「マルテの手記」

リルケ作/星野慎一訳

ドットブック 219KB/テキストファイル 187KB

400円

 パリの裏町のアパートに住む青年マルテは、死と孤独と貧しさを見つめて暮らしている。「手記」は「死」「愛」「孤独」「思い出」「さまざまな旅」を五十四のパラグラフにつづって、マルテの心象風景を描き出す。プラハ生まれのドイツの詩人リルケが六年の時間をかけてつづった散文詩。
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 まあ、要するに、人はみな生きるためにここへやって来るのだが、ぼくにはむしろ、ここは死にやすいところではないのか、というふうに思える。ぼくは外を歩いてきた。目にうつったのは、いくつかの病院だった。ふらふらとよろめいて倒れた男を見た。みんなが彼の回りに集まったので、そのさきの様子は、見ずにすんだ。ひとりの妊婦(にんぷ)を見た。日射しでぬくもった高い石塀にそいながら、大儀(たいぎ)そうにゆっくり歩いていた。彼女は時おり、その塀に手をふれた。まだ塀がつづいているかどうかを、たしかめてみるかのように。たしかに、塀はまだつづいていた。その中は? ぼくは地図をしらべてみた。産院だった。なるほど。お産をさせてもらえるのだな……それが、できるところだ。そのさきは、サン・ジャック街。丸屋根の一つの大きな建物がある。地図を見ると、ヴァル・ド・グラース陸軍病院だった。格別知る必要もないことだったが、知ったからといって、困ることでもない。街(とおり)が方々からにおいはじめた。かぎわけられるかぎりでは、ヨードホルムや、いためジャガの油や、「不安」などのにおいだった。夏になると、どの町も、におうものだ。それから奇妙な、内障眼(そこひ)のような家にもお目にかかった。それは、地図には見あたらなかったが、ドアの上には、まだかなりはっきり読みとれるように、「簡易宿泊所」と書かれてあった。入口のそばに、宿泊料金がしるされてあった。読んでみたが、高くはなかった。
 それから、ほかには? 置きっぱなしの乳母車のなかのひとりの子ども。ふとっちょで、青白く額の上にはっきりと吹出物がでていた。が、見たところすっかりなおっていて、もう痛みはなかった。子どもは眠っていた。口はあいたままで、ヨードホルムと、いためジャガと、「不安」を、呼吸していた。ほかにどうしようもないのだ。肝心なことは、その子が、生きていることだった。それが肝心なことだった。

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