「奇巌城」

ルブラン/水谷準訳

ドットブック版 212KB/テキストファイル 167KB

500円

深夜、ジェーブル伯爵の館に賊がはいる。怪しげな二人の男が何かを持ち去る姿が目撃され、ついで格闘とうめき声が…伯爵の秘書が殺害され、逃げる三人めの男は撃たれて傷つき逃走する。だが、逃げ場のないはずの邸内から、男は影も形もなく消えていた。これをルパンの犯行と見抜いたのは、新聞記者としてまぎれこんだ高校生のボートルレだった。ルパン対天才少年の戦いはノルマンディーのエトルタを舞台にクライマックスへ。ロマン香るルパンの名編。

モーリス・ルブラン(1864〜1941)フランスの推理作家。ルーアン生まれ。小説家としての長い不遇の時代の後、40歳のとき書いた「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり、以後「ルパン」シリーズを書き継いだ。ルパンの作者としてレジヨン・ドヌール勲章を受章。 長編の代表作に「水晶の栓」「奇巌城」「813」などがある。

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 レイモンドはきき耳を立てた。またも、夜の深い静寂《しじま》を形づくっている漠然《ばくぜん》とした騒音からは充分聞きわけられるくらいはっきりした物音が、二度もきこえてきた。しかしそれは、近くでした音なのか遠くでした音なのか、広々としたお屋敷の建物の中で起こったのか、あるいは戸外で、あの庭園のまっくらなものかげで起こったのか、彼女にもわからないほどかすかな物音であった。
 静かに彼女は起きあがった。彼女の部屋の窓は半びらきのままだった。窓の鎧戸《よろいど》を押しあけると、月の光が芝生と茂みのおだやかな風景を照らしていた。そこには昔の僧院の廃墟があちこちに散在して、悲劇的なシルエットを浮かびあがらせていた。上部の欠けた円柱、こわれた尖頭迫持《オジーヴ》、わずかに残る廻廊の跡、迫持控《せりもちひかえ》の残骸。そんなものの表面にわずかばかりの風がただよい、木立の、葉の落ちた動かない小枝のあいだをすり抜けて、茂みの若葉をそよがせていた。
 すると、突然、同じ物音……それは左の方から、彼女の部屋の階下、つまり建物の西袖《にしそで》を占めているサロンの方からきこえてきた。
 この年若い娘は、勇気もあり気性もしっかりした女ではあったが、それでも恐ろしさに胸がつまる思いがした。彼女はナイトガウンをひっかけ、マッチを手にとった。
「レイモンド……レイモンド……」
 吐息《といき》のようなかすかな声が、境のドアの閉まっていない隣りの部屋から、彼女の名を呼んだ。手探りで声の呼ぶ方へ行きかけると、従姉妹《いとこ》のシュザンヌが部屋から出てきて、彼女の両腕の中にくずおれるようにしがみついた。
「レイモンド……あなたなの? お聞きになって?」
「ええ……あなたもおやすみじゃなかったのね?」
「犬のなき声で目をさましたらしいの……だいぶ前に……。でも、もう吠《ほ》えてないわね。何時ごろかしら?」
「四時ごろよ」
「しーっ……誰かサロンの中を歩いてるわ」
「何も心配はないわ。あなたのお父さまがいらっしゃるんですもの、シュザンヌ」
「でも、父のことが心配ですわ。小さいサロンのわきでやすんでるのですもの」
「ダヴァルさんもいることだし……」
「でも、おうちの向うの端だわ……。どうしてあの人にきこえて?」
 二人はどうけり《ヽヽ》をつけたらよいかわからずにためらっていた。人を呼ぼうか? 大声で救いを求めようか? 二人にはそんなことをする勇気がなかった。自分たちの話し声でさえ恐ろしく思われるほどなのに。だが、窓ぎわに近づいたシュザンヌは叫び声を押し殺して言った。
「ほら……泉水のそばに、男が」
 果して、一人の男が足早に遠ざかって行くところだった。その男は、二人のところからは何だかはっきり見わけはつかないが、何かかなりかさばった品物を一つ小脇《こわき》に抱えていた。それが男の片一方の足にぶつかって、歩きにくそうだった。彼女たちが見ていると、その男は古い礼拝堂のそばを抜けて、石垣にある小門の方へ向って行った。その門は開いていたらしく、男はかき消すように姿を消してしまった。彼女たちには蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》る音さえもきこえてこなかった。
「あの男はサロンから出て行ったんだわ」と、シュザンヌがつぶやいた。
「そうじゃないわ。階段と玄関を通ったのなら、もっとずーっと左の方から出て来るはずだわ……じゃなければ……」
 二人は同じことを考えて身ぶるいした。彼女たちが身をのり出して下を見ると、梯子《はしご》が一つ建物の正面に立てかけられ、二階にまでとどいていた。一条のほのあかりが石造りのバルコニーを照らしていた。すると、もう一人の、これもまた何かを抱えた男が、そのバルコニーをまたぐと、梯子を伝ってすべり降り、同じ道を通って逃げて行った。
 シュザンヌはすっかり胆《きも》をつぶし、力が抜けてへたへたと坐りこんで、こうつぶやいた。
「呼びましょう!……助けを呼びましょうよ!……」
「来る人がいて? あなたのお父さま?……もし、ほかにもまだ泥棒がいて、お父さまに飛びかかったら?」
「召使たちに知らせることはできるでしょ……あなたの部屋のベルは下部屋《しもべや》に通じてるわ」
「そうね……そうだったわね……いい思いつきかも知れないわ……。召使たちが間にあってくれさえすれば!」
 レイモンドはベッドのそばのベルを探して、それを指で押した。ベルが音高く鳴り響いた。彼女たちは、階下《した》の人たちがその音をはっきり耳にしたに違いないと思った。
 二人は待った。静寂がいっそうすご味を増してきた。茂みの葉をゆり動かすそよ風も死んでしまった。
「こわいわ……あたし、こわいわ……」と、シュザンヌはくりかえした。
 すると、突然、まっ暗闇《くらやみ》の中から、彼女たちの下で、格闘の音、家具がひっくり返って砕ける音、叫び声がきこえた。それから、恐ろしい、不吉な、しゃがれた呻《うめ》き声、しめ殺される人間の苦しそうなあえぎ……

……《第一章 銃声》より

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