「火星の女神イサス」

E・R・バローズ/小笠原豊樹訳

ドットブック版 197KB/テキストファイル 205KB

500円

最愛の妻デジャー・ソリスの身を案じつつ地球で十年をすごしたジョン・カーターは、再び火星へ飛来、イス川が流れこむコルスの海のほとりに下り立つ。イス川の奥地には楽園があると信じられ、闘争に明け暮れる緑色人や赤色人たちの唯一の希望は、天寿を全うして、そこへたどりつくことであった。だがカーターが目にしたその地は楽園どころか、未曾有の怪奇でグロテスクな生物がうようよする地獄さながらの場所であった。火星人たちの迷信は徹底的に破壊され、女神イサスとの対決で物語はクライマックスへ。火星シリーズ第2弾。

エドガー・ライス・バローズ(米、1875〜1950)シカゴ生まれ。75歳で亡くなるまでに、20冊あまりのターザン物、10冊の「火星シリーズ」をはじめ、金星や月や地底やアメリカ西部を舞台にした数多くの小説を書き、大人気作家となった。その作品の多くは今日でも「一服のよく効く清涼剤」として延々と読みつがれている。

立ち読みフロア

 一八八六年三月初めの、あの澄みきった寒い夜、灰色の幻のように音もなく流れる雄大なハドソン川を見おろす別荘の前の断崖に立っていたとき、私はふたたび、強大な戦《いくさ》の神、わが愛する火星の、どうにも抵抗できない不思議な力が自分に迫ってくるのを感じた。寂しい思いで十年もの長い間、いとしい人のもとへ連れ戻してくれと、私は両腕を広げて火星に懇願しつづけたのである。
 軍神火星《マルス》のこのような抵抗しようのない力に引きつけられるのを感じたのは、あの一八六六年の月も同じ三月の夜、私の体の生命《いのち》のないぬけがら《ヽヽヽヽ》がこの世の死体と変わりない姿で横たわるアリゾナの洞窟の外に立っていたとき以来のことだった。
 赤い目のように輝く巨大な星に向かって両腕をさしのべながら、宇宙のはてしない空間を突っ切って二度も私を飛行させたあの不思議な力がもう一度もどってくるようにと私は祈った。十年の長い間、私はひたすら希望をいだいて待ちつづけながら夜ごとこうして祈ったのだ。
 とつぜん船酔いのような目まいがして、意識が薄れ、両膝がくずれるように折れたかと思うと、私の体は目がくらむような高い断崖の縁すれすれのところに頭からばったり倒れた。
 と、すぐ頭がはっきりして、あの無気味なアリゾナの洞窟の中の恐ろしい光景がなまなましく記憶によみがえってきた。そして、あの遠い昔の夜と同じように、またもや私の体は身動きひとつできなくなり、静かなハドソン川のほとりにいるにもかかわらず、例の洞窟の奥の闇にひそんで私をおびやかした恐ろしいもののうなり声と身動きの音が聞こえた。私はあのときと同じように、すさまじい超人的な力をふりしぼって自分の身を束縛している不思議な麻痺状態から脱出しようとした。と、またもや、ぴんと張った針金が急に切れるような鋭い音がして、とたんに私は自由になり、素裸で立っていた。そして、私のそばには、つい今しがたまでジョン・カーターの暖かい赤い血が勢いよく流れていた肉体がまったく生気のないぬけがら《ヽヽヽヽ》になって横たわっていた。
 そのぬけがら《ヽヽヽヽ》に名残《なご》りの一瞥《いちべつ》を送るのもそこそこに、私はふたたび火星に視線を転じ、燃えるように赤い光に両手をさしのべて待ちかまえた。
 だが、待つほどのこともなかった。火星のほうを向いたかと思うと、あっという間に私の体は眼前の広大な空間に勢いよく飛び出していたからだ。二十年前と同じように、一瞬、すさまじい寒気と暗黒が襲ってきた。それから目をあけると、もう別の世界だった。私は巨大な森の中に横たわり、こんもりと頭上をおおう茂みの小さな隙間からさしこむ燃えるように強烈な陽光を浴びていた。
 目にはいった光景があまりにも火星らしくなかったので、私は思わずはっとした。とんでもない運命の気まぐれで、どこかの見知らぬ遊星にほうりだされたのではあるまいかという不安が急にわき起こったのだ。
 まったく、そんなことはないとは言えなかった。遊星と遊星の間の広漠たる空間を通ってくるのに、私には何の道しるべもなかったではないか? どこか別の太陽系のはるか遠方の星に送りこまれるのではなく、必ず火星に到達できるという保証は何もなかったではないか?
 赤い草に似た植物が短く刈りこまれた芝生のように広がっている場所に私は横たわっていた。まわりには満開の大きな華麗な花におおわれた見なれぬ美しい木立がつづき、そのいたるところに、きらびやかな色彩の鳴かない鳥がとまっていた。翼があるから鳥と呼んだのだが、それは地球上ではまったく見られない奇妙な格好をした鳥だった。
 地面に生えている植物は大水路に住む赤色火星人たちのところで見かける芝生に似ていたが、木や鳥は私がこれまで火星で見たものとはまるで違っていた。その上、遠くの木立の間から何にもまして火星らしくない光景――輝く太陽のもとに青い水のきらめく広々とした海が見えた。
 もっとよく調べようと思って、私は立ち上がった。と、その昔、初めて火星で歩こうとしたときと同じように、滑稽な失敗をやらかした。この小さな遊星は地球より引力が小さく、また、大気が非常に希薄で気圧が低いために、地球人の私の体力にはあまりにも抵抗が少ないので、立ち上がるという何でもない動作をしただけなのに私の体は数フィートも空中に飛び上がり、この不思議な世界の柔らかな美しく輝く草地にまっさかさまに墜落してしまったのだ。
 だが、そんな目にあったおかげで、やはり自分は火星のどこかまだ知らない場所にいるにちがいないという確信がいくらか強まった。火星に十年間住んでいる間に私が探検した地域といえば広大な火星全土のほんの一部分にすぎないのだから、これは大いにありうることだった。
 私は自分の忘れっぽさに苦笑しながら、ふたたび立ち上がった。そしてまもなく、この地球と異なる条件に自分の体の動きを調和させるこつ《ヽヽ》をあらためて会得《えとく》した。
 海のほうに向かってかすかに下っている斜面をゆっくりと歩いてゆくと、公園のように美しい芝生と木立に目をとめないわけにはいかなかった。草原はイギリスのどこかの古い庭園の芝生のように短く刈りこまれて絨毯《じゅうたん》のように広がり、樹木は一様に十五フィートぐらいの高さまできちんと刈りこまれているように見えた。そのため、どちらを向いても、この森の中は天井の高い大広間を少し離れたところからながめるような感じがした。
 このように入念に草や樹木の手入れが行なわれている様子を見ると、どうやらこの二度目の火星到着の地点は幸いにも文明人の住む領域であるにちがいないと確信した。そして、住民を見つけさえすれば、タルドス・モルス家の王子という私の身分にふさわしい丁重な待遇と保護を受けられるだろうと思った。
 海のほうに向かって進んでゆくと、森の木々のみごとさに感嘆せずにはいられなかった。巨大な樹木のなかには幹の直径が百フィートにも達するものがあり、途方もない高さの木であることを物語っていた。だが、その高さは推察するしかなかった。なにしろ一面に木の葉が深く生い茂っていて七、八十フィート以上は見とおしがきかないのである。
 見えるかぎりの高さまで、幹も枝も真新しいアメリカ製のピアノのようになめらかで、つややかに光っていた。黒檀《こくたん》のように真黒な木の群れがあるかと思えば、そのすぐ隣には森の中のやわらかな光を浴びて優美な陶器のように白く透明に輝いている木立もあり、そのほかにも空色、深紅、黄、濃紫《こむらさき》などさまざまな色彩の木々があった。
 そして幹と同じように葉も派手な多彩な変化を見せていたし、たくさん群がり咲いている花は言葉では何ともたとえようがないほど美しかった。
 森のはずれに近づくと、前方の木立と広い海の間に草地が広がっているのが見えた。そして木陰から出ようとしたとき、それまで不思議な美しい風景がかもしだしていたロマンチックな気分をすっかり吹き飛ばすような光景が目にはいった。
 左手には見わたすかぎり海が広がり、はるかかなたの海岸がぼんやりした線になって見えるだけだった。そして右手には巨大な川が緋色《ひいろ》の土手の間をゆったりと流れ、目の前の静かな海にそそぎこんでいた。
 川の少し上流には巨大な切り立った崖があり、大河はその絶壁の下から流れ出しているらしかった。
 だが、森の美しい景色から急に私の注意を奪ったのは、この壮大な自然の眺めではなく、大河の岸辺の草地をのろのろ動きまわっているたくさんのものの姿だった。
 それは奇妙なグロテスクな格好をした動物の群れで、これまで火星で見かけたどんな動物とも違っていた。それでも少し遠くから見ると、格好は何よりも人間に似ていた。大きいやつは直立すると十フィートから十二フィートほどの身長があるようで、胴と下肢との釣合はちょうど人間と同じくらいである。
 しかし、腕は非常に短く、私がいる位置からは、まるで象の鼻のように見えた。蛇のようにくねくねと動き、まるで骨がないように見えるのだ。骨があるとすれば椎骨《ついこつ》にちがいない。
 巨大な木の幹の陰から様子をうかがっていると、この動物の一匹がのろのろと私のいるほうへ近寄ってきた。そいつはその奇妙な形の手で草地の表面をなでるような動作をしきりにやっていた。それがこの動物たちにとっては重要な仕事らしいのだが、いったい何をやっているのか、私にはわからなかった。
 動物は私のすぐそばまでやってきたので、じっくりと観察することができた。この動物のことをくわしく知るようになったのはもっとあとになってからのことだったが、この醜悪な自然の道化者はざっと見ただけで、さっさと逃げ出したくなる代物《しろもの》だった。ヘリウム海軍随一の快速飛行船に乗って逃げたとしても、この恐ろしい怪物から逃げるにはまだるっこい感じがしたことだろう。
 この動物の体は毛がなく、色は気味の悪い奇妙な青色だったが、一つしかない飛びだした目のまわりだけは白い輪のようになっていた。そして、その目は瞳孔《どうこう》も虹彩も眼球も真っ白なのだ。
 鼻は、無表情な顔のまん中にある赤く充血した歪《ゆが》んだ穴で、これに似ているものといえば、たったいま弾丸が命中して、まだ血が流れ出さない傷跡とでもいうほかはなかった。
 このいやらしい穴の下は顎《あご》までのっぺりとして何もなかった。口らしいものはどこにも見あたらない。
 頭部は、顔以外は長さ八インチから十インチほどのもじゃもじゃした漆黒《しっこく》の毛におおわれていた。毛の太さは大きなミミズぐらいあり、この動物が頭の筋肉を動かすと、まるで一本一本にそれぞれ別の生命が通っているかのように毛たちは恐ろしい顔のまわりをくねくねとのたうちまわった。
 胴体と脚部は人間と同じように左右対称になっていて、足部も形は人間と似ていたが、とてつもなく大きかった。踵《かかと》から爪先までの長さはたっぷり三フィートもあり、きわめてひらべったく、幅が広かった。
 相手がすぐそばまできたとき、ようやくわかったのだが、妙な格好の手で芝生の表面をこする奇妙な動作は独特の方法で食物を摂取しているのだった。この動物は剃刀《かみそり》のような鋭い爪でやわらかい草を刈り取っては、左右の手のひらに一つずつある二つの口から腕のように見える咽喉《のど》へ吸いこむのである。
 すでに述べた事柄のほかに、この動物には長さ六フィートほどの巨大な尾をそなえているという特徴があった。この尾はつけ根のあたりは完全にまるいが、次第に細く平たくなって尖端は薄い刃のようになり、地面に垂直に立てるようにして引きずっていた。
 しかし、この珍しい動物の何にもまして驚くべき特徴は、体長六インチほどの自分と瓜二つの格好をしたちっぽけなやつを左右の腋《わき》の下に一つずつぶらさげていることだった。この小さいやつはその頭の真上から生えている細い茎のようなもので大きいほうの体につながり、ぶらさがっていた。
 その小さいのが子供なのか、それとも合わせて一つの生きものの一部分にすぎないのか、私にはわからなかった。
 この気味の悪い怪物を仔細に観察しているうちに、ほかの仲間たちも私のすぐそばにやってきて草を食べ始めた。その群れを見ると、腋《わき》の下から小さいやつをぶらさげているのはたくさんいるが、全部がそうとはかぎらないことがわかった。また、この小さいやつは直径一インチほどの小さなつぼみ《ヽヽヽ》のようにしか見えないものから、体長十一、二インチの完全に一人前の格好をしたものまで、さまざまな発育段階があることがわかった。
 草を食べている群れのなかには、まだ親の体にくっついているやつとたいして変わらないちっぽけなやつもたくさんいた。そんな小さな子供から途方もなく大きなおとなまで、いろいろな大きさのやつがいる。
 そいつらは見るからに凶暴そうだったが、はたして恐れたほうがいいのかどうかわからなかった。べつに闘争用のいい武器になるようなものは身にそなわっていないように見えたからだ。連中が人間の姿を見たらどんな反応を示すかためしてやろうと思って、私は隠れ場所から彼らの前に出ていこうとした。だが、そのとき、右手の崖の方角から奇妙な甲高い悲鳴のような音が聞こえたので、私の無分別な考えは幸いにも未然に立ち消えになった。
 もしも、この考えを実行するだけの時間があったら、裸で何の武器も持っていない私は、この残酷な動物の手にかかって、またたくまに恐ろしい最期を遂げていたことだろう。だが、金切り声が聞こえたとたんに、怪物の群れはいっせいに声のした方角を向き、それと同時に彼らの頭の蛇のような髪の毛が一本残らずぴんと逆立った。その様子はまるで一本一本の髪の毛が知覚力のある生きもので、いまの叫び声の意味を聞きわけようと耳をそばだてているかのようだった。そして、実際にそのとおりだということが、あとでわかった。バルスームの植物人間の頭にはえているこの奇妙なものはこの恐ろしい生きものの無数の耳なのだ。そして彼らは原始の生命の木から生まれた奇妙な種族の最後の生き残りなのである。
 たちまち、全員の目が仲間の一人に集中した。それは大きな体をしたやつで、明らかに彼らの首領格らしかった。そいつが片方の手のひらの口から猫がのどを鳴らすような妙な音をたてたかと思うと、崖のほうに向かってすばやく走りだし、全員がそのあとにつづいた。
 彼らの移動の仕方とそのスピードはいずれも驚くべきものだった。カンガルーに非常によく似た動作で、一度に二、三十フィートもぴょんぴょん跳躍してゆくのだ。
 あとを追ってやろうと思ったときには、彼らの姿は早くも消えかけていた。そこで私は警戒心をかなぐりすてて、連中よりもさらに大きな跳躍をしながら草原を突っ切ってあとを追った。地球のスポーツマンは引力や気圧の少ない火星ではめざましい活躍をすることができる。
 連中は川が流れ出ていると思われる断崖のふもとにまっすぐ向かっていた。そのあたりに近づくと、草原には巨大な丸石があちこちにころがっていた。明らかに、頭上にそそり立つ険しい岩山から長い歳月の間に少しずつ崩れ落ちてきたものにちがいなかった。この巨大な石に視界をさえぎられていたために、私はすぐそばまで近づいてから、いきなり恐ろしい光景を目撃し、連中がなぜ大騒ぎをして駆けつけたかを悟った。一つの大石の上によじのぼったとたんに、植物人間の群れが五、六人の緑色火星人の男女をとり囲んでいる光景にぶつかったのである。
 もはや、私が火星にいるということに疑問の余地はなかった。目の前にいるのは、この滅びゆく遊星の涸《か》れた海の底や古代の廃都に住む野蛮な流浪《るろう》の民ではないか。
 そこにいたのは、あの背丈の高い堂々たる体躯の巨人たちだった。大きな下顎から額のまん中近くまで突き出しているあの白く輝く巨大な牙。頭を動かさずに前後左右を自由に見ることができる、顔の両側から飛び出している目。額の上から突き出しているアンテナのような耳。そして肩と腰のなかほどから伸びている二本の余分の腕。
 たとえ、つやつやした緑色の皮膚や彼らの種族のしるしである金属飾りがなかったとしても、その姿かたちを見ればたちどころに緑色人だということはわかっただろう。全宇宙をさがしても、こんな格好をした人間がほかにいるわけはない。
 その一行は男が二人と女が四人だったが、身につけている飾りから異なる部族の者たちが集まっていることがわかった。これはどうにも合点がいかないことだった。それというのも、バルスームの緑色人たちは年がら年じゅう各部族間の死闘を繰り返し、たがいに争っているはずだからだ。たった一度だけ歴史に残る例外的事実として、サーク族の偉大なタルス・タルカスが数部族の緑色人戦士十五万を集めて、サン・コシスの手にとらえられたヘリウムの王女デジャー・ソリスを救出しようと悲運の都ゾダンガに向かって進撃したことがあったが、そのときを除けば、異なる部族の緑色人が殺し合い以外でいっしょにいるのを見たことはなかった。
 ところが、いま、緑色人たちはたがいに背中合わせに立ちながら驚きの目を見張って、あからさまな敵意を示す共通の敵に対していた。
 男も女も長剣と短剣を身につけていたが、銃火器は何も持っていなかった。あのすばらしい性能の銃があったら、バルスームの気味の悪い植物人間もあっという間に片付けられてしまったことだろう。
 まもなく、植物人間の首領が緑色人の小グループに襲いかかった。その攻撃の仕方はきわめて風変わりで、それだけにいっそう効果的だった。緑色人戦士の兵法には、このような奇妙な攻撃に対する防御法はなかった。緑色人たちはこんな怪物にでくわすのは初めてだし、こんな攻撃を受けるのも初めてなのだということがすぐにわかった。
 首領格の植物人間は緑色人たちから十二フィートたらずのところまで突進すると、相手の頭の上を飛びこえるようにぱっと飛び上がった。そして力強い尾を横向きに高く振り上げ、相手の頭上をかすめる瞬間にすさまじい勢いで打ちおろした。一人の緑色人戦士の頭は卵の殻のように砕けた。

……「一 植物人間」より

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