「ヴェニスの商人」

シェイクスピア作/大山敏子訳

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アントーニオは友人バッサーニオのためにひと肌ぬいで、ユダヤ人金貸しのシャイロックから多額の借金をする。「期日までに返せなければ、あなたの肉一ポンドを胸のところからいただきます。いえ、これはほんの遊び心ですがね」シャイロックはそう言ったが、心にはアントーニオ対する深い恨みをいだいていた。明治以来、日本では最も上演回数の多いシェイクスピア劇。  
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第一幕

第一場 ヴェニスの街上。

〔アントーニオ、サリーリオ、ソレイニオ登場〕
【アントーニオ】 実際、なぜこんなに気がふさぐのか、ぼくにはわからないんだ。
なんとなく気がめいってしかたがない。それで君たちまで気がめいると言う。
だが、どうしてこれをつかまえたのか、見つけたのか、手に入れたのか、
何でできているのか、どこから生まれたのか、
まるでけんとうがつかないんだ。だが、とにかくふさぎ虫がぼくをすっかり腑(ふ)抜けにしてしまって
自分の正体をさえなかなかつかめないというしまつだ。
【サリーリオ】 君の心は大海原でゆれているんだ。
あの海の上、ほら、君の商船がいっぱいに帆をはらんで、
まるで海の殿様か、大金持ちといったように、
あるいはまた、海の上をわたる山車(だし)行列かなんかのように、
まわりの小舟どもを威風堂々見くだして、
それらが頭をさげて、敬意を表しているそばを、
翼をいっぱいにひろげて走っているあの海の上でゆれているんだ。
【ソレイニオ】 まったくだよ、君、かりにぼくがあれだけの財産を海に賭けていたら、
ぼくの心はほとんどそっちのほうへ向けられて、望みをたくしている船とともに、
大海原をうろついているだろう。ぼくはたえず
草の葉をむしりとっては、風の方向をたしかめようとするだろうし、
地図をのぞきこんでは、港は、埠頭(ふとう)は、停泊所はどこだと大さわぎをし、
そしてぼくの積荷に何か気がかりなことが起こりそうな
心配の種が、かりにもあったとしたら、きっとそれが
ぼくをふさぎこませてしまうにちがいないよ。
【サリーリオ】 ぼくだって、スープをさますのに
息を吹きかけただけでも、たちまちおこりにかかっちまうよ、
もしこの息が大風だったら、海の上でどんなわざわいを起こすかと考えただけでもね。
砂時計の砂の落ちるのを見れば、
きっと、浅瀬や砂州(さす)のことを思い出して、
積荷いっぱいのアンドルウ号が砂の上に乗りあげて、
あの高い帆柱(ほばしら)の先を肋材(ろくざい)よりも低くつっこんで、
自分の墓場にキスしている様子を思わずにはいられない。
教会に行って、あの石の会堂を見れば、また、
あの恐ろしい暗礁(あんしょう)の岩のことを思い浮かべるわけだ、
それがちょっとでもあのぼくのやさしい船の横腹にさわってみろ、
たちまち、海一面に積荷の香料がまき散らされる、
荒れ狂う海の大波もぼくの絹で衣裳をつけるというわけさ、
で、つまり、たった今まであれだけ価値のあった財産が、
ぜんぜん、無一文の状態になってしまうというわけだ。ぼくだってこんなことを
想像するんだから、君のこともよくわかるんだ、
そんなことでも起こればどんなにふさぎこんでしまうかじゅうぶんに察しはつくのさ。
だから言わなくたっていいよ、アントーニオ、
船荷のことを思って気がふさいでいるにきまってるさ。
【アントーニオ】 いや、そうじゃないんだ。ありがたいことに、
ぼくの投資は一つの船だけにかかっているわけじゃないんだ。
また一つの場所だけにかかっているのでもない。また、ぼくの全財産が
ことし一年の運勢によってきまるわけでもないのだ。
だから、船荷のことでふさいでいるわけじゃないんだ。
【ソレイニオ】 ほう、じゃあ、恋をしているんだな。
【アントーニオ】 冗談じゃない。


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