「はつかねずみと人間たち」

スタインベック/繁尾久訳

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300円

目はしのきく小男ジョージと、うすのろで馬鹿力の持ち主の大男レニーとの奇妙な友情。飯場から飯場へと移りながらも、二人はひそかに、いつかは農場を持ちたいという夢をもっていた。不思議な緊迫感と寓話にみちた物語。

ジョン・スタインベック(1902〜68)カリフォルニアに生まれ、終生そこに留まって社会性のある作品と、牧歌的な叙情的作品を書き続けた。代表作「怒りのぶどう」「赤い小馬」「エデンの東」。

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 先頭の男が空地でぴたりと足をとめると、うしろの男があわやぶつかりそうになった。小男のほうは帽子をとって、人差し指で帽子の汗止め皮をぬぐい、汗のしずくをはじいた。相棒の大男は毛布を地面に落とすと、がばっと身を伏せて、緑をたたえたふちの水面に口をつけて飲みはじめた。水に向けて馬のように鼻をならしながら、ごくりごくりとやっていた。小男は心配そうに彼のそばに歩みよった。
「おい、レニー!」と小男はきびしくいった。「レニー、後生だからがぶ飲みはよしてくれ」レニーはふちの中で鼻をならしつづけた。小男はうしろからおおいかぶさるようにして、大男の両肩をゆすぶった。「レニー、またおまえ、ゆうべみたいに気分が悪くなっちまうぞ」
 レニーは帽子もなにもそのままで、頭ごと水の中につっこんだかと思うと、川岸にすわりこんだ。水が帽子から彼の青いコートにしたたり落ち、背中づたいにたれていった。「うめえぞ」と彼は告げた。「おまえもちょっとやってみろよ、ジョージ。ぐっとやってみろよ」大男はたのしげににやっとした。
 ジョージはおのれの毛布を肩からはずして、そっと岸べにおいた。「いい水かどうかあやしいもんだな」彼はつぶやいた。「かすが浮いているようだぞ」
 レニーが大きな手を水に入れてはねかし、指を振り動かしたので、水しぶきがちょっとあがって、水の輪がふちの反対側まで広がってゆき、そしてふたたびもどってきた。レニーは波紋の消えるのをじっと見ていた。「見ろよ、ジョージ。なんでもないから」
 ジョージはふちのそばでひざを折って、すばやくすくって飲んだ。「わるかなさそうだ」と彼も認めた。「しかしなあ、ほんとに流れちゃいないようだぜ。流れてねえ水を飲んじゃだめだぜ、レニー」とジョージはむだを承知でいった。ひとすくいの水を顔にかけると、あごの下やうなじのあたりを片手でこすった。それからまた帽子をかぶり、川べりから後ずさりすると、ひざをたててかかえた。見守っていたレニーは、そっくりジョージにならった。後ずさりすると両ひざを立ててだき、ジョージのほうに目をやって、そっくりうまくいったかどうか確かめてみた。ジョージのかぶりかたをまねて、レニーは目にかぶさるくらいに帽子を深くかぶった。
 ジョージは気むずかしげに水面をにらんでいた。彼の目のふちは、陽にやけて赤くなっていた。彼はいらだたしげに告げた。「あのぬけさくのバスの運ちゃんがでまかせさえいわなきゃ、おれたちゃ牧場へぴたり横づけってとこだったのにな。『この街道をほんのちょっと行ったとこだ』などとぬかしやがった。『ほんのちょっと行ったとこだ』とはいいやがったもんだ。かれこれ四マイルもあるじゃねえか、まったく。牧場の入口で止めたくなかったっていうのが本音さ。面倒くさくて入口まではまっぴらだったんだ。まあ、ソリダッドで止めてくれたっていうのが拾いものみたいなもんさ。おれたちをほうり出して、『この街道をほんのちょっと行ったとこだ』とぬかしやがった。そのちょっとが、きっとたっぷり《ヽヽヽヽ》四マイルはあったぜ。このひでりになあ」
 レニーはおずおず彼のほうを見やった。「ジョージ」
「ああ、なんだね」
「どこへ行くんだい、おいらは。ジョージ」
 小男は帽子のへりをぐっと引きおろして、レニーをにらみつけた。「じゃあもう忘れちまったってわけなんだな。もういっぺんおれにいわせようっていうのかい。まったくおまえは手のかかるばかもんだなあ!」
「おれ、忘れちまったんだ」レニーはそっとつぶやいた。「おれ、忘れないようにしてたんだよ。ほんとなんだよ、ジョージ」
「わかった、わかったよ。もういっぺん教えてやろう。今べつだん仕事があるってわけじゃないからな。とにかくおれは、おまえに忘れてもらうために話をしてるようなもんだな。だからまたやりなおしってことになるんだ」
「忘れないようにがんばったんだ」とレニーはいった。「でもむだだったんだ。ウサギのことならおぼえているよ、ジョージ」
「ウサギのことなんかどうにでもなれ。まったくおまえがおぼえていられるのはウサギのことだけなんだな。よしっ! さあ、よく聞いておくんだ。こんどはよくおぼえておけよ。もうもめごとはまっぴらだからな。おまえハワード通りであの貧民窟《くつ》にすわりこんで、黒板を見てたのをおぼえているかい」
 レニーの顔はぱっと明るく輝き微笑がうかんだ。「そりゃあもちさ、ジョージ。そりゃおぼえているさ。でも、あのときおいらなにをしてたっけ。娘っ子がぞろぞろ通りかかって、おまえがなんていったっけ。おまえなんていったっけ」
「おれのいったことなどどうでもいいんだ。おれたちがマリー・アンド・レディ会社に行って、連中がおれたちに作業カードとバスの切符をくれたのを、おまえおぼえているかい」
「ああ、もちだよ、ジョージ。今そいつを思い出したのさ」彼はすばやく手を上衣のポケットにすべりこませて、静かに告げた。「ジョージ、……おれのがねえんだ。きっとそいつをなくしちまったんだ」彼はがっくりして目を地面におとした。
「おまえははなから持っちゃいないんだ、すっとんきょうなやつだな。おれがふたりの分をあずかっているんだ。このおれがおまえのカードを、おまえにあずけるとでも思っているのかい」
 レニーはほっとしてにやにやした。「おれ、……おれはまたわきのポケットに入れといたような気がしたんでな」彼はまた手をポケットにすべりこませた。
 ジョージはきっとしてレニーを見すえた。「いったいおまえは、そのポケットからなにを出そうとしているんだ」
「ポケットにゃなにもありゃしないよ」とレニーはこざかしくいいぬけた。
「そりゃそうだ。手の中につかんでいるんだからな。いったいなにを握っているんだ――かくしてるんだろう」
「なにも持っちゃいないよ、ジョージ。ほんとうだ」
「さあ、はやくそれを出すんだ」
 レニーはしっかり握った手をジョージの方角から遠ざけた。「これ、ただのはつかねずみなんだ、ジョージ」
「はつかねずみだって。生きているのかい」
「う、うん。ただの死んだやつだよ、ジョージ。おれが殺したんじゃないぜ。ほんとうなんだ! めっけただけだ。おれがめっけたときは死んじまっていたんだよ」
「さあ、それをここへお出し」とジョージは命じた。
「ねえ、いいじゃねえか。持たしといてくれよ、ジョージ」
「それをここへ出すんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
 レニーの握りこぶしがゆっくり命に従った。ジョージはそのはつかねずみをつまみあげると、ふちを越した対岸のやぶの中に投げすてた。「いったいなぜ死んだはつかねずみなんかを欲しがるんだい、とにかく」
「歩きながらおれは親指でずっとなでてかわいがっていたんだ」
「とにかくだな、おれといっしょに歩くときにゃ、はつかねずみなぞいじくりまわすんじゃねえぞ。これからおれたちがどこに行くのかわかってるのか」
 レニーははっとして、それからきまりわるげに顔をひざのほうに伏せた。「おれ、また忘れちまったんだ」
「いいかげんにしてくれ」とジョージはあきらめていった。「さあ、いいかい、おれたちは牧場で働くんだよ。おれたちが前にやめちまった北のほうの牧場みたいなとこだ」
「北のほうって」
「ウィードさ」

……第一章より

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