「ロータス・イーター」

モーム/田中西二郎訳

ドットブック 128KB/テキストファイル 92KB

300円

「幸福」と同じ短編集にまとめられたモーム円熟期の短編5編。「三人の肥った女」「良心的な男」「掘りだしもの」「ロータス・イーター」「ジゴロとジゴレット」の5編は、「世の中には、いつになっても、これはと驚くようなことが決してなくならない」という作者の信条の結晶である。

サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。

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 アンティーブに三人の仲のよい婦人が住んでいた。一人はリッチマン夫人という名で、未亡人であった。二人目はサトクリフ夫人というアメリカ人で、これはいままでに二人の夫と離婚をした。第三の女はヒクソン嬢と名乗る、婚期を失した老嬢であった。三人とも四十代の、気楽に生活をたのしめる年輩で、金には困らぬ身分でもあった。サトクリフ夫人は、その最初の名が少し変っていて、アロウ(「矢」の意味)という。若い頃はからだつきもすらりとしていたので、彼女はこの名が結構、気に入っていた。すがたに似合っている上に、変った名だからよくからかわれる、からかわれすぎるくらいだったのが余計に嬉しかったものである。のみならず、この名が自分の性格にもふさわしいという気持もなくはなかった。直截(ちょくさい)、俊捷(しゅんしょう)、果断といった印象のあるところがである。それが、優雅な顔だちも脂肪でふやけたようになり、腕にも肩にも贅肉がつき、腰まわりもどっしりと、押し出しのよくなった昨今では、さほど好きな名ではなくなった。自分の姿態を、自分の気に入るようにみせてくれる衣裳をみつけることが、だんだん困難の度を加えて来る。その名を種にしてのひやかし、冗談も、今では蔭口にしか言われなくなり、それを嬉しがるどころの騒ぎでないことは、当人が一番よく知っている。だが中年女としてのあきらめに安住するのは、彼女の断じてとるところではなかった。相変らず眼の色をひきたてるためにブルーの衣裳を着て、美容術のたすけをかりた金髪にも依然として光沢(つや)をたもたせていた。彼女がビアトリス・リッチマンとフランセス・ヒクソンとについて、大いに気に入っていたのは、二人とも彼女よりも遥かに肥満していたことで、それがため彼女ははなはだ楚々として見えたのである。二人はまた彼女より年上でもあって、彼女をかわいらしい小娘かなんぞのようにあしらう傾きがあった。これも悪い気持はしなかった。二人とも好人物で、アロウのあこがれの男性のことを言いだしてはなぶりものにするのを楽しみにした。当人たちはとうの昔にそうしたくだらないことは思いあきらめていて、ヒクソン嬢のごときは一瞬たりとも男出入りなどに頭を使ったことのないひとだったが、それでいて彼女の浮気にだけは同情的であったのだ。近いうちにアロウが三人目の男性を幸福にしてやるだろうということは、彼女たちのあいだで諒解ずみの事柄になっていた。
「だからあんた、これ以上ふとらないようにだけは、しなきゃだめよ」とリッチマン夫人は言った。
「それから、お願いだから、彼氏がブリッジをやることだけは確かめてね」とはヒクソン嬢の頼みであった。

……「三人の肥った女」より

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