「失われた遺産」

ロバート・A・ハインライン/矢野徹訳

ドットブック版 313KB/テキストファイル 167KB

500円

ジョーンは、これまでの医学では夢物語とされていた諸能力…コンピュータなみの記憶力、演算能力、読心能力、透視能力…を二人の大学教授とともに開発した。だが、その理論を公表しようとしたとき、三人は恐るべき運命の渦中へ(「失われた遺産」)。この表題作と、新人類の登場を描く「深淵」をあわせ、初期ハインラインの作品2作を収録。

ロバート・A・ハインライン(1907〜88) SF界を代表する米国の作家で「SF界の長老」ともよばれる。作品を雑誌ではなく普通の新聞に掲載してSFの質の向上と大衆化に大いに貢献した。『宇宙の戦士』『太陽系帝国の危機』『異星の客』『月は無慈悲な夜の女王』でヒューゴー賞を4回受賞、米国SFファンタジー作家協会は初回のグランド・マスター賞をハインラインに授与した。火星には「ハインライン」と名付けられたクレーターがある。

立ち読みフロア
一 おまえたちは見る目を持っている!

「やあ、殺し屋! 坐れよ」
 フィリップ・ハクスレイ博士はもてあそんでいたダイスのカップをおいて、話しかけ、椅子を足でおし出した。
 呼びかけられた男は、その挨拶をわざと無視し、黄色いレインコートと濡れた中折帽を教職員クラブの給仕にわたしたあと、その椅子に坐った。かれが最初に口にした言葉は、その黒人給仕に対するものだった。
「いまのを聞いたかい、ピート? あいつは心理学者だなどと気取っているが、呪術師(まじないや)にしかすぎないんだよ。それがあつかましくも、ぼくのことを、内科と外科の医師免許を持っているぼくのことを殺し屋だとさ」
 その口調は穏やかなものながら、非難がこめられていた。
「こいつにだまされるなよ、ピート。コバーン先生がきみを手術室に連れこむなんてことになったら、あっさり頭を開かれちまうからな。それもただ、なぜきみが生きているのか知りたいだけのことでさ。灰皿を作りたいからって、きみの頭蓋骨を使うかもしれないやつだぞ」
 黒人の給仕はテーブルをふきながら微笑しただけで、何も答えなかった。
 コバーンはくすくす笑って首をふった。
「それこそ、まじない医者のいう文句だな。まだ、存在もしていない小人を探しているのかい、フィル?」
「きみが超心理学のことをいっているつもりなら、そのとおりさ」
「商売のほうはどうなんだい?」
「なかなか結構さ。ぼくは今学期の講義をひとつ減らしたいんだが、いつもとまるで同じでね……途方もないほどうんざりしてるってところが本音だよ。馬鹿面をしたやつらを相手に、その連中の脳味噌の中でおこることについて、われわれが実のところどれほど無知であるかということを説明するなんてことはね。研究しているほうが、ずっとましだな」
「みんなそう思っているよ。それで近頃は、何か変わったものを見つけたかい?」
「いくらかはね。いまのところぼくは、法学部のある学生を相手に、なかなか楽しいことをしているよ。ヴァルデスというやつなんだ」
 コバーンは眉を上げた。
「ほう? 超感覚ってやつか?」
「そんなところだ。かれはまあ、透視能力者ってやつだな。物体をひとつの方向から見ると、その反対側も見ることができる」
「馬鹿なことを!」
「きみがそれほど賢明だというんなら、金持じゃないのはどういうわけなんだ? ぼくは、念入りにコントロールした条件のもとで試してみたんだが、それでもかれにはできた……曲がり角のむこうが見えるんだ」
「へーえ……そうかい。ぼくの祖父、ストーンベンダーがよくいってたよ、神さまはこれまでゲームで使われてきた以上の切り札を袖口に隠していらっしゃる、ってね。かれとスタッド・ポーカーをしたら、脅威だろうな」
「実際の話が、そいつは法学部に入学するための資金を、プロのギャンブラーとして稼いだんだよ」
「そいつがどうやってそれをやるのかは、見当をつけたのかい?」
 ハクスレイの顔に困惑の表情が浮かび、テーブルを軽くたたいた。
「いいや、それが癪にさわるところさ……もしぼくにすこしでも研究資金があれば、この種のことが何なのか意味をつかめるだけのデータを集められるんだがな。デューク大学でラインのやった研究を見てくれよ」
「じゃあ、どうして大声をあげて叫ばないんだ? 理事連中の前へ行って、やつらの耳にくらいつき、そういってやればいいのに。きみがどうやってウェスタン大学を有名にするつもりなのか、かれらにいってやることだね」
 ハクスレイはさらに不機嫌な表情になった。
「見込みはないさ。ぼくは学部長にかけあってみたが、学長のところへこの話を持ってゆくことさえ、許そうとはしないんだ。あの老いぼれ爺さんが、ぼくらの学部をこれまでより以上に締めつける結果になるとこわがってるんだな。わかるだろう、ぼくらは公式には、行動主義心理学者であるということになっている。生理学と力学の用語で説明できないものが意識の中にあるかもしれないなんてことをちょっとでもいおうもんなら、公衆電話のボックスにセント・バーナードが入っているような騒ぎになっちまうさ」
 給仕のカウンターのうしろで、電話がかかってきたことを示すランプが赤くともった。かれは、ニュースを流していたラジオを切って、呼出しに答えた。
「もしもし……はい、マダム、いらっしゃいます。お呼びいたしましょう……コバーン先生、お電話でございます」
「こちらへ切り替えてくれないか」
 コバーンはテーブルの電話パネルをまわして自分のほうにむけた。すると、パネルが明るくなって、若い女性の顔が浮かびあがってきた。かれは受話器を取りあげた。
「なんだい? なんだって? どれぐらい前におこったことなんだ? だれが診断したんだ? もう一度読みあげてくれ……チャートを頼む」かれはパネルに現われた映像を調べてつけ加えた。
「わかった。ぼくもすぐそちらへ行く。患者を手術できるようにしておいてくれ」
 かれは電話を切り、ハクスレイを見た。
「行かなきゃいけないことになったよ、フィル……急患だ」
「どういう患者なんだい?」
「きみも関心があるだろう。冠状鋸(のこ)を使う手術だ。たぶん脳切除をすこしやることになる。自動車事故だ。時間があれば、来てみるんだな」
 かれはそういいながらレインコートを着た。そして体の向きを変えると、ゆっくり大股で西の扉から出ていった。ハクスレイは自分のレインコートをつかむと、急いでかれに追いつき、肩をならべながら尋ねた。
「どうして……きみを探さなければいけないことになったんだい?」
 コバーンはむっつりと答えた。
「ポケット電話を別の背広に残してきたんだ。意識的にね……つかのまの平安と静けさが欲しかったんだ。ついてなかったよ」
 ふたりは北へむかい、アーケードを抜けて西に進み、動く歩道はあまりにも遅すぎるので無視し、学生会館と自然科学の学部とをつなぐ通路を進んだ。しかしかれらがポテンガー医科大学のむこう側にある三番街の地下走路(コンベヤー・サブウエイ)までくると、そこは浸水でとまっているとわかった。やむなく西へまわり道し、フェアファックス街のコンベヤーに乗った。コバーンはこの春、南カリフォルニアに滝のような大雨を降らせた件について、商工会議所かどこか知らないが、そんなことをやった技術計画委員会にもっともな悪口を浴びせつづけた。
 かれらは外科医室でやっと湿った衣服から逃がれ、手術更衣室へ入った。看護婦がハクスレイを手伝って白いズボンと木綿のオーバーシューズをはかせ、ふたりは隣りの部屋へ手を洗いにいった。コバーンはハクスレイがすぐそばで手術を見学できるように、かれにも手を消毒することをすすめたのだ。小さな砂時計を前にして三分間、かれらは緑色の石鹸でごしごし洗い、ドアを抜けて、熟練した静かな看護婦たちにガウンを着せられ、手袋をはめられた。ハクスレイはかれの襟元に手をかけるのに爪先立ちをするほかない看護婦に手伝ってもらいながら、いささか滑稽な気持にかられた。ふたりは毛糸巻きの手伝いでもしているような格好で、ゴム手袋をはめた両手をつき出しながらガラスのドアを通り、第三手術室に案内された。
 患者はもう手術台に横たえられ、頭を高くし、動かないように頭を固定されていた。だれかがスイッチを入れ、無慈悲な青白い光の円がかれのただひとつ露出された部分、頭の右側に照射された。コバーンはすばやく室内を見わたし、ハクスレイはかれの視線を追った――薄緑色の壁、ガウンとマスクとフード姿に性を感じさせないふたりの手術看護婦、部屋の隅で何か忙しそうな補助看護婦(ダーティ・ナース)、麻酔医、患者の心臓と肺の状態をコバーンに告げている計器類。
 看護婦のひとりが外科医に読めるようにチャートをかかげた。コバーンがひと声口にすると、麻酔医は患者の顔をおおっている布をしばらくのあいだ取った。痩せた茶色の顔、鷲のような鼻、閉じられくぼんでいる両眼。ハクスレイは驚きの声をおさえた。コバーンはハクスレイにむかって眉をあげてみせた。
「どうかしたのかい?」
「これはホワン・ヴァルデスだぞ!」
「だれだい?」
「きみに話した例の男……奇妙な目を持った法学部の学生だよ」
「へえ……そうか。そいつの変わった目も、こんどばかりは曲がり角のむこうを見損ったわけだな。生きているだけでも運がいいさ……むこう側に立ったほうが、よく見えるよ、フィル」
 コバーンは非人間的な能率さへと変化し、ハクスレイの存在を無視し、優れた知力のすべてを目の前の傷ついた肉体へと集中した。頭の骨は、明らかにやや鈍い角を持ったかたい物体に激しくぶつかったためにつぶれていた、というより穴があいていた。右耳の上の傷口があき、それは見たところでは直径二インチかもうすこしのものだった。開いてみるまでは、頭蓋骨とその下の灰色の物質にどの程度の損傷が加えられているのか、正確に告げることは不可能だった。
……巻頭より

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