ伯爵という人物も、片田舎の印刷屋校正係のみすぼらしい仕事着を着ることになった。そして、貴族どもをかくまう市民は死刑に処すという布告書を自分の手で植字し、読みなおし、校正するのだった。『親方』に成り上がった『くま』が、この布告書を刷りあげ、そのビラをはらせる。こうして、このご両人ともに安穏無事に暮らしてきた。

 ……第一部 地方の印刷屋 巻頭より

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