「トーマス・マン短編集 1・2」

トーマス・マン/佐藤晃一訳

(1)ドットブック 201KB/テキストファイル 169KB

(2)ドットブック 214KB/テキストファイル 182KB

各400円

肉体と精神、普通人と芸術家を対立的な存在とみて、そこに現出するさまざまな表情をとらえたマンの短編集。(1)には、「幸福への意志」「幻滅」」「小さなフリーデマン氏」「道化者」「トビーアス・ミンダーニッケル」「衣装戸棚」「ルイスヘン」「トリスタン」の8編を収録。(2)には、「予言者の家で」「悩みのひととき」の短編2つと「詐欺師クルルの告白」「掟」の中編2つを収録した。

トーマス・マン(1875〜1955)北ドイツの商業都市リューベックの古い商人の家の生まれ。父親が亡くなると、家族と共にミュンヘンに移り、保険会社や風刺新聞の社員として働いた。ショーペンハウアーとニーチェの二人の哲学、さらに作曲家ワーグナーの影響を受け、19歳のころからおもに短編小説に手を染めたが、1900年に発表した「ブッデンブローク家の人びと」で文学的名声を確立した。芸術家的な気質をもった男と、彼が属する中産階級の環境との間の対立というテーマは、のちの作品「トーニオ・クレーガー」にも、「ヴェニスに死す」にも見られる。しかし、マンの創作は、20世紀を代表する傑作小説とうたわれる「魔の山」(1924)で頂点をむかえる。33年にヒトラーが政権をとると、国外に亡命、初めはスイスに逃れ、ドイツ市民権を剥奪されると、38年アメリカに渡り、のちアメリカの市民権を得た。第二次世界大戦終結後、再びスイスに戻ってチューリヒに居を定め、そこで亡くなった。代表作は他に「ヨゼフとその兄弟」「ファウスト博士」など。

立ち読みフロア
幸福への意志

 老ホフマンはその金を南アメリカの農場主として儲(もう)けたのだった。彼は、その地で家柄の良い土着の娘と結婚してから、まもなく妻を連れて故郷の北ドイツへ引きあげてきたのである。彼らはぼくの生まれた町で暮らしていたが、そこにはホフマンの他の家族たちも住みついていた。パーオロはこの町で生まれた。
 しかし、パーオロの両親をぼくはあまりよくは知らなかった。とにかく、パーオロはその母親に生きうつしだったのである。ぼくが彼をはじめて見たとき、というのは、ぼくらの父親たちがぼくらをはじめて小学校へ連れていった時、彼は黄ばんだ顔色の、痩せこけた少年だった。いまでもその姿が目に浮かんでくる。彼はそのとき黒い髪の毛を長く伸ばしていたが、それがもじゃもじゃとちぢれながら水兵服の襟に垂れかかって、細面の彼の小さな顔を縁(ふち)取っていた。
 ぼくらはどちらも家庭では非常に幸福に暮らしていたのだから、新しい環境、つまり殺風景な教室や、とくに、ぼくらにぜひともABCを教えようとする赤ひげの、みすぼらしい人間にはどうしても同意できなかった。ぼくは立ち去ろうとする父親の上着を泣きながらしっかりとつかんでいたが、パーオロはまるきり受け身の態度を取っていた。彼は身動きもしないで壁にもたれて、細い唇をきゅっと引きむすんだまま、涙でいっぱいになった大きな目で、希望に満ちた他の少年たちをじっとみつめていたのである。その連中は横腹をつつきあいながら、思いやりもなくにやにや笑っていた。
 こんなぐあいに鬼のような連中に取りかこまれていたので、ぼくらは最初からおたがいにひきつけられるような感じがして、赤ひげの教育家がぼくらを並んですわらせてくれたときには、非常にうれしかった。そのときからぼくらは団結して、共同で教育の基礎をきずいたり、毎日弁当のバタパンを交換したりした。
 ところで、いま思い出してみると、彼はもうその当時から虚弱だった。ときどきかなり長く学校を休まなければならなかったのだが、また出てくると、いつも彼のこめかみや頬には普段よりもいっそうはっきりと血管のうす青い筋が浮き出ていた。きゃしゃな、褐色のはだをした人にかぎって、よくそういううす青い筋を出しているものである。彼はいつもそれを出していた。それは、ぼくらがこのミュンヘンで再会したときにも、また、その後ローマでめぐり会ったときにも、第一番にぼくの目についたものだった。
 ぼくらの親交は、それが生まれたのとほぼ同じ理由から、学校時代を通じてずっと継続した。理由というのは同級生の大多数にたいする「距離の激情」だったが、これは、十五歳でひそかにハイネを読み、高等学校の第三学級くらいで世界や人類に断固とした判断をくだすほどの者なら、だれでも知っている激情である。
 ぼくらは――ふたりとも十六歳だったと思うが――ダンスの稽古にもいっしょに行って、その結果いっしょに初恋を体験した。

……冒頭より

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