モーパッサン短篇集
「ある女の告白」

モーパッサン/新庄嘉章訳

ドットブック版 228KB/テキストファイル 162KB

600円

モーパッサンは人間の欲望の織りなす日々の暮らしの機微を、さまざまな側面から切り取って鮮やかに示してくれる多くの短編小説を書いた。この集には表題作のほか、「聖水授与者」「月光」「宝石」「温室」「オトー父子」など20編を収めてある。

ギィ・ド・モーパッサン(1850〜93)フランスを代表する自然主義作家。「脂肪の塊」で一躍注目され、矢継ぎ早に多数の作品を生み出した。「女の一生」「ベラミ」「ピエールとジャン」など多数の小説以外にも旅行記、詩集、短編など。後年発狂し、精神病院で死去した。

立ち読みフロア
 私の生涯の一番強烈な想い出を話してくれという御注文でしたね。私はもうお婆さんですし、両親もなければ、また子供もありません。ですから自由になんでもお話できるわけです。でも、名前だけは秘密にして下さいますようお願いいたします。
 御存じのように、私は非常に愛されました。私自身もまたしばしば愛しました。私はなかなかの美人でした。その名残《なごり》の全然ない今日では、そうはっきり申しても差し支えないでしょう。恋愛は私にとっては魂の生命でした。ちょうど、空気が肉体の生命であるようにね。愛情なしで暮すくらいなら、いつもひとに想われて暮すのでなかったら、いっそ死んだ方がましと思ったでしょう。女達はよく、全心をあげて愛するのは一生に一度しかないと言います。私は幾度か、とてもこの切ない恋の終ることはあるまいと思うほど激しく恋したことがありました。でも、そうした恋も、いつも、ごく自然に消えていきました。薪《まき》のきれた火のようにね。
 今日は、私の最初の恋愛事件をお話しましょう。この事件では私自身はまったく清浄潔白だったのですが、これが次々に私に恋愛事件を起させるもとになったのです。
 あのペックの残忍な薬剤師が犯した身の毛もよだつような復讐事件は、私が自分では知らずに巻き込まれた恐ろしい悲劇を思い出させました。
 私はそのちょうど一年前に、エルヴェ・ドゥ・ケル……伯爵という金持と結婚していました。古い家柄のブルターニュ人でした。私はもちろん夫を全然愛していませんでした。本当の恋愛というものは、少くとも私の考えでは、自由と障害を同時に必要とするものです。法律で認められ、お坊さんに祝福された、強制的な愛などがどうして恋愛と言えるでしょう? 合法的な接吻《せっぷん》など決して盗まれた接吻ほどの値打はありません。
 私の夫は背が高く、おしゃれで、実際見たところは立派な貴公子でした。でも頭が足りないのです。本人は何事でも割り切った話をし、庖刀の刃で素気なく切るような話をするのです。夫の頭の中には、でき合いの考え、父や母から貰ったそっくりそのままの考えが詰っているような気がしました。父や母にしても、やっぱりそれを彼等の先祖から貰ったのでしょう。彼は臆面もなく、すべてのことに、たちどころに、あさはかな狭い意見を述べたてました。いっこうに当惑した様子もなく、まだほかの見方だってあることなど分らないのですね。彼の頭は八方塞《ふさが》りで、そこにはいろんな考えが絶えず循環してるようには思われませんでした。こうしたいろんな考えは、扉や窓をあけた家の中を吹き通る風のように、頭の中をすがすがしくさせ、健康にするものなのですがね。
 私達の住んでいた屋敷は人気《ひとけ》のない田舎の真中にありました。それは巨《おお》きな樹で取り囲まれた、陰気な大きな家で、壁に蒸した苔《こけ》は、老人の白い髯《ひげ》を思わせました。庭はすっかり森になっていて、まわりぐるりを、溝囲い《ソー・ド・ルー》と呼ばれている深い溝で取り囲まれていました。そして、ずっとはずれの、荒れた野原の方に、葦《あし》や浮草が密生した大きな二つの池がありました。そしてこの二つの池の間の、両方の池を結ぶ小川のほとりに、夫は鴨《かも》を射つための小屋を造らせていました。
 私達の家には、普通の召使のほかに、死ぬまで夫に献身的に仕えた野獣のような番人と、一生懸命に私にかしずいてくれた、ほとんど友達と言ってもいいほどな小間使がいました。私はこの小間使を五年前にスペインから連れてきたのでした。棄児《すてご》だったのです。肌の色は黒く、眼も薄暗く、髪の毛は森のように奥深くて、いつも額《ひたい》のまわりに逆立っているところなど、まさにジプシーの女のようでした。その頃十六でしたが、二十《はたち》にも見えました。
 秋のはじめでした。ある時は近所で、ある時はうちでと、狩猟が盛んになってきました。そして私は、C……男爵という若い方が、それこそもうしょっちゅう、うちにいらっしゃるのに気がつきました。それから男爵は急にいらっしゃらなくなりました。私はもうそんなことを忘れていましたが、夫の私に対する態度が変っているのに気がつきました。
 彼はしょっちゅう何か考えこんでいて、無口になってしまったようでした。そして私に全然接吻しなくなりました。少し一人静かに暮したいと思って、私は自分の部屋を夫の部屋から離れた所にして貰っていましたが、彼はもうほとんどその私の部屋にはいって来ようとしませんでした。
 しかし、しばしば、夜、忍び足がこっそり私の扉の所にまでやって来て、しばらくじっとしていたのちまた遠ざかって行くのを、私は耳にしました。
 私の窓は、一階にありましたので、屋敷のまわりの闇の中を誰かがうろついているような足音も、しばしば耳に聞えてくるような気がしました。私はそれを夫に言いました。すると夫は、しばらく私をきっと見詰めていましたが、やがて、「それはなんでもないよ、番人だよ」と答えました。


……『ある女の告白』冒頭

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