「レ・ミゼラブル」(上・下)

ユゴー/ 斎藤正直訳

(上)エキスパンドブック  1001KB/ドットブック版 288KB/テキストファイル 269KB

(下)エキスパンドブック  1025KB/ドットブック版 286KB/テキストファイル 269KB

各1200円

日雇い労働者ジャン・ヴァルジャンは、貧しさのどん底で、ある日一片のパンを盗もうとして捕えられ、重刑を科せられる。彼は不当な刑に怒りをおぼえ2回も脱獄を企てたため19年も刑に服すことになった。ようやく釈放された彼は片田舎の町ディーニュに現われたが、宿屋は前科者と知ると泊めてもくれない。あてどなくさまよった彼は、アルプスのふもとにあるミリエル老司教の家にたどりつく。司教は、暖い部屋に招き入れ銀の食器でもてなしてくれた。だが、恩を仇で返すように、彼は司教館の銀の食器を盗んで逃げる。すぐにつかまり、彼は司教館に連れもどされたが、「それはわたしがこの人にあげたのです」と司教は言う。ジャン・ヴァルジャンは奇跡を目にしたような衝撃をうけ、寒風の吹きすさぶ野を泣きながら駆け去る……ジャン・ヴァルジャンの改心と苦闘の人生がはじまる。この主人公をめぐって、売笑婦ファンテーヌ、その子コゼット、その恋人マリユスらの人生がからみあい、おりからの激動する時代とともに数多くの人々が嵐のように渦巻き過ぎる。ユゴーの人道主義的世界観を集大成した代表作。 なお、本訳書は、物語の本筋から離れた枝葉にあたる専門的な考証や研究を刈りとり、なおかつ原文に忠実な簡略版です。

ヴィクトル・ユゴー(1802〜85) 1802年、アルプスのふもとのブザンソンに生まれた。詩人として出発したが、戯曲「エルナニ」で劇壇へ登場し、フランス・ロマン派の旗手となった。31年、長編「ノートルダム・ド・パリ」を発表。政治的には王党派からルイ・フィリップ支持へ移り、二月革命以後は共和派へ変わった。51年のナポレオン三世のクーデターに反対して国外追放となり、以後、第二帝政が崩壊する70年までフランスヘは帰らなかった。「レ・ミゼラブル」を含め「静観詩集」「海に働く人々」などの代表作は、この間に書かれた。帰国後、上院議員に選ばれたが、政治的にはあまり活躍せず、作品を書き続け、72年に発表した「九十三年」が最後の作品となった。

参考 松岡正剛の千夜千冊『レ・ミゼラブル』

立ち読みフロア
 一八一五年十月のはじめ、日没前およそ一時間ばかりの頃、徒歩で旅をしているひとりの男が、ディーニュの小さな町にはいってきた。ちょうど人家の窓や戸口にはあまり人のいない時間だったが、それでもいくらかの人々がそこにいて、一種の不安の念をおぼえながらその旅人をながめていた。おそらくこれ以上みすぼらしいふうをした旅人は、めったにみられるものではなかった。それは中背《ちゅうぜい》の幅広い頑丈《がんじょう》な、元気ざかりの男だった。四十六か七、八くらいであろう。革のひさしのたれた帽子が、陽《ひ》にやけ、風にさらされ、汗の流れている顔の一部をかくしていた。黄色がかったそまつな布のシャツは、ただ襟《えり》のひとところで銀の小さなとめ金でとめてあるきりなので、そのあいだから毛深い胸がみえていた。ネクタイはよれよれになって、紐《ひも》みたいになっている。青い綾織《あやおり》のズボンは傷《いた》んですりきれ、片ひざには穴があいている。ぼろぼろの灰色の上衣には、より糸で縫われたみどり色のラシャのつぎあてが、一方の肘《ひじ》にあたっている。背中にはいっぱい物のつまった、かたく締金《しめがね》でとめた、まだ新らしい兵隊の背嚢《はいのう》をおい、手にはふしくれだった大きな杖をもち、足には靴下もはかずに鉄鋲《てつびょう》をうった短靴をはいていた。頭は短く刈りこみ、ひげを長くはやしていた。
 汗、暑さ、徒歩の旅、ほこり、それらのものがその荒れすさんだ全体の姿に、さらになにかしら汚《きた》ならしい感じを加えていた。
 髪は短くて、逆《さか》だっていた。だが、もう大分ながいあいだ刈らなかったらしく、少しのびはじめていた。
 誰も彼を知ってる者はいなかった。明らかに通りすがりの男にすぎなかった。どこからきたのだろうか。南方から、たぶん海辺からきたのだろう。というのは、彼がディーニュにはいってきたのは、七カ月前にナポレオンが、カンヌからパリヘゆくときに通ったのと同じ道からだったから。この男は一日じゅう歩きづめだったにちがいない。ひどく疲れているようにみえた。下手《しもて》の旧市場のあたりの女たちがみたところによると、彼はガッサンディ大通りの並木の下に立ちどまって、そのはずれにある泉の水を飲んだ。ひどくのどが渇《かわ》いていたにちがいない。彼のあとをつけていった子供たちは、彼がそれからまた二百歩ばかりいって、また市場の泉のところに立ちどまって水をのむのを見た。
 彼はポワンシュヴェール街の角《かど》まできて左に曲り、市役所のほうへ足をはこんだ。彼は市役所にはいり、それから十五分ばかりして出てきた。門のそばの石のベンチに憲兵がひとり腰かけていた。旅の男は帽子をぬいで、ていねいにその憲兵に頭をさげた。だが憲兵は挨拶《あいさつ》もかえさずに、旅の男を注意深くながめ、なおしばらくうしろ姿を見送ってから市役所のなかにはいっていった。
 当時ディーニュの町にはクロワ・ド・コルバという看板の、立派な宿屋があった。そこの主人はジャカン・ラバールといって、グルノーブルでおなじようにトロワ・ドーファンという宿屋の看板をだしている、もうひとりのラバールという者の親戚だというので、町ではかなり尊敬されていた。皇帝上陸のときには、このトロワ・ドーファンの宿屋について、いろいろの風説がその地方につたえられたものである。が事実はこうである。グルノーブルにはいってきたとき、皇帝は知事の邸宅にゆくのをことわり、わたくしは知りあいの男の家にゆくのだからといって、トロワ・ドーファンの宿屋にいったということなのである。そのトロワ・ドーファンのラバールの光栄が、二十五里へだたったクロワ・ド・コルバのラバールの上にまで反映していた。町では彼のことを、グルノーブルの男の従弟だといっていた。
 旅の男はその地方で一番上等なその宿屋のほうへ歩みをむけた。そしてすぐ街路にむかってひらいてる料理場にはいった。かまど《ヽヽヽ》はみんな火が燃えており、炉《ろ》には威勢《いせい》よく焔《ほのお》がたっていた。主人は同時に料理人頭で、かまど《ヽヽヽ》やなべ《ヽヽ》を見てまわり、馭者《ぎょしゃ》たちのためにこしらえるうまい食事の監督をし、ひどくいそがしかった。馭者たちがとなりの部屋で、声高に笑ったりしゃべったりしてるのが聞えた。旅をしたことのある人は誰でも知ってるとおり、およそ馭者ほど贅沢《ぜいたく》な食事をするものはいない。ふとった兎《うさぎ》が、白鷓鴣《しゃこ》や雷鳥とならんで長い鉄串《てつぐし》にささって火の前にまわっており、かまどの上には、ローゼ湖の大きな二匹の鯉《こい》とアロス湖の一匹の鱒《ます》とが焼かれていた。
 主人は戸があいて、新らしく誰か入ってきた音をきいて、かまどから眼をはなさずにいった。
「なんのご用ですか、お客さん?」
「食事と泊《とま》りです」と男はいった。
「なに、おやすいご用です」と主人はいった。そのとき彼はふりむいて旅人の様子をじろりとながめたが、つけ加えていった。「金を払ってくだされば……」
 男はポケットから革の大きな財布をとりだして答えた。
「金は持っています」
「では承知しました」と主人はいった。
 男は財布をポケットにしまい、背嚢《はいのう》をおろしてそれを戸のそばに置き、手に杖を持ったままで火のかたわらの低い腰掛けのところにいって腰をおろした。ディーニュは山間の町で、十月になれば夜はもう寒かった。
 その間主人は、あちらこちらといったりきたりしながら、旅人から眼をはなさなかった。
「すぐに食事はできますか?」と男はいった。
「ただいますぐに」と主人はいった。
 その新来の客がこちらに背をむけて火にあたっているうちに、亭主のジャカン・ラバールはポケットから鉛筆をとりだし、窓のそばの小さなテーブルの上にちらばっていた古新聞紙のすみをひきさき、欄外の空白に一、二行ばかり文句をかき、べつに封もせず、料理場の手伝いをしてるらしい子供にわたした。亭主が耳もとにひとことささやくと、子供は市役所をさしてかけていった。
 旅人はそれらのことにはちっとも気がつかなかった。彼はもういちどたずねた。
「食事はすぐですか?」
「ただいますぐに」と亭主はいった。
 子供はもどってきた。なにかの紙きれを手に持っていた。主人は返事をまってたかのように、いそいでその紙きれをうけとってひらいた。彼は注意深く読んでるらしかったが、やがて頭をふってしばらくじっと考えこんだ。それから彼は一歩旅人のそばによった。旅人はなにか暗い思いに沈んでいるようだった。
「あなたは」と主人はいった。「お泊《と》めするわけにはいきません」
 男はなかば席から立ちあがった。
「どうして! 私が金を払わないとでも思ってるのですか。前金で払ってほしいんですか? 金は持ってるといってるじゃありませんか」
「そんなことではありません」
「じゃいったいなんです」
「あなたは金は持ってる……」
「そうです」と男はいった。
「だがわたしのところには」と主人がいった。「部屋がないのです」
「うまやでもいい」と男はいった。
「だめです」
「なぜ?」
「みんな馬でいっぱいです」
「それでは」と男はまたいった。「物置のすみっこでもいい。わらがひと束《たば》あればいい。だが、まあ、そんなことは食事をたべてからのことにしよう」
「食事もあげることはできません」
 その断乎《だんこ》たる調子に男は思わず立ちあがった。
「ええっ! 食事も! 私は腹がぺこぺこなんだ。私は夜があけてからずっと、歩きどおしなんだ。十二里も歩いてきたんだ。金は払う。なにか食わせてくれ」
「なにもありません」と主人はいった。
 男は笑いだして炉《ろ》やかまどのほうをふりむいた。
「なにもないって! じゃ、あれは?」
「あれはもう約束ずみのものです」
「だれに?」
「馭者の方たちに」
「何人いるんだい?」
「十二人」
「二十人分くらいはあるじゃないか」
「すっかり約束ずみで、みんな前金がいただいてある」
 男はふたたび腰をおろした。そしてべつに声を高めるでもなくいった。
「私は宿屋にいるのだ。腹がすいてる。ここをうごくわけにはゆかない」
 そこで主人は彼の耳もとに身をかがめて、彼をぎょっとさせたほどの調子でいった。
「出てゆきなさい」


……「第二章 失墜」より

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