「火星のチェス人間」

E・R・バローズ/小西宏訳

ドットブック版 263KB/テキストファイル 222KB

600円

大元帥カーターの娘ターラは、頭部だけのクモみたいな人間が胴体だけの生物を乗り物に利用している未知の国へ不時着した。必死でそこを逃げ出したターラは、抗戦的な皇帝の支配する国マナトールの捕虜になってしまう。そこでは戦士を駒がわりに、生死をかけたチェスがおこなわれていた! ターラと彼女に愛を捧げるガソールの若き王ガハンは、クモ人間とチェス人間とに立ち向かう。火星シリーズ第5弾の屈指の巨編。

エドガー・ライス・バローズ(米、1875〜1950)シカゴ生まれ。75歳で亡くなるまでに、20冊あまりのターザン物、10冊の「火星シリーズ」をはじめ、金星や月や地底やアメリカ西部を舞台にした数多くの小説を書き、大人気作家となった。その作品の多くは今日でも「一服のよく効く清涼剤」として延々と読みつがれている。

立ち読みフロア

 ヘリウムのターラは、それまでよりかかっていた絹と柔らかな毛皮の山から起きあがると、しなやかなからだをものうげにのばして、部屋の中央へ歩いていった。そこには、大きなテーブルの上方に、低い天井から青銅の円板がたれさがっている。彼女の身のこなしは、健康と申しぶんのない肢体《したい》の優美さを示している――この二つのものが非のうちどころのないほどつりあって、おのずから調和をつくりだしているのだ。薄絹《うすぎぬ》のスカーフが、いっぽうの肩からからだにまきつけられ、黒い髪が、頭の上に高くまきあげられている。彼女は、木の杖で青銅の円板を軽くたたいた。すると、その合図に応じて、奴隷の娘があらわれた。娘は部屋にはいってくると、微笑しながら挨拶した。女主人も、おなじように微笑をかえす。
「お父さまのお客さま方は、もうおいでになっているの?」王女は、奴隷娘にきいた。
「はい、ヘリウムのターラさま。おいででございます」奴隷娘は答えた。「大提督《だいていとく》、カントス・カンさま。プタース国のソラン王子、それに、カントス・カンさまの御子息ジョール・カントスさま」奴隷娘は、ジョール・カントスの名前をあげながら、からかうような目つきで、王女の顔をちらりと見やった。「それから――ええ、そのほかの方々も、たくさんおいででございます」
「では、湯あみしましょう、ユシア」女主人はいった。「でも、どうしたというの、ユシア」彼女はつけ加えた。「ジョール・カントスさまのお名前をいうとき、なぜそんな目つきをして笑うのです?」
 奴隷娘は、楽しそうに笑って答えた。
「それは、あの方が王女さまに思いをよせていらっしゃることが、だれにもはっきりしているからでございますわ」
「わたくしには、はっきりしていません」ヘリウムのターラはいった。「あの方は、カーソリスお兄さまのお友だちだから、それでここによくいらっしゃるのよ。わたくしに会いにいらっしゃるのではありません。あの方がお父さまのこの宮殿にたびたびいらっしゃるのは、お兄さまとの友情のせいです」
「でも、カーソリスさまは、オカールの皇帝《ジェダック》タルー陛下と、北国で狩りをなさっておいでですわ」ユシアは、ターラをやりこめた。
「湯あみです、ユシア!」ターラはさけんだ。「口をつつしまないと、いまにひどいめに会うから」
「お風呂の仕度はできておりますわ、ヘリウムのターラさま」奴隷娘は答えたが、その目はまだ陽気にかがやいていた。彼女は、女主人が心の中ではそう怒っているわけではなく、やはり自分をかわいがっていてくれるということを、知っているのだ。そして、大元帥の娘の先に立って、となりの部屋へ通じるドアをひらいた。そこは、浴室で――大理石の浴槽には、香りのついた湯が、きらきらたたえられていた。黄金の鎖が黄金の支柱にささえられて浴槽をとりまき、大理石の階段の両側に沿って湯の中まで通じている。ガラスの丸屋根《ドーム》から日の光がさしこんで、部屋いっぱいにあふれ、つややかな白い大理石の壁に反射している。壁には、水浴者や魚の模様が、おきまりのデザインで、幅の広い帯状に、黄金で彫りこまれていた。
 ヘリウムのターラは、身にまとっていたスカーフをぬいで、奴隷娘に手渡した。それから階段をゆっくりおりて、湯のへりまでいき、均整のとれた足で、その温度をためした。その足は、きつい靴やハイヒールで形をゆがめられてはいない――このように愛らしい足は、神が創《つく》ろうと望んだものではあるが、実際にはめったに存在するものではない。ターラは、湯がちょうどいい加減だとわかったので、すっかりからだをひたし、浴槽の中をゆったり泳ぎまわった。あざらしのように巧みに泳ぎながら、湯の表面に浮いたり下にもぐったりした。なめらかな筋肉が、すきとおるような肌の下で柔らかに動く――健康と幸福と優美との、無言の調べだ。やがて湯からあがり、奴隷娘の手にからだをまかせた。奴隷娘は、黄金のつぼにはいった、香りのよいどろりとした物質を手にすくって、女主人のからだをこすりはじめた。そのうちに、つややかな肌は、石鹸泡《あわ》のような泡でおおわれた。それから、ターラはまた湯にざっとつかってあがり、柔らかなタオルで水気をとらせた。入浴はそれでおわりだった。ターラの入浴はこのように単純で優美だったが、彼女の生活全体も、それと同じようだった――不必要に多くの奴隷をしたがわせて大騒ぎをしたり、貴重な時間をむだについやしたりしないのである。やがて三十分もするうちに、彼女の髪はかわかされ、王女の身分にふさわしい、奇妙《きみょう》な髪型にゆいあげられた。黄金と宝石をちりばめた革の飾り帯がとりつけられると、大元帥の宮殿でおこなわれる昼の宴会にまねかれた客たちを迎える仕度がととのった。
 彼女が自室を出て客たちが集っている庭園のほうへむかって行くと、ふたりの戦士が、ヘリウム王家の紋章をつけたよろいに身をかためて、二、三歩うしろから随行《ずいこう》した。このきびしい事実は、バルスームでは常に暗殺者の剣が警戒されねばならないということを示している。バルスームでは、人間の寿命《じゅみょう》がきわめて長いので、暗殺がそれをほどほどにちぢめる役を果たしている。火星人の寿命は、千歳以上にもおよぶのである。

……「一 ターラの不興」より

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