「メリー・ディア号の遭難」

ハモンド・イネス/高橋泰邦訳

ドットブック 283KB/テキストファイル 237KB

600円

荒波にもまれ、無気味に静まり返るメリー・ディア号。サルベージ業者サンズはこの瀕死の貨物船に遭遇し、救助のため船内に乗り込んだ。残留していたのは船長代理の男パッチ唯一人。彼の口からサンズは航海中の事件の数々を知る……船長の死、船主の失踪、火災、そしてその際の全乗組員による船の放棄。が、パッチ自身も謎に充ちていた。英仏海峡の魔の岩礁にあえて船を座礁させ、サンズと共に帰還した彼は、海難審判の場で船が沈没したと偽証、しかも直後に逃走してしまったのだ! 果たしてその真意は? 迫力に富むイネス会心の海洋冒険ロマン。

ハモンド・イネス(1913〜98)  アリステア・マクリーンやデズモンド・バグリーらに大きな影響を与えたイギリスの冒険小説の先駆者、第一人者。ジョンブル魂を発揮するイギリス人の勇敢な姿を一貫して描き続けた。綿密な現地踏査をふまえた舞台設定は、どの作品においても圧倒的な臨場感をあたえるのに成功し、広範な読者を魅了した。他の代表作に「孤独なスキーヤー」 「怒りの山」「蒼い氷壁」「銀塊の海」「キャンベル渓谷の激闘」など。

立ち読みフロア
 私は疲れていたし、非常に寒かった。いくらか怖くもあった。赤と緑の航海灯が不気味な光をなげかけて帆を一面に染めていた。そのむこうには何もない。ただ海がかすかな波音をたてている、まったくの暗黒の虚空があるだけだ。私は大麦糖〔大麦を煮た汁で砂糖を煮詰めて作った一種の飴(あめ)〕をしゃぶりながら、窮屈な足をくつろがせた。海の魔女(シー・ウイッチ)号が身をもみながら進むにつれて、頭上で帆がぼーっと弓なりにそり返って揺れ、バタッ、バタッと前後に張りわたった。風は船がやっと波を切りわけて進むほどしかなかったが、それでいて三月の突風にしわ立てられたうねりが相変わらずの勢いで押し寄せていたので、いまは強風の一時の止み間にすぎないことを、私は鈍った頭のなかで、絶えず意識していた。
 六時の天気予報は不吉だった。疾強風級の風がロッコール、シャノン、ソル、フィニステレの海域一帯に吹き荒れていると報じていた。コンパス箱の明かり越しに、私の前からずっとむこうへ、影絵のような船体の輪郭が伸び、冷たくじっとりとした夜の闇のなかへ船首を突っ込んでいく。こうした瞬間をなんど夢に見たことか。しかしいまは三月だし、イギリス海峡に乗り出してすでに十五時間も経っていたので、自分の船を持った興奮も寒さに食われて醒(さ)めはてていた。
 崩れかかる波がちらちら照り返しながら闇の奥からあらわれては船尾突出部(カウンター)にぶち当たり、私の顔にしぶきを吹きかけ、白い泡立ちの音を残して斜めにすり抜け、後方の暗黒のかなたへ消えていく。――畜生め! 寒い! 寒くてじっとりと湿っぽくて――どこにも星一つありゃあしない。
 海図室のドアがばたんと開き、明かりのともった食堂(サロン)と、それを背景にして、両手に一つずつ湯気の立つジョッキを持ったマイク・ダンカンの、油布服(オイルスキン)でかさばったシルエットが見えた。またばたんとドアが閉じて、下の明かるい世界〔居住区はすべて甲板下にある〕を締め出し、闇と海がふたたび迫ってきた。
「スープは?」
 出し抜けに、マイクの陽気なそばかすの顔が闇からぬーっとあらわれ、コンパスの明かりを受けて、胴なしの首のように浮き出した。ジョッキを私に手渡しながら、バラクラバ戦闘帽〔野戦用の羊毛製の大型帽〕のひだの奥からにっこりした。
「調理室からここに上がると生き返るよ」と言ったが、つぎの瞬間、彼の顔から微笑がぬぐいとられた。
「おい、ありゃあ何だ」
 私の左の肩越しに、背後の左舷船尾の方向へ眼をこらしている。「まさか月じゃあるまい、え?」
 私はさっと振り返った。視界ぎりぎりのところに、冷たい緑色の半透明のものが見える。ぼーっと人魂(ひとだま)のような明かりだ。昔の船乗りたちが航海中に見たという、いろいろ気味の悪い回想譚が一時にどっと脳裏をかすめて、私は急に怖じ気(け)づき、息を殺した。
 光は刻々に明かるくなり、青白く、この世のものとも思われず――肥大した《つち螢》のように不気味な輝きだった。やがてそれがとつぜん凝固して針の突き穴のような緑色の一点になったので、私はマイクへ怒鳴った。
「発光信号――早く!」
 それは大きな汽船の右側の舷灯で、まっすぐこちらを目ざしているものだった。こんどはぼんやりと黄色く、船内の灯火も見えはじめ、静かに、内にこもった太鼓の連打音のように、エンジンの音が低く脈打つリズムを伴って伝わってきた。
 舷灯の光芒は闇を刺し通し、われわれを包み込む厚い靄(もや)に強く照り返してまぶしかった。いつの間にか、海の靄が忍び寄っていたのだ。その明かりをうけて、相手の船首の分け波がほの白く見えた。と思うと、こんどは船首そのものの輪郭があらわれた。つぎの瞬間、船の前半分が見えた。それは靄の奥からぬーっと現われた幽霊船のようで、私がさっと舵輪(だりん)を回すと同時に、ぶっ切ったような船首がすでにわれわれの頭上にそびえていた。
 三角帆(ジブ)が反対の開き〔風向きに対する帆の位置〕で風をはらんで船首を回し、海の魔女(シー・ウイッチ)号が方向転換するのを待つ間が何十年もの長さに思われた。その間もたえず、相手の船首の分け波が間近に迫ってくる音が聞こえていた。
「突っかけてくるぞ! くそ! 突っ込んでくるぞ!」
 闇の中でマイクの上げた甲(かん)高い仰天した叫び声が、いまも耳に残っている。彼は発光信号灯の光芒を相手の船橋(ブリッジ)へまっすぐ向けて点滅させていた。上部構造(ハウス)全体が照らし出され、窓ガラスの一つ一つから閃光が反射した。いぜん汽船のそびえ立つ巨大な船影は接近しつづけ、こちらに気づいた気配もなく、針路を変える様子もなく、優に八ノットの速力でごうごうとのしかかってきた。
 主帆(メイン)と補助帆(ミズン)の桁(ブーム)がすさまじい音をたてて振れ回った。三角帆(ジブ)はいま裏帆〔風位または船の向きが急に変わって帆がマストに吹きつけられること〕になっていた。私は船首が風下に向くのを見守りながら、しばらくそのままにしておいた。海の魔女号の、長い斜檣(やりだし)〔船首から突き出たマストのような用材〕の先端から主檣(メイン・マスト)の頭頂までのあらゆる細部が、いまや頭上高くに迫った汽船の、右舷灯の緑の光に照らし出されていた。私は右舷の帆をたぐり込みながら左舷の三角帆を放しやり、帆が風をはらむのを見たとたんに、マイクが金切り声をあげた。
「危ない! 掴まれ!」
 ゴーッと大きな音があって、白波の壁が襲いかかってきた。それは船尾凹甲板(コックピット)の上にかぶさってきてドッと押し流れ、私を座席から浮き上がらせ、舵輪を掴む手を引きはなそうとした。帆という帆が狂ったように弓なりに張りわたった。その張り方があまりにも大きかったので、主帆の桁(ブーム)と帆の一部が一瞬波の峯に隠れ、その間に何十トンもの海水がデッキの横合いから打ち込んだ。そのとたんに、こちらの舷側をかすめて、汽船が絶壁のようにすり抜けはじめた。
 打ち込んだ波が白く泡立って流れ落ちるにつれて、海の魔女(シー・ウイッチ)号はゆっくりと姿勢を立て直した。私はいぜん舵輪にしがみついており、マイクはあらん限りの声で猥雑な言葉をわめき散らしながら、後支索(バックステー)〔檣頭から斜め下後方の両舷側に張った綱〕の滑車の通索にかじりついていた。彼の言葉は汽船のエンジンのずっしりした鼓動の音のため、微かな弱々しい声になって聞こえてきた。と、やがて別の音が夜の奥から迫ってきた――一部を水面に露出したプロペラの羽が着実に水を叩いている音だ。
 私はマイクへ怒鳴ったが、彼はすでに危険を悟って、また発光信号灯にスイッチを入れていた。その強い明かりに照らされて、錆(さび)であばた面になった船側(サイド)の外板(がいはん)と、海面よりずっと高く、海草のこびりついた満載吃水標(きっすいひょう)〔船側の中央部に白ペンキで線や円をかいたマーク〕が見えた。やがて外板の線が上へ彎曲して船尾になり、その下で、プロペラの羽が波をかきまわし、海面を音高く叩いて、泡立つ渦をつくっているのが見られた。
 海の魔女号は帆をたるませて震えた。と、彼女が一つの波のむこう側の斜面をすべりおり、その水音に吸い込まれる流れに突っ込んだと思うと、プロペラの羽が本船の左舷すれすれに回り、白波を船室の屋根の上に浴びせかけ、主帆にまではね上げた。
 一瞬そんなふうになって、暗車(プロペラ)はやがて本船の斜檣のむこうの闇へ遠ざかり、われわれは汽船の航跡のざわめく波間に縦揺れをくりかえしながら取り残された。発光信号灯の光芒が船名を映し出した。「メリー・ディア号――サウサンプトン」――その船尾が影絵のようになり、やがてふっと消えるまで、われわれは錆で縞(しま)になった文字の綴りを呆然として見つめていた。いまはエンジンの鼓動だけが残り、それもやがて、静かに脈打ちながら次第に夜のかなたへ消えていった。何かが燃えるような微かな臭いが、湿った夜気のなかにしばらく漂っていた。
「あほたれども!」マイクがとつぜん声を取り戻してわめいた。「あほたれども!」彼はその言葉をくりかえしつづけた。
 海図室のドアが音もなく開き、人影がぬうっとあらわれた。ハルだった。「二人とも大丈夫か?」その声は――少し穏やかすぎ、少し陽気すぎたが――かすかに震えていた。
「いまの船、見なかったのか?」と、マイクが大声で言った。
「ああ、見たよ」
「奴等もこっちを見たにちがいない。ブリッジへもろに発光信号灯を照らしつけてやったからな。もし奴等がちゃんと見張りをしていたら――」
「見張りはいなかったようだよ。第一、ブリッジに誰もいなかったようだ――」その言い方があまり穏やかだったので、一瞬、私はその含みに気づかなかった。
「どういうことだ――ブリッジに誰もいなかったとは」私は訊いた。
 ハルがそこでデッキに出てきた。「船首の波がぶつかってくる直前だった。おれは何か変だと思って海図室まで来てみた。思わず窓越しに、発光信号灯の明かりが照らしてる方をのぞいた。明かりはまっすぐブリッジを照らしていた。たしか誰もいなかった。誰も見えなかった」
「ばかな!」と、私は言った。「本気でそんなこと言ってるのか」
「ああ、もちろん本気だ」彼の口調は反駁を許さない断固たるもので、ちょっと軍隊口調だった。
「妙じゃないか、え?」
 彼はそんなふうに物事を断定するタイプの男ではなかった。H・A・ローデン――友人たちはみなハルと呼んでいた――もと砲兵の退役大佐で、夏の間はほとんど外洋レースの明け暮れだった。海の経験は豊富だった。
「と言うと、誰も船の操縦をしている者がいなかったってことか?」マイクは狐につままれたような口ぶりだった。
「どうかな」と、ハルは答えた。「まさかとは思うがな。一瞬ブリッジの中がはっきり見えたが、おれの見たかぎりでは、誰もいなかった。そうとしか言えない」
 われわれはしばらく何も言わなかった。みなあまりにもあきれて物が言えなかったのだと思う。大きな船が操舵員も立てずに、こんなフランス沿海の、暗礁だらけの海域をぬって進むなんて……考えるだけでもばかばかしい。

……冒頭より


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