「ミラボー橋に消えた男」

レオ・マレ/長島良三訳

ドットブック版 219KB/テキストファイル 132KB

500円

身重の妻を残していずこかへ消えた男。実直一途でつつましい男がなぜ? 私立探偵ビュルマは河岸に広がる工場街へと男の足跡をさぐる。気まぐれな都会の偶然が巻き込んだ男と女の運命!

レオ・マレ(1909〜96)南フランスのモンペリエ生まれ。パリに出てシュールレアリストのグループに参加し、42年、ハードボイルド・ミステリー作家としてデビュー。61編もの長編を書いた。なかでも最も有名なのが「ブラックユーモア大賞」を受けた「新編パリの秘密」というシリーズで、「殺意の運河サンマルタン」「ミラボー橋に消えた男」はどちらもこの中に含まれる。

立ち読みフロア
 その年の十二月は比較的あたたかかったが、毎日のように霧雨が降り、どこの床屋でも、アパートの管理人室でも、例年なら十二月十五日をすぎるとかならず訪れる雪と今年のような雨と、どっちがましか議論がかわされていた。このじとじとした霧雨のなかで、ふだんからぱっとしないサイダ通りが、見ばえするはずはなかった。
 もちろん、サイダ通りに住んでいるほうが、住所不定で橋の下に寝るよりましにきまっている。浮浪者にくらべたら、ここに住んでいる連中は幸せだが、それでもねえ! どうひいき目に見ても、あまり陽気な通りとはいえない。
 私に電話してきた女の住んでいるアパートは、サイダ通りに立ちならぶ低所得者用の賃貸住宅の一棟だった。その建物を設計したのは、よほど縁者びいきの建築家で、近所で親戚が医者を開業している男にちがいない。私がそう考えたのは、アパートのそとに取りつけてある絞首台みたいな金属製の階段のせいだった。ああいうのを外梯子(そとばしご)というのだろうか。私は建築のことはよくわからないが、とにかく階段というよりは梯子という感じだ。それは二棟が共同で使うようになっていて、見るからに恐ろしい五階だての垂直の檻(おり)みたいな形をしており、四方八方からの風にさらされていた。つまり、踊り場でのんびり人を待ったりするには、およそ不向きな場所なのだ。ことに、気管支の弱い者などは、たちまち悪い風邪にとっつかれるに相違ない。そうしたら……医者へどうぞ、という段取りだ!
 もっとも、この階段は、借金取りや財産差し押さえの執行官に風邪をひかせるのにも、おあつらえむきの仕掛けと考えることもできる。だから、結局のところ、世の中はうまくバランスが取れていて、禍(わざわい)を転じて福となす、ということも可能なのだ。〈こういうたぐいのくだらない軽口をたたいていないことには、こんなところで辛抱して暮らしていくわけにはいかないだろう〉そう私は考えた。
 さて、その場の光景に話をもどすと、あっぱれな楽天主義者が階段の手すりにかけた洗濯物が、陰気くさい霧雨にうたれて、うんざりしたように雫(しずく)をしたたらせながら、それでもなんとかして乾こうと努力していた。
 道端の柵と建物のあいだには庭があった。地面が少しぬかるんでいた。戦争前までは、そこも芝生でおおわれていたに相違ない。
 庭のまんなかで、二人の子供が雨をものともせずに突ったっていた。そのうちの一人は時おり思い出したように咳きこんだ。二人は上を向いて、ある階の窓辺ではためいている水色のパンティーを見つめていた。フリルつきのパンティーは湿っぽい北風をはらんでふくらんだり、心臓のようにぴくぴく動いたりしていた。
 私は門のなかへはいっていった。
 私はそう大きな音はたてなかったが、二人の小僧っ子どもは私が近づいたのに気づき、なにか悪さの現場をおさえられたように、あわてて振りむいた。二人とも煙草を吸っていたが、まあまあ喫煙が大目に見られる年齢に達しているのは、そのうちの一人だけだった。二人はなんとかして吸い殻を隠そうとしたが無駄だった。
 私は自分のパイプを振りかざして、笑ってみせた。
「心配はいらんよ、坊やたち。おれだって煙草ぐらい吸うさ」
「そうだろうとも」と年かさのほうのガキが薄ら笑いを浮かべながら言った。十五歳くらいの少年だったが、はすにかぶった鳥打帽の下から、年よりふけた感じの顔をのぞかせていた。「そうだろうとも」と言った口調には、私が本当に二人を叱るつもりがないかどうかあやしいものだ、という意味がこめられていた。
 その少年が大人に対していだいている信頼とひきかえに、サンドイッチを買おうという気をおこしても、ひどく腹ぺこのときはやめておいたほうがいいだろう。薄っぺらなサンドイッチしか買えないにきまっているからだ。しかし、もう一人の子のほうはちがっていた。その子は病身の小天使みたいな、整ってはいないが愛嬌のある顔立ちで、メランコリックな灰色の目は女の子のような長い睫(まつげ)に縁取られていた。相棒ほど頑固ではなく、わりと簡単に人を信用する質(たち)らしく、その子はベレー帽に人差し指をあてて挨拶してから、相棒よりさきに、また煙草を吸いはじめ、そのため、またひとしきり咳きこんだ。
「こいつ、煙草の吸いかたも知らねえのさ」と年上のほうの少年は言い、咳きこむまねをした。
「それで、あんたが教えてやってるっていうわけかい?」と私はたずねた。
 少年は答えず、やや長目の鼻から、しきりに煙を吹き出していた。もう一人のほうはあいかわらず咳をしていた。どうやら、煙草だけが原因の咳ではないらしい。私は子供の足もとに目をやった。クリスマスが近づいていたが、その子の靴は、プレゼントをいれてもらうために、暖炉のそばにおけるような代物(しろもの)ではなかった。まったくみっともない靴で、にくにくしげに歯をむきだしにしているようにみえる。まるで、がつがつした二匹の小さなワニみたいだ。暖炉に置いてもらえるのは、はき心地のいい、上等な靴だけなのだ。まあ、仕方ないさ。煙草をふかす小天使の靴を置く暖炉はどこにもない。まして、恒例のクリスマスツリー、イルミネーションやいろんな飾りのついた樅(もみ)の木なんて、この子には縁がない。なあに! あんな木など、買えないほうが幸せな場合だってある。なまじあると、首をつりたくなるかもしれないから……。
 私はふとわれにかえり、ひどくいまいましくなって、心ひそかに舌うちした。〈おれとしたことが、なぜこんな考えにとっつかれたんだろう! きっと、あの陰気くさいアパートを眺めたせいにちがいない〉。
 私はドメシーのかみさんが私のオフィスに来ると言ったとき、ことわらなければよかった、と後悔した。しかし、私は自分で足を運んで、依頼人の住んでいる環境をこの目でたしかめないと気がすまないのだ。ときには、それが仕事の役に立つこともある。今回も、環境については十二分にわかった。こんなところに暮らしていたら、だれだって気がめいるにきまっている。なにしろ、その団地は、屠場と野犬収容所と遺失物保管所のある四辺形の敷地のすぐ近くにあったのだ。そういう施設が公共の利益のためになることは、私も認めないわけではないが、〈フォリ・ベルジェール〉ほど愉しめるところではないこともたしかだろう……
 わたしはもう一度はっとわれにかえって、顔をしかめた。まったくもう! こんなことは私とは関係のないことじゃないか。ここでは、わたしはいわばよそものなんだ。ただ、仕事でやってきただけじゃないか。それも、たいして稼ぎになる見こみのないちっぽけな仕事だ。踊り子一人囲う足しにもならない程度しか儲からないことは、いまからわかっている。そもそも私の世話になりたいという踊り子がいるかどうか、あやしいものだが。しかし、まえにも言ったとおり、これはクリスマス近くの話で、私は、それまでにも一度ならず、ドメシーのためにサンタクロースの役をつとめてやったことがあったのだ。ポール・ドメシーというのは、その昔、浮浪者だったのを私が助けてやった男だった。
 私もまた、水色のナイロンのパンティーを見上げた。そのパンティーは、セックス・アピールたっぷりに尻ふりダンスをしているマリリン・モンローその人が、壁のあいだにかくれているように、激しく揺れていた。まるで、あたりの憂鬱な風景のなかで、そこだけに青空の片隅がひっかかって、なにかに抗議するように荒あらしくひるがえり、周囲のどうしようもない陰気くささを、一段ときわだたせているみたいだった。
 私は二人の少年のほうへ向きなおった。咳をしていた子は、もう咳きこんでいなかった。その子はすでに煙草を投げ捨てていたが、もう一人のほうは依然として煙草をふかしながら、目に皮肉っぽい光をたたえて、私を横目で見ていた。
「素敵なパンティーだろう、ね、おじさん?」少年はわけ知り顔に言った。「おじさん、あのパンティーに用があって来たのかい?」
「どうしてそんなことをきくのかね? 拝観できるのかい?」
 少年は体を左右に揺らして答えた。
「そういう噂だよ」
「しかし、たしかなことはわからないんだろう?」
 少年は口ごもった。
「それは……」
「なら、口をつぐんでろ!」
 少年は逆に大きく口をあけたが、声は出さなかった。その拍子に、口にくわえていた煙草が水たまりに落ち、ジュッと音をたてて消えた。
 私は咳をしていた少年のほうを向いた。
「きみはここに住んでいるのかね、トト? トトだか、ピエールだか、ポールだか知らないけど」
「アンリだよ、おじさん。アンリ・ラグランジ。そうだよ、おじさん、おれはここに住んでるんだ」
「ドメシーさんの奥さんを知ってるかい?」
「うん、知ってるよ」
「どの部屋に住んでるのか、教えてくれないか?」
 私はドメシーの部屋がどこにあるか知っていたが、おたがいにあまり気まずい思いをせずにすむ方法で、その子に金をめぐんでやりたかったので、そんなことを頼んだのだ。私にもらった駄賃で、あいつがゴーロワーズを買ったとしても、それはそれでいいじゃないか。自分自身で楽しい思い――といってもたかが知れているけれど――をする手だてを講じないかぎり、いい目にあう気づかいはないような子なのだ。浮浪者に金をめぐんでやっても、どうせたちまち酒代になるにきまっているといって、施(ほどこ)しをこばむ連中がいるが、私はそんなことは言わない。ときには、一杯の酒のほうが一きれのパンより必要なことだってあ る。なにごとも、時と場合によりけりなのだ。
「四階だよ、おじさん」と少年は階上を指さして言った。
 そう、ドメシーの部屋はたしかに四階にあった。窓辺にかかっている鉤針(かぎばり)編みのカーテンには、正体不明の二匹の小さな獣の模様がついていて、永遠に向き合って暮らす運命をかこっていた。その上の階の窓辺では、水色のパンティーがはためいていた。
「ありがとう、坊や」
 私は少年の手に二百フランを握らせた。
「ありがとう、おじさん」少年は小さな手で二百フラン銀貨をしっかり握りしめ、こうつけ加えた。「上まで案内してあげるよ」

……冒頭より


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