「人間ぎらい」

モリエール/鈴木豊訳

ドットブック 85KB/テキストファイル 86KB

400円

潔癖で、世の不正を憎み、いっさいの妥協を許さない青年アルセストが、美しい浮気女の未亡人セリメーヌにほれてしまう。友人のフィラントの忠告もどこへやら、「理性は恋を支配するものではない」と、にべもなく、それをはねつける。だが、結局、この恋はみのらない……モリエールの代表喜劇のひとつ。

モリエール(1622〜73)フランスの劇作家・俳優。パリ生まれ。オルレアン大学で法学士になるが、劇団を結成して俳優の道をえらぶ。破産して投獄され、その後十年あまりは旅回り役者。58年パリにもどってルイ14世の御前公演で大成功、以後数々の名作喜劇・笑劇を書き、フランス古典劇の完成者のひとりとなった。代表作「才女きどり」「タルチュフ」「ドン・ジュアン」「人間ぎらい」「守銭奴」「町人貴族」「女学者」など。

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第一幕 第一場

フィラント、アルセスト

【フィラント】 なんだっていうんだい、いったい? どうしたんだ、君は?
【アルセスト】 〔すわったまま〕頼むから、放っておいてくれ。
【フィラント】 まあとにかく話してみたまえ。君のことだから、またどんな気まぐれで……
【アルセスト】 放っておいてくれと言ってるじゃないか。君なんかとっとと消えうせろ。
【フィラント】 でもねえ、そう腹をたててばかりいないで、ひとの言うことは聞くもんだよ。
【アルセスト】 ぼくはね、ぼくは腹をたてたいんだ。ひとの言うことなんか聞きたくない。
【フィラント】 ぼくには君がそんなつまらんことに癇癪《かんしゃく》おこしているわけがわからないんだよ。それにね、ぼくらはただの友だちじゃあなし、君とぼくとはいちばん仲のよい……
【アルセスト】 〔とつぜん立ち上がって〕ぼくが君の友だちだって? 君の友人名簿から、ぼくの名前はけずってもらおうじゃあないか。なるほど今までは、君の友だちだって、公表してはきたがね。しかしだな、君のあんなやり口を見ちまったあとでは、ぼくははっきり宣言してやるぜ、もう君の友だちに名を連《つら》ねるのはごめんこうむる、ぜったいに、あんなぐうたら連中の仲間になろうなんて思わん、とね。
【フィラント】 なるほどねえ、アルセスト、君のご意見をうけたまわっていると、ぼくはたいへんな罪人ってことになるらしいね。
【アルセスト】 そうとも、君みたいなやつは、おのれを恥じて死ぬべきだろうな。あんなことをしたからにゃあ、もう弁解無用だ、それに、少しでも恥を知る男なら、だれだって、きっと眉《まゆ》をひそめて、愛想をつかすだろうぜ。ぼくが見ていたら、君はある男を握手攻めにしていたな、そればかりか、やつに向かって、この上なしというお愛想をふりまいていたな。やれはっきりお約束いたしますの、お世話いたしましょうの、お誓いしますのと並べたてたあげくのはては、おおげさな抱擁《ほうよう》だ。そのあとで、あの男はだれだっけ、と君にたずねても、ろくすっぽそいつの名前さえ言えやしない。相手と別れるととたんに、やつに対する君のお熱はさめちまって、ぼくに向かっては、あんな男は無縁の衆生《しゅじょう》だというご託宣《たくせん》だ。くそ、いまいましい! 身を落としてまでも心にもないオベンチャラを言おうなんて、見下げはてた、卑劣きわまる、恥ずべきことだと思わないかい。まかりまちがって、もしぼくがそんなことをしでかしちまったら、慚愧《ざんき》のあまりにその場を去らずに首をつってやらあ。
【フィラント】 ぼくに言わせりゃあ、べつに首をつるほどの大げさな話じゃあないと思うな。お願いだから、なんとか大目にみてくれたまえ。君のその厳格な判決も、罪一等を減じてもらって、そんなことでぼくの首になわを巻くのはごかんべん願おう。
【アルセスト】 ふざけるのもほどほどにしろよ!
【フィラント】 しかしねえ、まじめなはなし、どうすりゃあ君のお気に召すんだね?
【アルセスト】 みんながまじめにしてくれればいいんだ、それに、ジェントルマンとして、心にもないことはひとことも口にしないでいてくれりゃあいいんだ。
【フィラント】 しかしだね、ひとが機嫌《きげん》よく君を抱擁《ほうよう》しにきたら、こっちだってそれ相応に相手にこたえて、できるだけいんぎんに礼をかえし、相手がなにかサービスを、と言ってくれたら、こっちだって相手にサービスしてやり、固い約束をするって言うんなら、こちらも約束してやる、それが人間としてあたりまえじゃあないか。
【アルセスト】 流行ならなんでもとびつく君たちは、たいていのやつらが、そんな流儀をお好みらしいが、ぼくにはそんな上っつらばかりの礼儀ってやつが我慢できないんだ。ぼくは気にくわんね、大げさなジェスチァで、やれ約束だのなんだのっていう連中、心にもない抱擁ぜめでオベッカたらたらという連中、やれ洗練だの優雅だのって競いあって、役にもたたない空手形で、義理のどうのとほざきながら、地位といい教養といい、非のうちどころのない紳士も、キザなプレイボーイもいっしょくたに扱うやつら、どいつもこいつもみんな気にくわないんだ。ある男が君にお追従《ついしょう》たらたら、やれ友情だの、誠意だの、熱意だの、愛情だなんぞとさんざん誓いをたてたって、君に向かって目のさめるようなお世辞《せじ》をふりまいたからって、べつのゴキブリ野郎が現われるやいなや、そいつに向かって同じことをしたら、君にゃあなんの得にもならんじゃないか? じょうだんじゃない。少しでも自尊心のある男なら、そんな尊敬はごめんこうむるのがあたりまえだ。娼婦が客を扱うのと変わりないじゃあないか。過ぎたるは及ばざる如《ごと》しって言葉もあるくらいだ、身にあまる光栄だって、自分がどいつもこいつもいっしょくたに扱われたのがわかっちまえば、半減もいいところだよ。もともと、好みってものがあってこそ、尊敬が生まれるんだ、みそもくそもいっしょくたに尊敬しちまったら、そんなものは尊敬の名に値いしないよ。こんな現代の悪習に首まで浸っている君みたいなやつに、われらの仲間づらされてたまるもんか。ひとさまの値うちについてなんの差別も認めない連中が、大げさなオベンチャラを言ったって、ちきしょうめ、とんでもない! ぼくは聞く耳を持たないよ。そのへんのうぞうむぞうと違うところを、とっくりと見せてもらいたいな。それに、これだけははっきり言っておくがね、人類全体の友だなんて、とうていぼくの柄《がら》じゃあないよ。
【フィラント】 しかしね、社交界に出入りするからにゃあ、やっぱりしきたり《ヽヽヽヽ》ってものがあるよ、たとえ上っつらだけにしろ、なにか礼儀ってものが必要じゃないか。
【アルセスト】 いやちがうな、ぼくに言わせりゃあ、見せかけだけの友情から生まれる交際《つきあい》なんて恥ずべきもんだ、容赦《ようしゃ》なくやっつけてやるべきだよ。ぼくの望みってのは、こういうことなんだ、つまりだね、みんなが人間らしくしろってことだ、人と出会って話しをするなら、どんな時でも、心の底からでた言葉そのまま語るべきだ、ということなんだ。真心こめて話さなけりゃあいけないんだ、上っつらだけのオベンチャラを言って、自分の感情をごまかそうなんて、もってのほかだといいたいね。
【フィラント】 よくあることだが、あんまりフランクにものを言ったためにかえってみっともない思いをしたり、大目にみてもらえない場合だってあるもんだぜ。たとえ君が、一点非のうちどころのない気高い心の持主でもだ、ときには心の中で考えてることは隠しておいたほうがいいことだってあるんだよ。会うひとごとに、その連中について考えてることを洗いざらい喋《しゃべ》っちまうのが、時宜《じぎ》をえた、礼儀にかなったことといえるかねえ? いやな、気にくわない野郎に会ったり、なにかおもしろくないことがあったときに、その連中に向かって、思ったとおりそのまま言っちまってもいいもんかねえ?
【アルセスト】 もちろんそうとも。
【フィラント】 なんだって? 例のエミリ婆さんのところへいって、その年令《とし》であんまり派手につくるのは、カッコいいもんじゃないですよ、って言うつもりかい、君は? 大年増《おおどしま》のゴテゴテした厚化粧は、みんなのスキャンダルの種で、いい笑いものだって言おうっていうのかい?
【アルセスト】 きっとそのとおり言うだろうな。
【フィラント】 例のドリラスのやつには、宮廷じゃあ、やっこさんの勇ましさだの、すばらしい家柄だのっていうしつっこい自慢話にゃあ、耳にタコができてげっそりしてるって言うのかい?
【アルセスト】 言ってやるとも。

……巻頭より


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