「モーパッサン怪奇傑作集」

モーパッサン/榊原晃三訳

ドットブック 127KB/テキストファイル 105KB

400円

目に見えるものをリアルに描き、その奥にある「目には見えないもの」を想像させる薄気味のわるい物語11編。超自然現象、異常な幻覚、狂気錯乱など、作者自身の実体験をへて生み出された「怖い話」の集成。

ギ・ド・モーパッサン(1850〜93)フランスを代表する自然主義作家。「脂肪の塊」で一躍注目され、矢継ぎ早に多数の作品を生み出した。「女の一生」「ベラミ」「ピエールとジャン」など多数の小説以外にも旅行記、詩集、短編など。後年発狂し、精神病院で死去した。

立ち読みフロア
 一八八三年七月十七日、午前二時半ごろ、墓場の端にある番小屋に住む、ベジェ墓地の管理人は、台所に閉じ込めておいた飼犬の激しい吠え声で目を覚ました。
 すぐ階下《した》に下りて行ってみると、犬は戸口の下を狂ったように嗅ぎ廻っていた。まるで家の周囲で浮浪者か何かがうろつき廻ってでもいるみたいだった。管理人ヴァンサンは、銃を手にして、用心しながら外へ出て行った。
 飼犬はボネ将軍家の墓へ通じる小径に向かって走り出し、トモアゾー夫人の記念像のそばでぴたっと止まった。
 そこで管理人は警戒しながら進むと、やがてマランヴェール小路の方向に小さな明かりを認めた。彼はすばやく墓と墓の間に滑りこんで、そこから恐るべき墓地荒らしを目撃した。
 一人の男が、前日埋葬された若い女の死体を掘り起こし、墓の外に引っぱり出していた。
 土の山の上に置かれた小さなランタンがこのぞっとする光景を照らし出していた。
 管理人ヴァンサンはこのあさましい男に飛びかかって、投げ倒し、両手を縛り上げて、警察に引っぱって行った。
 その男は、クールバタイユという名の、この町でも評判のよい、金持の若い弁護士だった。
 彼は裁判にかけられた。検事局は、あの有名なベルトラン軍曹の獣的行為を傍聴人たちに思い起こさせて、彼らを煽動した。
 傍聴人の中に、憤慨の戦慄が起こった。裁判官が席につくととたんに、「死刑だ! 死刑だ!」という叫びが爆発した。裁判官は法廷に静粛を回復するのに大いに骨が折れた。
 それから、おごそかな口調で言った。
「被告には弁明することがあるか?」
 弁護士を要求していなかったクールバタイユは自ら立ち上がった。背が高く、髪の毛は褐色で、顔は明るく、精悍《せいかん》な顔立ちで、ものを怖れぬ目つきをした美青年だった。
 傍聴席から口笛が飛んだ。
 青年は、少しも心乱れるふうがなく、初めは少々不明瞭な声で話したが、やがて、その声はだんだん強くなって来た。
「裁判長殿
 陪審員諸君、
 わたしにはほんのわずかだけ言うべきことがあります。わたしが墓をあばいた女は、実はわたしの愛人であったのです。わたしは彼女を愛していました。
 わたしは肉体的な愛ではなく、ただ単なる心の優しさでもなく、絶対的な完璧な愛、狂熱的な愛で彼女を愛していました。
 お聞きください。
 わたしが初めて彼女に会った時、彼女を目にして、わたしは不思議な思いに打たれました。それはおどろきでもなく、感嘆でもなく、一と目惚れと呼ばれるものでもなく、ある得も言われぬ甘美な幸福感でした。まるで生暖かい湯の中に漬かったみたいな心地でした。彼女の素振りはわたしを惹きつけ、彼女の声はわたしをうっとりとさせ、彼女の体全体が、それを見るわたしに限りない歓びをあたえました。また、もうずっと以前から彼女と知り合っていたような、あるいはすでにどこかで彼女に会ったような気がしました。彼女は身内に、なにかわたしの精神のようなものを持っていました。
 わたしには彼女が、わたしの魂が投げかける呼びかけに対する答えのように、人間が生涯を通じて希望に向かって投げている漠とした絶えざる呼びかけのように思われたのです。
 彼女をもう少しよく知るようになると、彼女に会うのだと考えるだけで、もうわたしは深く快い気持に心をかきたてられました。わが手に、彼女の手を握ると、わたしはかつて一度も想像したことのないような恍惚とした思いに打たれ、彼女の微笑みはわたしの目の中に狂おしいほどの歓喜を注ぎこみ、そのため、わたしは走りたい、踊りたい、地面をころげ廻りたいと切なく思うのでした。
 こうして、彼女はわたしの愛人になりました。
 いや、彼女は愛人以上のものでした。わたしの生命そのものでした。わたしはもうこの世で何も期待せず、何も望まなくなりました。もう何一つほしいものはありませんでした。
 ところが、ある晩、わたしたちは河に沿って少し遠出をしたのですが、その時、雨に降られてしまいました。彼女は風邪をひきました。
 そして翌日、彼女は肺炎を起こして、一週間後に死んでしまったのです。
 彼女が死の苦しみを味わっている何時間か、わたしはあまりのおどろきと狼狽のために、もう何も解らなくなり、何も考えることができませんでした。
 彼女が亡くなった時には、わたしは絶望のあまり茫然となり、もう思考能力も失って、ただ泣いてばかりいました。
 恐ろしい埋葬の儀式が行なわれている間、わたしの激しい狂おしい苦悩はまた、亡き女《ひと》の苦しみでもありました。つまり一種の感覚的、肉体的苦しみでした。
 が、やがて、彼女がいなくなってしまい、地中に埋められてしまった時になって、わたしの意識はとつぜん鮮明になりました。そして、わたしは続けざまにあまりに恐ろしい心の苦しみを味わいましたので、彼女から受けた愛すらも、これほどの代償には引き合わないような気がしたくらいでした。
 その時、わたしの頭にこんな考えが浮かび、それが固定観念になってしまいました。
「もう二度と彼女には会えないんだ」
 まる一日中、こんなことを考えていれば、だれだって頭がおかしくなってしまいます! まったく、考えてもみてください! あなたが激しく愛している人間がいるとします。それはかけがえのない人間です。なぜなら、この広大な世界の中で、その人間に似ている人は一人もいないからです。この人があなたに身を捧げ、あなたとともに〈愛〉と呼ばれている神秘的な結合を創造します。あなたにとっては、その人の目は宇宙空間より広く、世界よりも魅力的であるような気がします。その明るい目の中では、愛情が微笑んでいるのです。そんな人があなたを愛しているのです。その人があなたに話しかけると、その声はあなたに幸せの波を注ぎかけるのです。
 ところが、その人がとつぜん消えてしまうのです! 考えてもみてください! その人は、ただあなたにとって消えるだけではなく、永久に姿を消してしまうのです。その人は死んだのです。この死という言葉の意味がお解りでしょうか? もう決して、決して、決して、どこにも、その人は存在していないのです。もう絶対に、その目は何ものも見ないのです。もう決して、その声は、そのような声は、人間のすべての声の中で、その声が発音していた言葉のどの一つさえも、そのようには発音しなくなるのです。
 決して、いかなる顔も彼女の顔そっくりには生まれて来ません。決して、決して、です! 彫像の鋳型は取っておくことができます。同じ輪郭と同じ色彩を持つ品物を再生する押し型は保存しておくことができます。しかし、彼女の肉体、彼女の顔は、決して二度とこの世に現れません。何千、何百万、何十億という無数の人間は生まれるでしょうが、こうして未来において生まれるすべての女たちの中で、彼女は二度と生まれては来ません。そんなことがあるわけがないでしょう? それを思うと、気が狂ってしまうのです!
 彼女は二十年間存在しただけで、それでもうおしまいでした。彼女は永遠に消滅してしまったのです。永遠に、永遠に、です! 彼女は考え、微笑み、そしてわたしを愛しました。それなのに、もう何も存在しないのです。秋に死ぬハエも、創造の世界においては、わたしたち人間と同じです。もう何ものもないのです! そして、わたしは、彼女の肉体、生き生きとして暖かい彼女の肉体、あれほど柔らかく、あれほど白く、あれほど美しかった肉体も、地下の箱の中で腐っていくのかと思いました。彼女の魂や、彼女の考えや、彼女の愛は、いったいどこに行くのだろう? と。
 もう二度と彼女に会えない! もはや二度と彼女には会えない! この分解していく肉体という考えがわたしに取り憑いて離れなくなりました。でも、おそらく、わたしはそれをよく知ることはできるだろう。こうして、わたしはその肉体を今一度この目で見たくなったのです!
 わたしはシャベルとランタンと槌《つち》を持って出かけました。墓地の塀を乗り越えました。彼女の墓穴を見つけました。まだ土を全部はかけてなかったのです。
 わたしは棺をむき出しにしました。そして棺の蓋の板を一枚開けました。嘔き気を催すような臭気、おぞましい腐敗の匂いが、わたしの顔に吹きつけました。ああ! 彼女の寝床はアイリスの香りがしたのに!
 でも、わたしは棺の蓋を取り、火をともしたランタンを棺の中に入れて、彼女の顔を見ました。彼女の顔は真青で、むくんでいて、ぞっとしました! 彼女の口からは真黒い液体が流れ出ていました。
 彼女でした。まちがいなく彼女でした! わたしはぞっと恐ろしくなりました。それでも、わたしは片腕をのばして、その髪をつかんで、その恐ろしい顔を引き寄せようとしました。
 その時です、わたしが逮捕されたのは。
 その腐敗の悪臭、最愛の女の匂いが、一晩中、わたしにしみついていました。まるで愛の抱擁のあとで、相手の女の匂いがしみついているように。
 どうか、わたしを存分になさってください」

 何とも奇妙な沈黙が法廷内にみなぎっているようだった。人々はまだ何かを待っているようだった。陪審員たちが協議するために中座した。
 数分後、陪審員たちが戻って来た時には、被告は少しも不安な様子もなく、何も考えてさえいないようだった。
 裁判官は型どおりの言葉で、評決が無罪を宣告した旨を被告に言い渡した。
 被告は身振り一つしなかった。傍聴席から拍手が湧き上がった。

……『墓』

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