「牝猫」
 

コレット/川口博著

ドットブック版 169KB/テキストファイル 72KB

300円

甘い新婚生活のはずだった若い二人の暮らし…だが、自己中心的な男と、がさつな女。男は自分が前から飼っている猫が大好きで、女には同等の愛情をそそぐことができない。そして遂には破局が…動物、なかでも猫が特別に好きだったコレットならではの技巧の円熟を感じさせる名作。

コレット(1873〜1954) 20世紀のフランスを代表する作家として再評価されつつある女流作家。二十歳のとき、年上の新聞記者と結婚。夫名で出版した『学校のクロディーヌ』が好評を得、立て続けに作品を発表した。06年に離婚後は、舞台に立ってパントマイムの世界で名を馳せた。12年には再婚。翌年には長女が誕生した。戦時中は新聞記者として活躍。戦後は『シェリ』『シェリの最後』など数々の作品を世に送り出し、作家としての名声を確立した。35年には3度目の結婚をしたが、夫の献身的な協力によって、70歳を過ぎても小説を書き続けた。

立ち読みフロア
 十時ごろになると、家庭ポーカーをしてあそんでいる連中に疲労の様子がみえた。カミイユは、そうした疲労にたいして、いかにも十九歳という年ごろにふさわしくふるまった。といってもそれは何回かとびあがるだけのことだったが、彼女はそれで爽快な、はればれした気分にもどれたのだった。それからこんどは両手を重ねて口にあてながら、あくびをした。するとそうしたあとで、顔色は蒼ざめ、頤(あご)は白っぽく、頬はオークル色のお白粉の下にいくらかくろずみをおび、両方の眼の隅には小さな涙の王がひとつずつ残るのだった。
「カミイユ、寝にゆかなきゃ駄目よ!」
「十時よ、ママン、十時なのよ! だれがいったい十時になんか寝ると思って?」
 そう答えながら彼女は、安楽椅子にぐったり疲れ切って、深々と腰をおろしていた許婚(いいなずけ)の方に視線を投げた。
「あの二人はあのままにしておいた方がいいわ」とこんどはもうひとりの母親が言った。「まだ七日も間があるんで、あの二人、このごろ少しどうかしちゃってるんですよ。その気持あたしにはよくわかるんだけれど」
「それはそうですけど。でも一時間おそくたって早くたって別にどうってこと……カミイユ、寝にゆかなきゃ駄目よ。それはそうと、あたしたちもそろそろ」
「七日もですって!」とカミイユは思わず叫んだ。「でもきょうはもう月曜日じゃない! あたしそんなこと気にしていなかったのに……アラン、こっちへきてよ、アラン!……」
 彼女は吸いかけの巻煙草を庭へ投げすてて、新しいのに火をつけると、打ち棄てられてばらばらになっていたポーカーのカードをとりあげ、それをよく切り、卓の上でいくどか叩いてそろえると神妙な様子で一枚一枚前へならべた。
「結婚式前までに、果たして自動車が、子供用のちいさな自動車(ロード・スター)がわたしたちの手にとびこんでくるかどうか、占ってみるわ……みて、アラン。あらあら駄目だわ! だって『旅行』とそれから『結婚』と一緒になって出たんですもの……」
「《だれ》がさ?」
「自動車(ロード・スター)よ、きまってるじゃない!」
 アランは、椅子の背から首をおこさない姿勢のままで、大きくあけ放たれていた戸窓の方へ頭を向けた。窓からはほうれん草や、その日に芝生から刈り込まれたばかりの新しい乾草の匂いが甘く匂ってきていた。大きな枯木に張りめぐっていた忍冬(スイカズラ)も早咲きの花の蜜を孕(はら)んでいた。ふとそのとき、水仙のようにすきとおった響きが、十時のシロップと冷えた水をエミイル爺やがふるえる腕の上にのせて運んできたことを知らせた。カミイユはそれをみんなのグラスにつぐために立ちあがった。
 彼女は一番あとになってから許婚のところへやってくると、意味の通じあった微笑みを浮かべながら、水気でくもったグラスを彼にさしだした。そして彼がそれを飲み干すのをじいっとみつめていたが、突然、グラスの縁(ふち)につよく押しあてられている彼の唇を目にして、ある情念に心が乱されるのを感じた。だが疲れすぎていた彼は、彼女のそうした欲望に気がつかない風をよそおいながら、空(から)になったグラスをうけとろうとする彼女の白い指と紅い爪をただわずかに握りしめただけだった。
「明日、お昼御飯に来てくださる?」と彼女は低い声で彼にたずねた。
「それをカードで当ててごらんよ」
 それを聞くとカミイユはうしろへさがって、道化役者(クラウン)のような恰好を悪戯(いたずら)っぽい仕草でしてみせた。
「《二十四時間占い》を馬鹿にしちゃいけないことよ! 《ナイフの十字架占い》や《穴あき銭占い》だってやっぱり馬鹿にできないわ。それからトーキー映画や《神様》だって……」
「カミイユ!」
「あらごめんなさい、ママン……でも《二十四時間占い》を冗談だと思っちゃいけないわ! かわいい気の利いた恰好をして、優しくてすばやい使者、それにスペードの家来でいつも大いそぎでやってくる……」
「なんのために急いでやってくるんだい?」
「知らせを告げにくるためよ、きまってるじゃない! ねえそうじゃない? 《ジャック》はこれからの二十四時間、もしくは二日の間になにが起こるかをちゃんと知らせてくれるんですもの。それにもしあんたが《ジャック》の右と左にカードを二枚よけいにおけば、《ジャック》は来週のことまで予言してくれるのよ……」
 彼女は早口に喋りながら、唇の両端にたまる紅いルージュのちいさな汚れを尖(とが)った爪の先で掻きとるのだった。アランは彼女の話に別に退屈も、また苛立たしさも感じないで耳を傾けていた。


……冒頭より


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