「火星の大元帥カーター」

E・R・バローズ/小笠原豊樹訳

ドットブック版 139KB/テキストファイル 145KB

420円

カーターの身を案じて地獄を訪れたデジャー・ソリスは女神イサスにとらえられ、1年間のタイム・ロックのかかる太陽殿という牢獄に幽閉される〔第2巻〕。本巻はデジャー・ソリス救出に至るまでの主人公カーターの大活躍を描くが、その舞台は南極に近い女神イサスの太陽殿から赤道直下の密林の国ケオールへ、さらには北極をとりまく黄色人種の国へと雄大なスケールで展開する。独特の怪異な生きものも相変わらず健在で、エンターテイメントは最高潮に。

エドガー・ライス・バローズ(米、1875〜1950)シカゴ生まれ。75歳で亡くなるまでに、20冊あまりのターザン物、10冊の「火星シリーズ」をはじめ、金星や月や地底やアメリカ西部を舞台にした数多くの小説を書き、大人気作家となった。その作品の多くは今日でも「一服のよく効く清涼剤」として延々と読みつがれている。

立ち読みフロア

 瀕死《ひんし》の遊星の空を、低く、流星のように勢いよく突き進む火星の二つの月の下、コルスの行くえ知れずの海のほとりのドール谷の緋色《ひいろ》の草原につづく森の中で、私はおぼろな人影を追って忍び足で歩いていた。その人影は次から次へと暗い場所ばかりたどって、こそこそ進んで行く。明らかに、何かよからぬ目的を胸に秘めている様子だった。
 火星の長い六か月の間、私は憎むべき太陽殿の近辺を絶えずうろついていた。火星の地下深くゆるやかに回転する円筒の中に、私の王女は閉じこめられている――だがその生死は不明だった。はたしてファイドールの細身の短剣はあのいとしい女の心臓をつらぬいたのだろうか。時がたたないかぎり、その真相はわからないのである。
 永遠に美しいデジャー・ソリスの姿を最後に見た地下道の突き当たりの部分に獄房の扉がふたたびもどってくるまでには、六百八十七日の火星時間が経過しなければならない。
 その半分はすでに過ぎた。いや、明日になれば過ぎる。けれども、あのとき吹き寄せた煙が私の目をくらまし、獄房の内部をのぞかせていた狭い隙間が閉じて、私とヘリウムの王女の間を長い火星の一年のあいだ遮《さえぎ》ってしまう直前に見た最後の光景だけは、その前後の出来事はことごとく忘れているというのに、いまもなまなましく記憶に残っている。
 マタイ・シャンの娘ファイドールが短剣をふりかざして私の愛する女性に飛びかかったときの、嫉妬《しっと》にかられ、激怒と憎悪にゆがんだ美しい顔が、いまもなお昨日のことのようにまざまざと目に浮かぶ。
 そして、その恐ろしい行為を止めようと、赤色人の娘、プタースのサビアが飛びだすのが見えたのだった。
 そのとたん、燃え上がる神殿の煙が押し寄せてきてこの悲劇を包み隠してしまったが、短剣がふりおろされたときに一声の鋭い悲鳴が聞こえた。それからあたりは静まり返り、煙がすっかり消えたときには、三人の美女が閉じこめられている回転する部屋の光景は何も見えず、物音ひとつ聞こえなくなっていた。
 あの恐ろしい瞬間以来、私が関心をもったことはたくさんあるが、あの事件の記憶は片時も薄れたことはない。われわれの艦隊と陸上部隊がファースト・ボーンに圧倒的な勝利を収めて以来、黒色人の政府再建のための数々の仕事が私の肩にかかってくることになったが、その間にも暇さえあればいつも、私の息子、ヘリウムのカーソリスの母親が閉じこめられている無情な円筒の近くへ行ったのだった。
 長いあいだ、まやかしの神イサスを崇拝していた黒色火星人たちは、私がイサスの正体はただの邪悪な老婆にすぎないことをあばくと、大混乱に陥った。彼らは憤激のあまり、イサスを八つ裂きにしてしまった。
 ファースト・ボーンはうぬぼれの絶頂から屈辱のどん底へ転落した。彼らの女神は消えうせ、それとともにまやかしの宗教の全組織も消滅した。彼らの自慢の海軍は、それ以上に優秀なヘリウムの艦船と赤色人兵士の前に敗北した。
 外界の黄土色の海底からやってきた獰猛《どうもう》な緑色人戦士たちは野性の火星馬《ソート》に乗ってイサス神殿の神聖な庭園に侵入した。そして、連合軍が征服された国の運命を決定するまでの間は、勇猛ならぶ者のないサークの皇帝《ジェダック》タルス・タルカスがイサスの王座について、ファースト・ボーンを統治した。
 黒色人の由緒《ゆいしょ》ある王位にのぼることを私に求める声がほとんど満場一致であがり、当のファースト・ボーンたちさえ賛意を示したが、私にはそんなことを引き受けるつもりは少しもなかった。私の王女と息子にさんざんの侮辱を加えた民族が相手では、とうていいっしょにやってゆく気分にはなれなかった。
 私の提案によって、ゾダールがファースト・ボーンの皇帝《ジェダック》になった。ゾダールはイサスに地位を下げられるまではダトール、つまり貴族だったから、この高い地位につくのにふさわしい人物という点では問題はなかった。
 こうしてドール谷の平和が保証され、緑色人戦士たちは荒涼とした涸《か》れた海の底に散らばって行き、われわれヘリウムの人間は故国へ引き上げた。ヘリウムへ帰ると、ここでもまた、私に王位をという話が持ちあがった。デジャー・ソリスの祖父にあたるヘリウムの皇帝《ジェダック》タルドス・モルスと、その息子で王女の父にあたる王《ジェド》モルス・カジャックは依然として行くえが知れず、何の消息もなかったのである。
 彼らがカーソリスを捜し求めて北半球の探検に出発した時《とき》からすでに一年以上たっていた。そして気落ちした国民はついに、氷におおわれた極地から伝わってきたあやふやな噂《うわさ》、彼らが死んだという噂を真実と思いこむようになってしまったらしい。
 またもや私は王位につくことを拒んだ。あの偉大なタルドス・モルスや、彼に劣らぬ立派な人物である王子が死んだとは、私には信じられなかった。
「彼らがもどるまで、その血筋をひく者を統治者としようではないか」一年前ザット・アラースから死の宣告を受けたときに私が立っていたのと同じ場所、つまり応報神殿の正義の御座のそばの真理の台座から、私は集まったヘリウムの貴族たちに呼びかけた。
 そう言って前に進み出ると、まわりに円形をなして並ぶ貴族たちの最前列に立っていたカーソリスの肩に、私は手を置いた。
 貴族も民衆もいっせいに長い歓呼の声をあげて賛同を示した。一万もの剣がさっと抜きはなたれて高々と掲げられた。古いヘリウムの栄光をになう戦士たちがカーソリスをヘリウムの皇帝《ジェダック》として迎えたのである。
 カーソリスの在位期間は終身か、あるいは曾祖父《そうそふ》か祖父がもどってくるときまでになるはずだった。こうしてヘリウムのための重要な仕事をつつがなく処理して、その翌日、私はドール谷に向かって出発した。愛する女性が閉じこめられている獄房の扉が開く運命の日まで太陽殿の近くにいたいと思ったからだ。
 ホール・バスタス、カントス・カン、そのほかの私の補佐役の貴族たちは、ヘリウムのカーソリスのそばに残してきた。カーソリスが自分の肩に負わされた骨の折れる任務を遂行するには、彼らの知恵や勇気や忠節が大いに役に立つだろう。そんなわけで私といっしょにきたのは火星の猟犬ウーラだけだった。
 今夜、この忠実な野獣は私のすぐあとについて、そっと歩いている。体の大きさはシェットランド種の小馬ぐらいあり、醜悪きわまる顔と恐ろしい牙をもち、短くたくましい十本足で背後からこそこそ歩いてくるウーラはまったく見るもおぞましい怪物だったが、私にとっては愛情と忠実さの化身《けしん》のようなやつである。
 前方の人影はファースト・ボーンの貴族《ダトール》サリッドだった。かつてイサス神殿の中庭で、貴族の男女たちから見事《みごと》な武勇の士とほめそやされた直後に、人々の目の前で私に素手《すで》で打ち倒され、自分の装具で縛《しば》り上げられたとき以来、私に対して果てしない恨《うら》みを抱いている男だ。
 仲間の多数の黒色人と同様、彼もうわべでは新秩序をいさぎよく受け入れて、新しい統治者ゾダールに忠誠を誓っていたが、内心では私を憎んでいることはわかっていたし、ゾダールを羨《うらや》み憎んでいることもまちがいなかった。そこで私は彼の行動にたえず警戒の目を光らせつづけ、最近では彼が何かしきりに陰謀を企てていることを確信するようになっていた。
 サリッドが日没後に、城壁に囲まれたファースト・ボーンの都から脱けだし、恐ろしいドール谷へはいってゆくのを私は数回目撃したが、うしろ暗い目的でもないかぎり、だれがそんな行動に出るだろう。
 今夜のサリッドは森の縁に沿い素早く進んで、はるか遠くに都が見えなくなり、物音もまったく聞こえないところまでくると、方向を変えて緋色の草原を突っ切り、コルスの行くえ知れずの海の岸辺に向かった。
 空低く谷を横切ってゆく近いほうの月の光を浴びてサリッドの宝石をちりばめた装具が色とりどりに輝き、なめらかな黒檀《こくたん》のような肌《はだ》がつややかに浮かびあがった。彼はいかにも悪事を働こうとしている人間らしく、森のほうを二度ふり返った。しかし、尾行されるはずはないと思っているようだった。
 私は月明かりの下では彼の後を追おうとしなかった。その計画の邪魔をしないことが私の計画には何よりも大切だからだ――むこうが何の疑念も起こさずに目的地まで行くようにしなければならない。そうすればその目的地がどこなのか、また、この深夜の彷徨者《ほうこうしゃ》が何をしようというのか、つきとめることができるだろう。
 そこで私は、サリッドが四分の一マイルほどさきの海辺の切り立った堤防のかなたに姿を消すまで身を隠していた。それからウーラを従えて急いで草原を横切り、黒色人貴族の後を追った。
 滅びゆく遊星の南極の陥没地帯の奥深く眠っている神秘の死の谷は墓場のような静寂に包まれている。はるかかなたには黄金の断崖の巨大な壁面が星空高くそびえ立ち、その壁面の貴金属ときらびやかな宝石は火星の華麗《かれい》な二つの月のまばゆい光を浴びて輝いている。
 私の背後には、残忍な植物人間に若葉を食いとられて、公園の芝生《しばふ》のように調和のとれた形に刈りこまれた森がある。
 そして眼前にはコルスの行くえ知れずの海が広がり、さらにむこうには黄金の断崖の下から流れ出てコルスの海へそそぐ神秘のイス川のきらめきが見えた。遠い昔から、欺《あざむ》かれて、このにせ天国への旅にのぼった外界の不運な火星人たちが運ばれてきた場所である。
 昼間のドール谷を恐ろしい地獄と化してしまう吸血口のある手を持った植物人間や、巨大な白ザルは夜間はそれぞれのねぐらに隠れていた。
 もはやイス川を見おろす黄金の断崖のバルコニーの上には、気味の悪い叫び声をあげて怪物どもを呼び集め、古いイスの流れの冷たい広々とした水面を漂ってくる犠牲者たちを襲わせる、見張りのホーリー・サーンはいなかった。
 サーンが降服を拒み、長いあいだ人々を苦しめた邪教を火星から一掃するための新秩序を受け入れようとしなかったので、ヘリウムとファースト・ボーンの二つの海軍は、サーンの砦《とりで》や神殿をあとかたもなく破壊してしまった。
 二、三の孤立した国ではサーンたちはまだ昔ながらの権力を維持していたが、彼らのヘッカドール、サーンの教皇マタイ・シャンは神殿から追われていた。われわれは彼をつかまえようと大いに努力したが、マタイ・シャンは少数の忠実な部下とともに逃亡し、どこかわれわれの知らないところに隠れている。
 コルスの行くえ知れずの海を見おろす低い崖の縁まで用心深く進むと、サリッドが小さなボートに乗って、淡い光がゆらめく水面へ出てゆくのが見えた。そのボートは、ホーリー・サーンが司祭や下級サーンの組織を使って常にイス川の岸沿いに配置し、犠牲者たちがたやすく天国への長い旅に出られるようにしていた、太古からある奇妙な作りの舟だった。
 眼下の浜辺には同じようなボートが二十隻ばかり引き上げられていた。どのボートにも長い棒が一本ずつついていて、その一端は槍《やり》、もう一つの端は櫂《かい》になっている。サリッドは海岸づたいに進んでいた。そのボートが近くの岬をまわって見えなくなると、私は一隻のボートを海に押し出し、ウーラを呼んでそれに乗せ、岸から離れた。
 私はサリッドを追って海岸づたいにイス川の河口に向かって進んだ。遠いほうの月は地平線間近にかかり、崖の下の水面に黒々とした影を投げかけていた。近いほうの月のサリアは沈んでしまい、ふたたびのぼってくるまでには四時間近くの間がある。だから少なくともそれまでは身を隠す暗闇には不自由しないわけである。
 黒色人戦士はどんどん進んでゆく。いまや彼のボートはイス川の河口のまん前に出た。サリッドは一瞬もためらわずに無気味な川のほうに向きを変え、懸命に櫂《かい》を動かして激しい流れをさかのぼって行った。
 ウーラと私はそのあとを追い、いままでよりずっと接近した。サリッドは流れをさかのぼる仕事にすっかり熱中していて自分の背後の出来事に気をくばる余裕はない様子だった。流れの比較的ゆるやかな岸近くをたどって彼は前進した。
 やがてサリッドは黄金の断崖の正面にある、川の流出口になっている暗い洞穴《ほらあな》の前にたどりついた。そして穴の奥の地獄の暗黒の中へせっせとボートを乗り入れて行った。
 この鼻をつままれてもわからないようなまっ暗闇の中で彼を追跡してもとうてい成功の見込みはなさそうだった。そこで追跡をあきらめて河口までもどり、そこで相手の帰りを待ちうけようとしかけたとき、とつぜん前方の洞穴の奥の曲がり角からかすかな光が見えた。
 目当ての男の姿がふたたびはっきりと見えた。ほぼアーチ形になっている洞窟《どうくつ》の天井のあちこちには燐光を放つ大きな岩石が埋まっていたのである。その燐光がしだいに強くなっているので、私はなんの苦もなくサリッドの後を追うことができた。
 イス川を舟で行くのは私にとって初めての経験だった。このとき目撃した光景は永遠に忘れることはないだろう。
 それはまったく恐ろしい光景だった。それでも、偉大な緑色人戦士タルス・タルカスと黒色人の貴族《ダトール》ゾダール、それに私の三人が外界の人々に真相を明らかにし、幾百万もの人間が平和と幸福と愛の美しい谷にたどりつけるものと信じて、ぞくぞくと自発的に死出の旅路に発つのを食い止める前には、もっと比較にならないほど恐ろしい光景が繰り広げられていたにちがいない。
 いまもなお、広い川面に点在する小さな島々は、恐怖のためか、あるいはとつぜん真相をさとるかして目的地の直前で旅をやめた者たちの骸骨や半ばむさぼり食われた死体でいっぱいだった。
 恐怖の墓場と化した、すさまじい悪臭を放つこれらの島々では、やつれはてた狂人たちが悲鳴をあげたり、わけのわからぬことを口走ったりしては、身の毛もよだつ食い残しの死骸のなかでじたばたしていた。いっぽう、死骸がきれいに食いつくされて骨しか残っていない島では、生存者同士が文字どおり弱肉強食の死闘の場面を展開したり、かぎ爪のような手をのばして川を流れてくるふくれ上がった死体をつかんだりしていた。


……「一 イス川にて」より

購入手続きへ    原書テキスト版


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***