「マローン御難」

クレイグ・ライス/ 森郁夫訳

ドットブック版 325KB/テキストファイル 204KB

600円

嫌悪すべきことが起ころうとしていた。むかつくようないやなことが! 弁護士マローンの予感は的中した。その夜、会う約束をしていた男――有力な財界人で、防犯委員会の委員であり、おまけにマローン撲滅委員会のワン・マン委員長を自任していたレナード・エスタプールが、冷たい死体となっていたのだ。犯人はマローンに罠をかけた! 酔いどれ弁護士マローンはこの事件にどう向き合えばいいのか。クレイグ・ライス最後の傑作!

クレイグ・ライス(1908〜57) アガサ・クリスティの独創性、ダシール・ハメットのスピード感、ドロシー・セイヤーズのウィットを複合して独特の語り口で結合させたと評される、アメリカを代表する女性作家。笑いのある本格ミステリというユニークな作風は、他の追随をゆるさない。他の代表作に 「大あたり殺人事件」「大はずれ殺人事件」「こびと殺人事件」「幸運な死体」など。

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 何かいやなことが起りかけている。途方もなくむかつくような、いやなことが。ジョン・J・マローンは、はっきり感じた。
 この確信は第六感からきたのでもなく、また、水晶球による占いから得たものでもなかった。《天使のジョーのシティ・ホール・バー》の所有者兼マネージャー兼バーテンダーが、彼の方を気遣わしげに見つめた、その表情から判断したのである。まったく天使のジョーは、たった今たてつづけに二杯もマローンに酒を奢(おご)ってくれたばかりだったので、いよいよ気になるのだった。
「これがただの悪夢にすぎなかったら」と小男の弁護士は、憂鬱そうに言った。「気分の転換を計れば、それですむところなんだが」
「マローン」と天使のジョーが、心配そうな声で言った。「行かない方が、いいんじゃないかなあ」
 マローンは首を振った。事務所に待っている差しせまった会見の約束は、友だちの暗い予言と自身のいやな予感にも拘らず、厳守したい約束である。誘拐事件を解決することになるかもしれない。殺人事件を、未然に防ぐことになるかもしれない。かずかずの問題を、解決することになるかもしれないではないか。その多くは政治的問題で、そのすべては複雑かつ不愉快な問題である可能性もある。それのみならず、ジョン・J・マローンの懐具合もよくなりかねないのである。
 彼はカウンターの上の掛時計に目をあげた。まだ早い。が彼は、生まれて初めて、天使のジョーのここちよい避難所から出たくなった。それはこれからの一、二時間を待ちきれないという意味ではなくて、彼がコマンディ事件の仲介者に選ばれたことに対する天使のジョーの反応が、マローンをそわそわさせるからなのだ。実際、事件全体の様相が、彼を不安に陥れていた。彼は絶えず、面倒に巻きこまれる。そして、面倒な事件が彼を前から待ち伏せしていたことに、やっと気づくのである。しかし今度ばかりは、どんな種類のトラブルが待っているのか、それをあらかじめ知っておきたい。
 彼はおもしろくなさそうに溜息をつき、ライ・ウイスキーを飲みほして、外の夜へ歩み出た。飲んだアルコールがぽっと頭へのぼりそうな夜で、暖かい春の夜風が、仕事の約束なんかよりははるかに愉しい行動をとれ、と彼にひそひそ囁いた。天然色のお月さまに代って、ネオン・サインの柔らかい光が輝き、近くの蓄音機店から流れてくる拡声器の音は、星座の楽音もかくやとばかりに聞こえた。が、この夜は、マローンのものではない。今夜はだめだ。お月さまの光と、特別な会見の約束とを、同一視するわけにはゆかない。
 十時五分すぎだった。会見は、十時三十分に約束されている。マローンは事務所に入って一人になり、ひっそり思案をめぐらすことにきめた。彼は一瞬、歩をとどめて、通りの反対から、幾らか薄汚れた、洒落たというにはほど遠いビルディングに見入った。その建物に彼の事務所が入居したのは、もう記憶も薄れたほど昔のことだが、彼が夜間制の法律学校を卒業し、試験に合格して、タクシーの運転手をやめたときだった。
 突如として、まるでいわれのない衝動に駆られた彼は、横町を駆け抜け、裏手へ廻り、裏口のドアを鍵であけ、セルフ・サービス式の貨物エレベーターに乗って事務所へあがった。この衝動たるや、のちにのっぴきならぬ瀬戸際まで追いつめられたときでさえ、何とも説明のつかぬものだったのである。廊下は暗く、森閑(しんかん)としているのみならず、まったく陰気そのものだった。不吉だ、と言ってもいいくらいだった。
 マローンは葉巻に火をつけ、みじかいが断乎たる言葉を自分の胸に言い聞かせてから、ドアをひらき、電燈のスイッチをひねった。そして、声もなく立ちつくした。葉巻の火の消えるのにも、気がつかなかった。
 これに似たことは、遅かれ早かれ、いずれ起こる運命にあったのだ。今までに起こらなかったことが、むしろ驚異であった。マローンはレナード・エスタプールの死体を見おろした。相当な格闘が行われたらしく見えるように、念入りに作為されている。俺を殺人容疑者に見せかけようとした奴は、なかなかどうして、美事な腕前だ、誰だか知らないが、巧妙なものだ、と彼は考えこんだ。
 が、彼の守護天使も、大した腕前だった。守護天使は、彼を予定より十五分も早く、現場へ連れもどしたではないか。なぜなら、この場合は迅速に行動し、事後の処置について、思案をめぐらさなければならない場合の一つであるからだ。
 財政家、堅実なる市民、秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)たる人格者にして犯罪撲滅(ぼくめつ)の十字軍騎士とも言うべき、防犯委員会の委員であるレナード・エスタプールは、同時にまた、マローン撲滅委員会のワン・マン委員長をもって自任していた。その御本人がいま、ジョン・J・マローン事務所の床に、おきまりの鈍器により殴打されて、伸びているのだ――この場合、鈍器は、マローンのデスクの上に置いてあった、重い青銅製の仏像であった。


……巻頭より

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