モーパッサン短篇集
「シモンのパパ」

モーパッサン/杉捷夫訳

ドットブック版 151KB/テキストファイル 81KB

300円

モーパッサンはたぐいまれな人間観察家だったが、それはフランス社会の様々な階級の暮らしの機微を活写する多くの短編として結実した。この巻には名編のほまれ高い「シモンのパパ」と「わら椅子直しの女」のほか、「山小屋」「ペルル嬢」「オリーブ畑」「狂女」「海の上のこと」の全部で7編を収めた。

ギィ・ド・モーパッサン(1850〜93)フランスを代表する自然主義作家。「脂肪の塊」で一躍注目され、矢継ぎ早に多数の作品を生み出した。「女の一生」「ベラミ」「ピエールとジャン」など多数の小説以外にも旅行記、詩集、短編など。後年発狂し、精神病院で死去した。

立ち読みフロア
 今しも正午の鐘が鳴りおわったところ。学校の入口の戸があき、子供たちは先を争ってもみあいながら、外へなだれ出た。しかし、いつものように、すぐに八方に散って昼飯を食べに帰ろうとはせず、五、六歩の距離のところで立ちどまり、いくつも組をつくってかたまったと思うと、ひそひそ話を始めた。
 この日、ブランショットのむすこシモンが、はじめて教室に姿をあらわしたからである。
 子供たちはみんなブランショットのことはめいめいのうちで話が出るので聞いて知っていた。大ぜいの前ではこの女にあいそのいい顔を見せていたとはいうものの、母親たちは内輪(うちわ)話のときにはいくらか軽蔑(けいべつ)のまじった一種の同情の気持でこの女を扱っていた。その気持が、わけはわからぬながら子供たちに感染しているのだった。
 本人のシモンについては、子供たちはこの少年を知らなかった。シモンはめったにおもてに出たことがなく、子供たちといっしょに村の往来や川のふちを遊びほうけて歩くことをしなかったからである。そういうわけで子供たちはシモンに好意をもたなかった。かなりの驚きのまじった一種の喜びを包みかねる気持で、彼らは仲間の一人の十四、五になる男の子の言った言葉をむかえ、互にこれを復唱(ふくしょう)した。この大きな男の子は、くわしいことを知っているらしく、したり顔にまばたきをして見せた。
「おい、知ってるか……シモンはな……ててなし子だぞ」
 その時、ブランショットのむすこが学校の玄関のしきいの上にあらわれた。
 年の頃は七つか八つ、色がなま白く、小ざっぱりした身なり、おくびょうそうな、ほとんどぎごちない様子をしている。
 母親のいる家へ帰ろうと歩きかけたところへ、いくつものかたまりをつくっていた級友が、相変らずひそひそ話し合い、何かわるさをしようとたくらんでいる子供たち独特の残忍な意地の悪い目つきでシモンのほうを見ながら、少しずつ彼のまわりに集まって来たと思うと、とうとうぴったり彼をとりまいてしまった。シモンは、大ぜいのまんなかに立ちつくしたまま、何をされるのが合点(がてん)がいかず、びっくりし、かつ、当惑するばかりだった。が、先刻、ニュースをもってきた男の子は、早くも成功をおさめたのにいい気になって、シモンにむかってこうきいた。
「おい、おまえの名は何てんだ?」
 少年は答えた。――「シモン」
「シモン、それから何だ?」と、相手は言いかえした。
 少年は狼狽(ろうばい)してくりかえした。「シモン」
 男の子がかみつくように言った。――「人の名前ってものはな、シモン何とかっていうものだ……シモンだけじゃ……名前にならないや、いいか」
 シモンは今にも泣きだしそうになって、三度目にこう叫んだ。
「ぼくの名はシモンだよ」
 悪童どもはどっと笑いだした。勝ち誇った男の子が一段と声をはりあげた。――「みんなわかったか、こいつはててなし子なんだ」
 みんながしんとなった。この異常な事柄に、――父親のない子供――というありうべからざる、おそろしい事柄に、子供たちはごくりと唾(つば)をのみこむ気持だった。異常な現象を、自然からはずれた存在をながめる気持でシモンをながめた。ブランショットにたいする母親たちの軽蔑、今日まで意味のよくわからなかったあの軽蔑、それが彼らの胸の中で大きくひろがっていくのを彼らは感じていた。
 シモンはどうかというと、倒れまいとして木によりかかっていた。とりかえしのつかない災害のためにうちのめされたように、じっとしていた。言いひらきをしようとあせったが、自分に父親がないという恐ろしい事実を否認するのに相手にたたきつけてやる言葉をみつけることができなかった。とうとう、鉛のように蒼(あお)ざめた顔をあげたと思うと、いきなり出まかせにこうどなった。――「うそだ。パパはいるんだ」
「どこにいるんだ?」と男の子がきいた。
 シモンは黙った。父親がどこにいるか彼は知らなかったのである。子供たちは、勢いづいて、声をたてて笑った。人間よりも動物に近いこの田園の子らは、とりごやのめんどりどもが仲間の一羽が傷ついたとたんにみんなでおどりかかって殺してしまおうとする、あの残忍な欲望にかりたてられているのだった。シモンはふと、ごけの息子で近所に住んでいる少年がそばにいるのに目をつけた。彼自身と同じように、いつも母親と二人だけでいるのを彼は見ていた。
「おまえだって、パパはいないじゃないか」
「うそだい、いらい」と相手は答えた。
「どこにいるんだ?」と、シモンもやり返した。
「死んだんだい、お墓の中にいらあ、おれんちのパパは」と、少年は得意になって相手をみくだすような調子でこう宣言した。


……「シモンのパパ」冒頭

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