「マゼラン」

シュテファン・ツヴァイク/関楠生・河原忠彦訳

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700円

私〔作者〕は大自然に対して最初に戦いをいどんだ、あの大航海時代の人々のことをもっとくわしく知りたいと思った。そのなかで、ただ一つだけがこの上なく私を感動させた。それは、世界探検史上、もっとも大規模な事業を果たしたと思われる男、すなわちフェルディナント・マゼランの偉業であった。彼は五隻のとるに足らぬ小帆船でセビーリャから出航し、全地球を一周した――おそらく人類史上もっともすばらしいオデュッセイアと言えるであろうが、堅い決意を抱いて出帆した265名の男たちのうち、わずか18名のみが朽ちはてた船に乗って故郷へ帰りついた。そこに彼の姿はなかったが、その船のマストには偉大な勝利の旗が高くかかげられていた。

シュテファン・ツヴァイク(1881〜1942)ウィーン生まれのユダヤ系作家。詩、小説、戯曲、翻訳など多方面にわたる著述をおこなったが、後年は評伝、伝記小説に力を注いだ。代表作に「ジョゼフ・フーシェ」「マリー・アントワネット」 「メアリー・スチュアート」「マゼラン」「3人の巨匠(バルザック・ディケンズ・ドストエフスキー)」など。

立ち読みフロア
 「初めに香辛料ありき」。ローマ人が航海や戦争を機縁に、東方の刺すような、麻痺的な成分や、焼き尽くすような、陶酔的な成分に、はじめて味覚を発見して以来、西欧では「エスペセリア」(especeria)すなわちインドの香辛料を、台所でも地下室でも、なしですますわけにはゆかないし、すまそうともしなくなった。何といっても中世末に至るまで、北方の食物は想像もつかぬほど無味乾燥なものであったからである。今日ごくありふれたジャガイモ、トウモロコシ、トマトのような野菜が、ヨーロッパで永続的に栽培されるようになるまでは、この状態がまだまだつづいたのである。酸味用のレモンとか、甘味用の砂糖などはまだほとんど使われてはいないし、ましてコーヒーやお茶の微妙な興奮剤はまだ発見されていなかった。王侯貴族でさえ、愚かしい牛飲馬食にまぎれて、食事の生彩を欠いた単調さをみすごしていた。ところが、すばらしいことが起こったのだ。どんなにそまつな料理であろうと、たった一粒のインドの香辛料、僅かちりほどのコショウ、乾いたニクズクの皮、ナイフの先ほどのショウガ、あるいはニッケイがこれにまぜられると、もうごきげんになった口腔は、食欲をそそる異様な刺激を感じるのであった。酸味と甘味、苛烈な味と気の抜けた無味といった極端な長調と短調の差異の間に、だしぬけに美味な、料理上の陪音と中間音が共鳴する。まだ野蛮な中世の味覚神経は、たちまちこの新しい刺激剤をいくら手に入れても満足するわけにはゆかなくなる。料理は、いやというほどコショウをふりかけ、口をひどく焼けただらせるときにはじめて、本物の料理と見なされるのであった。ビールにさえもショウガが投げ入れられ、ぶどう酒も、つきくだいた香辛料で熱くされて、ひと飲みするごとにまるで火薬のように咽喉を焼くほどであった。
 しかし西欧がこんなに莫大な量のインドの香辛料を必要としたのは、たんに台所のためばかりではなかった。婦人の虚栄心もますます多くのアラビアの芳香類を必要とし、つぎつぎと新しい芳香類、挑発的な麝香(じゃこう)、酔わすような竜涎香(りゅうぜんこう)、甘美なバラ油を求めたのであった。織物師や染物師はシナの綿類やインドの緞子(どんす)を婦人たちのために加工し、金銀細工師はセイロンの白真珠、ナルジンガール産の青ダイヤをせり落さねばならなかった。さらに強力に東方の物産の消費を助長したのは、カトリック教会であった。というのは、ヨーロッパの幾千という教会で納室掛りが香炉にふりまく幾十億という薫香は、ただの一粒もヨーロッパの土地には産出せず、これら幾十億の一粒二粒が海路ないし陸路を経て、アラビアから果てしない道を運ばれてこなければならなかったからである。薬種商もまた、ひどく有名なインドの特効薬、たとえば阿片、樟脳(しょうのう)、貴重なゴム樹脂などのいつも変らぬお得意先であった。彼らは香油も薬種も、もし磁器製のるつぼの上に青い文字でarabicum〔アラビアの〕とかindicum〔インドの〕とかいう魔法の言葉が書かれていないと、病人にはもうとうに、ききめがありそうには思われなくなっていることを、十分な経験から知っていた。すべて東洋のものは、遠隔の地のものであり、稀少価値と異国趣味があり、おそらくまた高価でもあるために、ヨーロッパにとっては暗示的な、催眠術的魅力をもっていたようである。中世には「アラビアの」「ペルシャの」「ヒンドスタンの」などという付加語は(ちょうど十八世紀に「フランスの」という原産地名が持ったのと同じく)豊かな、洗練された、上品な、宮廷風の、貴重な、高価な、といった形容詞と同じ意味をもった。およそ取引きされる商品のうちで、「エスペセリア」〔インドの香辛料〕ほど人のほしがった商品はない。まるでこの東洋の国々の花の香が、魔法でヨーロッパの魂を魅了してしまったかのようであった。
 しかし、インドの商品は、こんなに人気を集めたために値段が一向に下らず、ますます高くなる一方であった。たえず上昇する価格曲線は今日でもなお正しく算定するのが困難である。なぜといって、歴史的な価格表はすべて、経験上抽象的にとどまらざるを得ないからである。今日どこの料理店のテーブルの上にも自由に置かれて、砂のように何の注意も払われずにふりかけられるあのコショウが、十一世紀の初めには一粒ずつ数えられ、重さではほとんど銀と同価格と考えられたことを思い起こせば、気ちがいじみたこの香辛料の過大評価も一目瞭然に手取り早く理解できる。その価格の安定は絶対であったから、国家や都市のなかには、貴金属と同様、コショウでもって物の価格を算定するところもあった。コショウで土地を入手し、持参金を払い、市民権を獲得することができた。コショウの重さで租税をきめる領主や都市もあった。そして中世には、大金持を罵ろうと思えば「コショウ袋」と叫ぶのだった。さらに、ショウガ、ニッケイ、きな皮、樟脳などは黄金秤ではかられたが、そういうときには、貴重な粉末がほんの少しでもすきま風に吹きとばされたりすることのないように、扉や窓が入念にしめきられた。こうした過大評価は、今日のわれわれの目で見れば、実に不合理にうつるかもしれないが、輸送の障害や危険を考慮に入れれば、これも自明のこととなる。
 あの当時、東洋から西欧への道ははかりしれぬほど遠かった。船も隊商も車両もその途中、どんなにか危険と困難を克服しなければならなかったことであろう。一つ一つの粒が、一つ一つの花が、マライ多島海の緑の灌木から最後の岸辺まで、そしてヨーロッパの小売商の販売台に達するまでには、何というオデュッセウスの大航海に堪えねばならなかったことだろう。もちろんこれらの香辛料のどれもが、それ自体世に稀なものではないであろう。地球の下に当る裏側では、なるほどティドーレ島のニッケイ棒、アンボイナ島のチョウジ、バンダ島のニクズク、マラバール島のコショウの灌木がわれわれの国のアザミのようにむぞうさにおい繁っている。そしてマライの島々では、たとえ百ポンドあろうと、小刀のさきほどの分量が西洋で持つ価値にも及ばないのである。しかし、取引き(Handel)という言葉は手(Hand)という言葉からきていて、こうした品物が砂漠や大洋を越えて最後の買い手である消費者の手に渡るまでに、どれほど多くの手を経なければならなかったことであろう。最初の手に支払われる労賃はいつもながらもっともひどい。新鮮な花を摘んで靱皮製の包みにくるみ、褐色の背にしょって市場へ運ぶマライの奴隷は、自分の汗のほかには何の報酬ももらわない。しかし彼らの主人にはもう、儲けがある。イスラム教徒の商人が、この主人から荷を買い入れ、ちっぼけなプラウ船〔マレー多島海の島民の使用する小舟〕にのせ、灼熱の炎暑の中を香料諸島〔モルッカ諸島〕から八日、十日、いやそれ以上の日数をかけてマラッカ〔今日のシンガポールの近く〕まで漕いでゆく。ここにはもう最初の吸血ぐもが網を張っている。港の主である勢力あるサルタンが、荷の積みかえに租税を要求する。この税を払ってはじめて、香ばしい積荷はべつの大きいジャンクに積みかえることを許され、小舟はふたたび幅広のオールと四角な帆にたよって、インドの沿岸の地に一つ一つ寄りながら、ゆっくりと進んでゆく。こうして数ヵ月が過ぎ去る。単調な帆走。凪(なぎ)に会えば一片の雲もない炎熱の空のもとで、無限に待たなければならない。そうかと思うとまたいきなり台風や海賊船から遁走しなければならない。二つ、三つの熱帯の海を越えるこの運搬は、無限の苦労と、また言いがたい危険にさらされるのである。五隻のうち一隻は、ほとんどいつでも途中で嵐か海賊の犠牲になる。問屋商人は、カンバグダを無事迂回してついにホルムズ海峡〔ペルシャ湾の入口にある〕ないしアデン湾に達し、同時にアラビア・フェーリックスあるいはエジプトの入口に無事にたどりつくと、神に感謝を捧げるのである。しかしここから始まる新たな運搬法も、前に劣らず窮乏にみち、危険にさらされている。幾千頭のラクダの群れがこれらの積換港に長い、忍耐強い列をつくって、主人の合図に柔順に膝をつくと、縄でくくられたコショウやニクズクの外皮の包みが、幾袋となくその背に積まれ、やがてこの四肢の船は砂の大海を、荷を揺らせながらおもむろに進んでゆく。アラビアの隊商たちは数ヵ月にわたる行旅をつづけてインドの品物を――千一夜物語の地名が耳に響くのだが――バッソーラ、バグダード、ダマスクスを経てベイルートやトレビゾンデヘ、あるいはジッダを経てカイロへと運ぶのである。この長い砂漠を横ぎる行路はきわめて古く、ファラオ〔古代エジプトの王の称号〕やバクトリア人〔古代ペルシャの種族名〕の時代からすでに商人たちにとって親しいものであった。しかし、彼らは不幸にも、砂漠の海賊ベドウィン人の恐しさをもそれに劣らずくわしく知らされていた。大胆な襲撃がしばしば苦しい長年月の成果である貨物を一挙にして絶滅してしまう。砂嵐やベドウィン人の難をうまく逃れたものは、そのかわり別な盗賊の手にまんまとおちいる。ヘジャズ〔サウジアラビアの海岸地帯〕の大公やエジプト、シリアのサルタンたちは、どのラクダの荷からも、またどの袋からも租税をとりたてた。しかもきわめて高い税を要求したのである。エジプトのおいはぎが、香辛料取引きから通行税として年々取上げた額だけでも十万ドゥカーテンを下らぬと見積られる。やっとのことでアレクサンドリアに近いナイル河口に達すると、そこにはなお、最後の決して軽視できない用益者であるヴェネチアの船隊が待ちうけている。この小共和国は、競争都市ビザンチンを陰険な手段に訴えて絶滅して以来、西欧での香辛料取引きの独占権を完全に奪い取っていた。商品は直接そこから運送されずに、まずヴェネチアのリアルトの橋に運ばれねばならない。ここでドイツやフランドルやイギリスの商館代理人たちが商品をせり落すのである。二年前に熱帯の太陽によって生まれ、醗酵したこれらの花が、こうしてやっと幅の広い車輪のついた車でアルプスの峠の雪と氷の中をごろごろと運ばれ、ヨーロッパの小売商と、さらに消費者の手へ渡ることになるのである。

……「第一章 航海が必要である」
冒頭より

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