「人間狩り」

フィリップ・K・ディック/仁賀克雄訳

ドットブック版 434KB/テキストファイル 150KB

600円

「絶対的悪夢の戦慄すべき象徴化」と評されるディック初期の短編作品群は、著者自らが語るように、後の長編代表作の原型となるものである。廃墟を徘徊するミュータントの群れ、物質に奇襲される人間の恐怖、極限的なパラノイア状況など、ディック・ワールドの中核をなす自己と現実の崩壊の物語を中心とした選り抜き7編に、本邦初訳、子供とロボットの交感とその悲劇的な結末を描いた「ナニー」を加えた傑作短編集。

フィリップ・K・ディック(1928〜82)米国カリフォルニア州サンタ・アナ生まれのSF作家。カリフォルニア大学卒。処女長編「偶然世界」で認められ、「高い城の男」(ヒューゴー賞受賞)「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(映画「ブレードランナー」の原作)など傑作を次々に発表した。ディックの作品では、現実と仮想世界との矛盾に最大の力点が置かれている、キレのよいSF短編の書き手としても知られる。

立ち読みフロア
 ローレンス・ホール少佐は顕微鏡に身をかがめると、焦点を調節した。
「おもしろいな」かれは呟(つぶや)いた。
「そう思わないか? この星へ来て三週間にもなろうというのに、まだひとつも有害な生命体にはお目にかかっていない」
 フレンドリイ中尉は培養鉢を避けて、試験室の机の端に腰かけた。
「なんて星だ? 病原菌も、ノミも、ハエも、ネズミもいやしない――」
「ウイスキーもなければ、赤線地帯もないしな」ホールは身を起こした。「妙なところだ。この培養液からは、さしずめ地球の腸チフス菌まがいのものがみつかると思っていたのに。さもなけりゃ火星の砂漠の腐った栓抜きみたいなものがね」
「それにしても、この星には害のあるものはまるで見あたらないな。まるでエデンの園みたいじゃないか。われわれの先祖が出た後の」
「追いだされた後のだろう」
 ホールは試験室の窓際に所在なく歩いて行くと、窓の向うの景色に眼を凝らした。それがすばらしい眺めであることには異論がなかった。なだらかな起伏に富んだ森や丘、花と蔓草(つるくさ)がからみ合う眼もさめるような緑のスロープ、滝、垂れさがる苔(こけ)、果樹、花畑、湖。このプラネット・ブルーの地表を自然のまま保護するために、あらゆる努力が払われている――それは六か月前に最初の偵察艇により発見された時そのままの姿だった。
 ホールは溜息(ためいき)をついた。「すばらしい場所さ。いつかまた来てみたいね」
「ここを見ていると、地球は少し殺風景すぎる気がするよ」フレンドリイはタバコを取り出したが、またしまった。「しかしここにいるとおかしくならないかい。おれはタバコが嫌いになったよ。あたりの雰囲気のせいだと思うがね。あまりにも――清潔すぎるんだ。汚せなくなるんだな。外でタバコを捨てたり、紙クズを投げたりできなくなったよ。ピクニックにも行けやしない」
「すぐにピクニッカーたちでいっぱいになるよ」ホールはそういうと、顕微鏡へ戻った。「もう少し培養菌を調べてみる。病原菌が見つかるかもしれん」
「ごくろうさま」フレンドリイ中尉は机をとびこした。「それじゃまたあとで、うまくいったかどうか教えてもらうことにするよ。これから一号室で大きな会議があるんだ。植民省に対して、植民の第一陣の出発許可を与えようというのさ」
「ピクニッカーたちにかい!」
 フレンドリイはにやりとした。「らしいね」
 かれの背後でドアが閉まった。その靴音は廊下にこだましながら遠ざかって行った。ホールはひとり試験室に残った。
 かれはしばし思いにふけっていたが、やがて身をかがめると、顕微鏡の載物台からスライドをとりだし、新しいのを選び、マークを読むためにあかりにすかした。試験室は暖かく静かだった。太陽の光は窓を通して燦々(さんさん)とさしこみ、床を照らしている。戸外の樹々は微風にゆらいでいた。かれは眠気を催してきた。
「ふん、ピクニッカーか」かれはいまいましそうにいった。それから新しいスライドの位置を調整した。「やつらが入りこんでくると、樹を切り倒し、花を手折り、湖に唾(つば)を吐き、草を燃やす。風邪(かぜ)のウイルスさえいないこの土地に――」
 かれは絶句した。声が出なくなってしまったのだ。
 顕微鏡の二つの接眼レンズが、いきなりかれの喉首(のどくび)の方へねじれてきて、絞め殺そうとしたのだ。ホールはあわててひきはなそうとした。しかし、それはなおも喉首を絞めてくる。鋼鉄の尖端が罠(わな)の歯のようにじりじり閉じてくるのだ。
 かれはやっとのことで顕微鏡を床に叩(たた)きつけると、とびずさった。顕微鏡はすばやく這(は)い寄ってくると、かれの脚を引っかけようとした。それをもう片方の足でけとばすと、破壊銃を抜いた。
 顕微鏡は慌てたように、粗動ハンドルを回転させながら逃げた。ホールは発砲した。それは金属の細粉となって四散した。
「ちくしょう!」ホールはぐったり腰をおろすと、額の汗をぬぐった。「なんて――?」かれは喉首をさすった。「いったい、どうしたというんだ!」

 会議室は満員だった。プラネット・ブルー部隊の士官全員が集合している。ステラ・モリスン司令官は細いプラスティックの棒の先端で、大きな支配圏地図を叩いた。
「この広大な平地は都市の建設にはうってつけの場所です。水源地も近く、気象条件も充分変化に富み、居住者にとっては最適です。鉱物資源の埋蔵量も相当なものです。入植者たちが工場を建設することも可能です。すべて自給自足できます。この辺は最大の森林地帯です。入植者たちが自然について深い理解を持っていれば、そのまま保存に務めるでしょう。しかし、かれらがそれを伐採して、新聞紙の原料にしたところで、われわれの関知するところではありません」
 彼女は謹聴している士官たちを見わたした。
「話を本題に戻して、諸君のなかには、植民省に対して受け入れ許可の通知を出すべきではない、われわれの手でこの星を保存しようという考えの人もいると聞いています。じつはわたしも同じような考えを持っています。しかし、そうすれば多くの困難に巻きこまれるだけです。この星はわれわれのものではありません。ここにいるのは仕事のためだけであり、終ればまた他の星へ移るのです。作業は終りに近づいています。ですから、そういう考えは捨てることにしましょう。このあと植民出発許可の信号を送ったら、すぐに引揚げの用意をして下さい」
「バクテリアに関する報告は試験室からもらいましたか?」ウッド副司令官が訊(き)いた。
「バクテリアの発見には綿密な注意を払ってきました。しかし、いまだ発見の報告は受けていません。それで、植民省に直ちに連絡してもよいと考えます。最初の入植者と入れかわりに、われわれは引き揚げることになります。理由もなしに――」彼女は言葉を途切った。
 ざわめきが部屋の隅から拡がってきた。一斉に頭が入口の方をふり向いた。
 モリスン司令官は眉(まゆ)をひそめた。「ホール少佐、会議中には邪魔はやめて下さい!」
 ホールはふらふらしながら、ドアのノブを握って身を支えていた。そしてぼんやりと会議場を見まわした。やがて部屋の中ほどに坐っているフレンドリイ中尉にうつろな眼を向けた。
「ちょっときてくれ」かれは苦しげな声をふりしぼった。
「どうした?」フレンドリイは腰を上げようとはしなかった。
「少佐、これはいったいどうしたことだ?」ウッド副司令官はとがめだてた。「酔っているのか、それとも――?」かれはホールが手にした破壊銃に眼をとめた。「何があったんだ、少佐?」
 驚いたフレンドリイ中尉は立ちあがると、ホールに歩み寄り肩をつかんだ。
「どうしたというんだ? 何があったんだ?」
「試験室へきてくれ」
「何かを見つけたんだな?」中尉は友人の緊張した顔をうかがった。「それは何だ?」
「いいからきてくれ」ホールは廊下へと出た。フレンドリイが後に続く。ホールは試験室のドアを押し開け、忍び足でふみこんだ。
「何がいるんだ?」フレンドリイはくりかえした。
「おれの顕微鏡が」
「きみの顕微鏡? それがどうした?」フレンドリイはかれを押しのけると中に入った。
「どこにも見えないじゃないか」
「失(な)くなったんだ」
「失くなった? どこへ行ったんだ?」
「おれが破壊した」
「きみが破壊した?」フレンドリイは友人を凝視した。「わからん。どうしてだ?」
 ホールの口がぱくぱくしたが、声にならない。
「だいじょうぶか?」フレンドリイは心配そうに訊いた。それから身をかがめると、机の下から黒いプラスティック・ボックスをとりだした。
「おい、これは悪い冗談かい?」
 かれはボックスからホールの顕微鏡をとりだした。
「これを破壊したといったな? このとおりいつもの場所に納まっているじゃないか。さあ、ほんとうのことを話してくれ。きみはスライドの上に何を見たんだ? バクテリアか? 有害なやつか? 毒性のあるやつか?」
 ホールはゆっくりと顕微鏡に近づいた。それはたしかにかれのものだった。調整装置の上に刻み目がある。載物台のクリップのひとつがほんの少し曲っている。かれはそれを指の腹で撫(な)でた。
 五分前に、この顕微鏡はかれを殺そうとしたのだ。かれは発砲し、それを雲散霧消させた。
「きみは精神鑑定を受けた方がよくないか?」フレンドリイは心配そうに尋ねた。「衝撃後遺症か何かみたいだぞ」
「そうかも知れん」ホールはつぶやいた。

……「植民地」冒頭より


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