「マネキン人形殺害事件」

S・A・ステーマン/松村喜雄訳

ドットブック版 174KB/テキストファイル 152KB

500円

真夜中になっても激しい雨が降り続いていた。グランモン行きの列車がこの小さな田舎駅で臨時停車をしなかったら、エイメ・マレイズ警部はこれほど奇妙な事件に遭遇しなかっただろう。翌朝、一泊した旅籠を出てマレイズが駅前まで来ると、洋服屋の飾り窓が破られ、大騒ぎになっていた。マネキン人形が盗まれたらしい。こんな田舎町では希有の出来事だった。しかもその人形は、心臓部にナイフを突き立てられ両眼をえぐられて線路上に横たえられているのが見つかった。明らかに轢断を計ったものだ。マレイズの警察官としての本能は、この「人形殺害」の背後に陰湿な犯罪の匂いを嗅ぎとった。ステーマンの長編本格推理の最高傑作!

S・A・ステーマン(1908〜70) シムノンと並ぶベルギー出身の本格ミステリー作家。1930年代のフランス本格推理小説の黄金時代を築いた。16歳から新聞のルポライターをつとめ、かたわら同僚記者のサンテールと合作で何作かのミステリーを書き、フランスのマスク叢書から出版される。1931年に発表した「六死人」がフランス冒険小説大賞に輝き、以後ひとり立ちして本格推理小説を次々に発表し人気作家となった。アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督で映画化された「殺人者は21番地に住む」も代表作である。

立ち読みフロア

 エイメ・マレイズは、列車の昇降口のドアガラスを、身をかがめて開け、注意深く窓外を見まもった。黒インクのような、どろんとした空の下で、横なぐりの大粒の雨が、見事に縞模様(しまもよう)をえがいていた。停車した列車の列をまんなかにして、なにもかもが風で荒れ狂い、まるで狼(おおかみ)の群れが、すさまじく吼(ほ)えつづけているようであった。
 その旅客は、じっと窓外を見まもっていたが、激しく身顫(みぶる)いをする近くの数本のポプラの木の影と、藁(わら)ぶきのあばら家の濃い塊りとを認めたのだった。つぎに、身体をのり出すようにして、彼は左方(ひだりかた)数百メートルのところで、大粒の雨にかすみ、ぼんやりした光の暈(かさ)に、ちらりと視線を向けた。
 マレイズは、かぶっている帽子を、怒ったようにポンと一つたたくと、スーツケースを手に持ち、昇降口から鉄道線路の砂利の上に飛びおりた。
《うまくやるんだぞ。やり損じはご免だからね!》と、彼は考えた。
 雨が顔をたたき、キラキラと輝いて流れた。靴(くつ)の底が、かたくとがった砂利の上で、たえずすべった。先頭の機関車が、頭をぐっと持ち上げるようにして、白い蒸気を吐き出すと、何台もの灯(ひ)の入った長い客車の列を引っぱって、ゆっくり動き出した。
 プラットフォームに投げかける、走り去る列車の最後尾の灯(あか)りをたよりに、エイメ・マレイズは、プラットフォームに上がり、駅の建物の灯りがもれている窓に歩み寄って、窓枠(まどわく)を拳(こぶし)でコツコツとたたいた。
 屋内で人の動く気配はうかがえなかった。赤と黒の市松(いちまつ)模様の窓のカーテンを開ける者がいなかった。
 けれど、その部屋に、男が一人いたのだ。長いテーブルに鉄道地図が広げられ、そのテーブルを前に、その男は坐(すわ)っていた。緑色の陶器を笠(かさ)にした、事務所用ランプの灯りが、鉄道員制服のボタンを、キラキラ輝かせていた。その男は、両眼の間に小皺(こじわ)をよせ、何か熱心に書いていた。
 エイメ・マレイズは、窓枠を力まかせにたたきつづけていた。
《こいつ、ツンボかもしれんぞ!》と、マレイズはひとりごとをいい、さらに強く、ガラスがこわれるかと思われるほど、ガンガンたたきつづけた。
 やっと、室内で男の動く気配がした。ゆっくりと頭を持ち上げ、手をのばし、引き出しを開けた。それから眼(め)をしばたたき、じっと窓を見つめていた。やがて、右手を上着のポケットに突っ込むと、長椅子(ながいす)から立ちあがり、プラットフォームに出るドアに向かって、注意深く迂回(うかい)しながら、近づいていった。
 エイメ・マレイズも、それと同じドアのほうに近寄った。ドアの前で足をとめると、ドアの向こう側から、緊張した声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
 相手のその疑い深いやり方に、マレイズはすっかり腹をたてていた。
「サンタクロースだ!」と、挑戦的な声で叫んだ。
 最初の返事は、沈黙だった。それから、鍵穴(かぎあな)に鍵を入れる音がして、突然ドアが開かれた。
「どなたです、あなたは? なんですか、ご用は?」
「部屋のなかに入れてくれるか、駅から外に出していただくか、どちらかに願いたいものですな」と、マレイズは皮肉った。「汽車を間違えて乗ったのですよ」
「へえ! 間違えたんですか、汽車を……」
 その声は、相手を疑っている様子だった。
「ほら、これが乗車券ですよ。さあ、ここから出してください」
 駅長は、乗車券にチラッと眼をやると、さすがに、態度を変えた。マレイズは、駅長を押しのけるようにして部屋に入り、すぐドアを閉めた。

……第一章冒頭より


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