「メソポタミアの殺人」

アガサ・クリスティ/高橋豊訳

ドットブック版 416KB/テキストファイル 178KB

600円

クリスティの中東を舞台にした作品中の最高傑作! 考古学者レイドナー博士と再婚したルイーズのもとに、殺された先夫からとしか思えない奇怪な脅迫状が舞いこみはじめる。さらに、古代アッシリアの遺跡調査のため、夫とともにイラクへと渡ったルイーズを追いかけて、死を予告する不吉な手紙が届く。ポワロが「幻想的な犯罪」と呼んだ不可思議な殺人の幕が切っておとされ、殺人鬼の知恵とポワロの灰色の脳細胞とはすさまじい緊張のうちに対決した……

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポ ワロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポワロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア

 私は決して作家を気どるつもりはないし、自分が本を書くほどのことを知っているとも考えてはいない。ただ、レイリー先生から頼まれて書こうと思い立ったにすぎないのだ。なぜか知らないが、レイリー先生に何かを頼まれると、だれでもついそれをしてあげたい気持ちになるだろうと思う。
「でも、先生、わたくし、文学の素養(そよう)なんか全然ございませんし……」と、私はいった。
「そんなこと気にする必要はないよ」と、彼はいった。「病牀(びょうしょう)日誌を書くようなつもりでやればいいんだ」
 確かにそれも一つの書き方に違いない。
 レイリー先生はさらに、テル・ヤリミア事件の粉飾(ふんしょく)のない詳細な記録がぜひほしいのだといった。
「事件に私的な関係のあった者が書くと、どうしても偏った、一方的な立場に立って述べるようになるからね」
 もちろん、それも正しい。私は終始事件の中にまきこまれてはいたが、それでも、ほんとうの意味では局外者だったのだ。
「どうして先生がご自分でお書きにならないんですか?」と、私がたずねた。
「わたしは現場にはいなかったが――きみは実際その渦中にいたわけだし、それに――」彼はため息といっしょにつけ加えた。「わたしの娘がわたしに書かせたがらないだろうからね」
 自分の娘に頭が上らないといった調子でそう語る彼の様子は、いかにも面目(めんもく)なさそうだったが、しかし私が半ばそう感じたとき、彼の眼がいたずらっぽくまたたくのを見た。これはレイリー先生の悪い癖だった。冗談にいってるのか本気なのかと、だれでも戸惑(とまど)わされる。彼はどっちの場合も同じように独特な憂鬱(ゆううつ)さを帯びた口調で話すのだが――往々(おうおう)にして眼がひそかにいたずらっぽく光るときがあった。
「ええ、まあ、わたくしにでも書けそうな気はしますけど……」
「もちろんきみならできるよ」
「でも、どう書きはじめたらいいのかしら」
「こういう場合によく使う手法があるじゃないか。つまり、ことのはじまりから書きはじめて、そのまま事件の経過に従って終末まで書きおろすやり方さ」
「その、ことのはじまりというのがわからないんですよ」と、私が重ねていった。
「だいたいね、書きはじめの難しさなんてものは、最後をどうしめくくるかという難しさに比べたら、ものの数じゃないさ。少なくとも、わたしがテーブル・スピーチをやるときなんかは、確かにそういえるな。結局だれかがわたしの上着の裾(すそ)をつかんで、力ずくでひきずり降ろすようなことになっちまうんだがね」
「まあ、いやですわ、先生。ご冗談ばかりおっしゃって」
「いや、大まじめな話さ。で、えーと、何の話をしてたんだっけ?」
 私の心にかかっていることがもう一つあった。私はややためらいながらいった。「それに、ちょっと心配なんです――わたくし、ややもすれば個人攻撃的になる傾向があるような気がするんですの」
「そらあいいさ、きみが個人攻撃的であればあるほどいいんだよ! この物語は、人間に関する物語であって――でく人形の話なんかじゃないんだからね。個人攻撃は大いに歓迎だ――憎むべきは憎み、愛すべきものは愛し――偏見をもっても、猫のような眼で見ても結構――とにかくきみの好きなように見て、きみの感じたように書いてくれればいいんだ。中傷(ちゅうしょう)的すぎるところがあれば、後で削除することだってできるんだからね。遠慮なく書きまくってくれ。判断力のすぐれたきみのことだから、きっと良識のゆきとどいた記録ができあがるだろう」
 私は、最善をつくしてみることを約束した。
 こうして私は、いままさに書きはじめようとしているのだが、先生にいったとおり、どこから書きはじめたらいいのかを見きわめることは、依然として難しい。
 しかし、とにかくまず私自身のことについて、二、三紹介しておこう。私の年齢は三十二歳、名前はエイミー・レザラン。聖クリストファ病院で訓練を受け、その後二年間助産婦をした。そしてさらにある程度個人の付添(つきそい)看護婦の仕事をやってから、四年間をデヴォンシャ州のミス・ベンディックス保育ホームに勤め、それから、ケルゼイ夫人という人といっしょにイラクへきたのだった。私は夫人がお産をするときから、ずっと彼女に付添っていた。そして、彼女が夫といっしょにバグダッドへ行くことになったとき、数年間彼女の友人たちの子供の世話を見てきた保姆(ほぼ)がそちらにいたので、バグダッドに着いたらその保姆を頼むことにきまっていた――友人たちの子供はみな本国へ帰って学校に入るので、その保姆は彼らがバグダッドを去り次第、ケルゼイ夫人の家へくることを承諾していたのだった。しかし、ケルゼイ夫人は体が弱く、生まれたばかりの赤ん坊をかかえて長い旅行をするのが危ぶまれたために、ケルゼイ少佐は、私がその間夫人に付添って、夫人と赤ん坊の世話を見るようにとりはからったのだ。バグダッドに着いたら、もし本国へ帰る人たちの中に看護婦を必要とする人がいない場合は、少佐が私の帰国の旅費を払うことになっていたのだった。
 ケルゼイ夫人のことについては、特に説明する必要はあるまい――赤ん坊はかわいらしかったし、ケルゼイ夫人は多少気むずかしかったが、非常にいい人だった。旅行もとても愉(たの)しかった。私にとっては生まれてはじめての長い航海旅行だった。
 レイリー先生は私と同じ船に乗っていた。彼は髪が黒く面長で、低い悲しげな声でよく冗談をいった。私をからかうのが面白かったのだろうが、しかし、突拍子(とっぴょうし)もないことをいってそれを私が理解できるかどうか試しているようでもあった。彼はバグダッドから一日半ほどかかるハッサニーという土地で開業している外科医だった。
 バグダッドに着いて一週間ほどたったころ、彼は突然私のところへやってきた。そして、いつケルゼイ夫妻のもとを離れるのかと私にたずねた。じつはケルゼイ夫妻の友人のライト家の家族が予定よりも早く本国へ帰ることになり、従ってその保姆はもうすぐケルゼイ夫妻の方へやってくることになっていたのだが、しかし彼はそんな事情を知らないはずなので、私はけげんに思って訊(き)き返した。
 彼はライト家のことを聞いたので、あえて私にたずねたのだといってから、
「じつは、きみにできそうな仕事の口が一つあるんだ」といった。
「病人ですか?」
 彼は天井を睨(にら)むような恰好をして、やや考えてから答えた。
「病人とはいえないかもしれないな。要するにその婦人は――何というか――つまり、妄想にとりつかれているんだよ」
「まあ!」私は思わず叫んだ。
(だれだって、アルコール中毒か麻薬中毒を連想するだろう)
 レイリー先生は、それ以上詳しい説明をさけた。なぜかひどく用心深かった。
「レイドナー夫人という人なんだ」と、彼はいった。「ご主人はアメリカ人だ――正確にいうと、スウェーデン系のアメリカ人だがね。いまこちらへきているアメリカの遺跡調査隊の指揮者なんだ」
 その調査隊が、すでに知られているニネベ〔チグリス河畔の古都〕と同じようなある古代アッシリアの古都の遺跡を発掘している様子を、彼は簡単に説明した。調査隊の宿舎はハッサニーからさほど遠くないところにあるが、しかしそこは非常に寂しい土地だといった。さらに彼の話によれば、レイドナー博士は、だいぶ前から妻の健康状態を心配していたらしい。
「彼はあまり詳しく説明しないけど、どうやら奥さんは、周期的にある恐怖症に襲われるらしいんだ」
「彼女は日中は現地人の間においてきぼりにされて、わびしく暮してるんじゃありませんの」と、私が訊いた。
「いやいや、調査隊はかなりな人数で――十人以上いるからね。家の中に独りでいるようなことはまずないだろう。彼女が奇妙な精神状態になるのは、そのためじゃなさそうなんだ。どうしてそんな精神状態になるのか、彼にもさっぱりわからんらしいがね。それでとにかく、専門的な知識のある信頼のおける人がたえず奥さんを看(み)ていてくれたら安心できるんじゃないかといってるわけなんだ」
「で、レイドナー夫人自身は、それをどう考えているんですか」
 レイリー先生は重苦しい口調で答えた。
「レイドナー夫人は非常に快活な女性で、めったにくよくよ考えたりしない人なんだが、しかし、何かにとりつかれているんだね。ちょっと変わった女性なんだ。かなり気どり屋だし、それに相当な嘘つきらしい。しかし、レイドナー博士はもちろん本気になって心配してるんだ。彼女の過去に何か恐怖症の原因になるようなことがあったのだと思っている様子だった」
「夫人はあなたにどういってるんですの」
「いや、彼女はわたしになんか相談しないさ。これにはちょっとわけがあるんだが――彼女はわたしをあんまりよく思ってないんだよ。だから、わたしのところへ相談にきたのはレイドナーだけなんだが……。どうだろう、この話は? 彼らはあと二ヵ月ぐらい発掘作業を続ける予定らしいから、きみは帰国する前にこの地方をいろいろ見物できるわけだし、それに、遺跡の発掘もなかなか面白い仕事だよ」
 私はしばしためらいながら、心の中で思案してみた。「そうですね……やってみましょうかしら」
「そうしてくれるとありがたいな」レイリー先生は腰をあげた。「レイドナー博士はいまバグダッドにきているから、彼にここへきてもらって、きみと具体的に話をとり決めるようにしてもらおう」
 その日の午後、レイドナー博士がホテルへやってきた。中年の紳士だが、その話しぶりは多少神経質で、ためらいがちだった。おとなしく、親切で、しかもどこか絶望的な影のある感じをうけた。

……「エイミー・レザランの前書き」冒頭より


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