「クィン氏の事件簿」(1・2)

アガサ・クリスティ/一ノ瀬直二訳

(1)ドットブック 271KB/テキストファイル 105KB

(2)ドットブック 274KB/テキストファイル 108KB

各400円

「クィン氏の事件簿」は12編からなる異色の、ファンタジーあふれる連作ミステリー短編集。初老のサタースウェイト氏が事件に直面すると、いつのまにかハーリ・クィン氏が出現して、事件の解決に力を貸してくれる。だが、クィン氏は再び忽然と姿をくらます。雑誌連載方式を断ってまで、クリスティが大事にし、一作一作を丁寧に書き上げた連作。他のクリスティ作品とは一味ちがう風味を楽しめる佳品。第1集には、「クィン氏登場」「窓にうつる影」「『鈴と道化服亭』」「空に描かれたしるし」「ある賭場係(クルピエ)の心情」「海から来た男」の6編を、第2集には、「闇からの声」「ヘレンの美貌」「死せる道化役者(ハーリクィン)」「翼の折れた小鳥」「世界の果て」「ハーリクィンの小道」の6編をおさめた。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポ ワロの登場する「スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポワロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 サタースウェイト氏は老いを感じるようになっていた。それは驚くには当たらないことである。衆目の認めるところ、彼は老人だったのだから。無頓着な若者たちは仲間の連中に、「サタースウェイトじいさんかい? おお! あの人百歳ぐらいだろう――でなけりゃ八十歳ぐらいかな」と言う。もっと心のやさしい女の子なら、「おお! サタースウェイトさん。そうよ、あの人まったくのおじいちゃんよ。もう六十にきまってるわ」などとそれでもかなり割引して言う。これはかえって情けない話だ。なぜなら彼は六十九歳なのだから。
 しかしながら、彼自身の意見によれば彼は老人ではない。六十九歳と言えば興味いや増す年頃なのだ――無限の可能性を含んでいる年なのだ――人生の経験がやっとものを言いはじめる年齢だ。だが、老いを感じること――それはまた別問題である。疲れて失望を感じる心理状態の時は、自分自身に憂鬱な質問を浴びせようとしがちにもなる。結局自分は何者だ? 小さく干からびた年寄りの男。身寄りも頼りもなく、親族関係を持たず、ただあるのは高価な美術関係の収集品だけ、それもいまではさほどの満足感を与えてはくれない。彼が生きていようが死んでしまおうが……誰も気にとめる人間などいないのだ。
 瞑想がここに至ったとき、サタースウェイト氏はギクリとしてからだをちぢめた。何と自分は不健全で無益なことを考えてるのだ。妻があったら彼女は自分を憎むかもしれない。自分も妻を憎むということさえあったろう。子供たちは絶えまない苦労の種になったかもしれない。そしてそのために費やされる時間と愛情は、彼を相当に悩ましたにちがいない。
「安全で快適」サタースウェイト氏はきっぱりと言った――それが何よりだ。
 その最後の考えに至ると、彼はその朝受け取った手紙のことを思い出した。それをポケットから引き出すと、その内容を楽しく味わいながら読み返した。そもそもそれはある公爵夫人からきたものである。サタースウェイト氏は公爵夫人たちから手紙をもらうのが大好きだ。たしかにその手紙はまず慈善事業に大口の寄付を依頼することで始まっていて、この一件がなければ書かれもしなかった手紙だったろうが、しかし感じのいい言葉で巧みに表現されていたので、サタースウェイト氏はこの第一の要件を気軽く読みとばした。
「で、あなたはリビエラを見すててしまいましたのね」と公爵夫人は書いていた。「あなたの島っていうのは一体どうなんです? 安いの? キャンノティが今年は法外な値上げをしたので、あたしはリビエラには二度と行きません。あなたのご報告によっては来年はあなたの島へ行ってみるかもしれませんわ。ただ五日間の船旅はゾッとしますわ。でもあなたの推薦する場所がいつも快適なのは確かですわ――よすぎるくらいですわ。そんなお心掛けだと、身の安楽のほかは何ひとつ考えない怠け者連中のひとりになってしまいますよ。でもね、たった一つ、あなたを救いあげるものがあるのよ、サタースウェイトさん。それはね、あなたが他人の事件に法外な興味をお持ちになるってこと……」
 サタースウェイト氏は手紙を封筒に収めながら、公爵夫人の面影が眼前にいきいきと浮かび上がるのを感じた。けちなくせに、思いがけなくびっくりするほど親切で、そして痛烈な皮肉屋、不屈な気力(スピリット)の持ち主。
 気力(スピリット)! 誰にも気力(スピリット)は必要だ。彼はもう一通、ドイツの切手のはってある手紙を取り出した――彼が興味を抱いている若い歌手からのものだ。感謝と愛情のこもったものだった。
「何とお礼を言ったらよいかわかりません。サタースウェイトさん! 二、三日中にあたくしはイゾルデを歌うことになっています。考えただけでもすばらしいことですわ……」
 彼女がイゾルデ役で初舞台を踏むのはかわいそうだ。魅力的で勉強家のこの娘オルガは、美声の持ち主だが芸術的素質を持ち合わせていない。彼は一人でハミングしてみた。「彼に命令するなかれ! 何とぞ理解してたもれ! 指図(さしず)するのはわれなり。われ、イゾルデなり」いや、あの子は持っていないな――あの気力(スピリット)を――あの確固たる意志力を――あの最後の「われ、イゾルデなり」にはそれがすべて表現されねばならんのだ。
 まあともかく、彼は誰かに何かをしてやったのだ。この島は彼を憂鬱にした――なぜだ、おお! なぜ彼はリビエラを見すててきたんだろう。あそこなら彼の知らぬものはなにもないし、誰でもが彼を知っている。ここでは、誰も彼に興味を示さない。誰一人としてサタースウェイト氏がやってくるのを見ても、あの人は公爵夫人や伯爵夫人、それに歌手や小説家などの友だちだ、などとささやかない。この島には社会的に重要な人物とか芸術家として重要な者などは一人もいない。大部分の人はただ、七年、十四年、二十一年とここで長年月暮らしたことを自慢するばかりで、またそのことだけが重く見られているにすぎぬ。
 サタースウェイト氏は深い溜息をついてホテルを出ると、家もまばらな、下方の小さな船着場のほうへ下りて行った。その道の両側には、ブーゲンビリアの花が連なって咲いていた――咲きほこる緋色(スカーレット)の目のさめるような花の群落が、彼にいっそう衰えと灰色の老年を感じさせた。
「わしも年をとったな」と彼はつぶやいた。「ほんとうに年をとった、疲れた」
 ブーゲンビリアの花の間を通りすぎて、その先に青い海の見える白い道に出ると、彼はホッとし、いくらか快活さをとりもどした。みすぼらしい犬が、道のまん中で太陽を浴びながら四つ足をつっ張って伸びをすると、大きなあくびをした。心ゆくまで長々とからだをのばして恍惚感を味わうと、今度は気持ちよさそうにからだ中をかきはじめた。やがて立ち上がってブルブルッと身ぶるいすると、世の中に何かもっと興味のある変わったものでも見当たらないかとでもいうように、あたりを見まわした。
 道ばたにごみすての窪地があった。彼はそこへ行くと楽しい期待に満ちて鼻をクンクンいわせた。確かに彼の鼻は彼を裏切らなかった! 腐敗物の甘酸っぱい香りが彼の期待に充分こたえてくれた! 彼は高まる満足感で嗅ぎまわっていたが、急に身をかわすと上向きに寝て、うまそうな屑物の上を狂おしく転げまわった。けさのひととき、世はまさにお犬さまの天国だ!
 やがて飽きたらしく立ち上がってまた道のまん中へノソノソ出てきた。そのときだ、何の警告もなくボロ自動車が角を曲がって驀進してくると、いきなり犬をまっこうから引き倒して、一顧も与えることなく走り去っていった。
 犬はよろめきながら立ち上がり、もうろうとした両眼に無言の非難をこめてサタースウェイト氏をちらっと眺めたが、やがてバッタリ倒れた。サタースウェイト氏は犬のそばへ寄ってかがみこんだ。犬は死んでいた。彼は生きることの楽しさと残酷さを思い悩みながら歩き続けた。あの犬の目に浮かんでいたものは、何と奇妙な無言の非難にみちた表情であったことか。「おお! 世界」とそれは言っているようだった。「おお! すばらしい世界よ、おれはおまえを信頼していたのに、どうしてこんな目に合わせたんだ?」
 サタースウェイト氏は歩き続けた。椰子(やし)の並木を抜け、まばらな白い家々の間を通り、溶岩が海岸までせまった場所へ出た。そこでは磯波が咆哮している。ずっと以前、有名な英国人が泳いでいて海流に流されて溺死したことがある。そこを過ぎて行くと、岩の間がプールになっていて、子供や年配の婦人たちがヒョコヒョコ浮いたり沈んだりして水浴びと称して遊び戯れる場所があった。そこから道は頂上の断崖まで曲がりくねって続いている。断崖の突端には一軒の家があり、その名もふさわしく《ラ・パアズ》と呼ばれている。白壁の家で色のあせた緑色のよろい戸が固く閉ざされている。樹木の生い茂った美しい庭。糸杉の並木の間の小径が断崖の上の平地まで続いている。その断崖から見おろすと、下に――はるか遠く下のほうに深い蒼い海が見える。
 サタースウェイト氏がめざしていたところはここであった。彼は《ラ・パアズ》の庭が非常に好きだった。彼は一度もその別荘にはいったことはなかった。それはいつも空家のように見えていた。マニュエルというスペイン人の園丁が、しわだらけの色黒の顔に微笑をうかべて派手なみぶりでおはようのあいさつをするとともに、婦人たちには花束を、紳士たちにはボタンホールのための花を一輪うやうやしく贈って、敬意を表するのがならわしだった。
 ときどきサタースウェイト氏は、この別荘の持ち主について心の中で物語を組みたててみるのだった。もっとも気に入った内容は、かつてはその美貌で世界的に名声を博したスペインのダンサーが、衰えた容色を世間の目にさらすまいと、ここに隠れている、というものだった。
 夕暮れ時、彼女が家から出て庭をそぞろ歩きする姿を思い描いてみた。彼はときどき、マニュエルに真相を問い質してみたい誘惑におそわれたが、彼はその誘惑に抵抗した。彼は自分の空想のほうを選んだのだ。
 マニュエルとあいさつを交してだいだい色のバラの蕾を丁重に受け取ると、サタースウェイト氏は糸杉の小径を通って海の見えるほうへ歩いた。そこにすわって眺めるのは実にすばらしかった――一寸先もない突端――すぐ先が垂直に海に向かって落ちている。それは彼に《トリスタンとイゾルデ》〔ワーグナー作の歌劇〕を想起させた。三幕目の始まりのトリスタンとクルヴァナールのシーン――あの寂しく船を待つ間、そしてイゾルデは海から駆けつけ、トリスタンは彼女の腕の中で死んでゆく。(だめだ、あの若いオルガではイゾルデにはなれそうもない。コーンウォールのイゾルデ、あの王家の憎悪者にして王家の恋人……)彼は身ぶるいした。彼は身にしみた、寒々とした老齢、孤独……人生からいったい何をくみとってきたのか? 何物もない――何物も。道ばたで出会ったあの犬ほどにも……
 彼が瞑想からわれに返ったのは、思いがけない音が聞こえたからだった。糸杉の小径を歩いてくる足音がたしかに聞こえたようだ。彼がはっきり人間の存在を知ったのは、英語の「チェッ」という舌打ちの声だった。
 ふり返ると、若い男が彼をにらみつけて立っていた。その男の顔には明らかに驚きと失望の表情がよみとれた。サタースウェイト氏は一目で、それが昨日着いたばかりの連中の一人で、いささか彼に興味を起こさせた人物だと気づいた。サタースウェイト氏は彼を若い男と呼んだが――たしかに、まだホテルに残留している大部分の老人連中とくらべれば、その男は若いといえた。しかし彼はおそらくもはや四十の声を聞くことはあるまい、つまりもう五十へ手が届くばかりと見えた。にもかかわらず、若い男という表現が彼にはいかにもふさわしかった――サタースウェイト氏は常日頃こういうことに関しては間違うことがなかった――彼はどことなく未熟な印象を与えた。成犬になってもどこかに子犬らしさが残っている、そんな犬がよくいるが、この見知らぬ男もそんなふうだった。
 サタースウェイト氏は考えていた。「この若造はまだ育ち切っていないようだ――完全には」
 それでいて、ピーターパン〔永遠の子供〕式子供らしさでもない。肌はつやつやして――どちらかといえば肥満型だ。彼は今までのところ物質的感覚では非常に満ち足りていて、快楽とか満足感とかいったものに不足を感じたことのない人間のように見える。彼の目は茶色で――やや丸い――灰色になりかかっている金髪――小さな口ひげ、かなりいい血色。
 サタースウェイト氏が不思議に思ったのは、この男がどういうわけでこの島へくる気になったのか、ということだった。射撃をする、狩猟をする、ポロやゴルフやテニスをする、美しい女性と恋に落ちる、そんな彼の姿を想像することは容易だ。しかしこの島では狩猟も射撃もできまいし、ゴルフとクリケット以外には競技もできない。美しい婦人、最も手近な美しい婦人と言えば、年配のミス・ババ・キングズリーぐらいのものだ。もちろん芸術家なら、自然の美しい情景に興味をそそられるだろうが、この若い男が芸術家などではないことぐらいサタースウェイト氏には確信をもって断言できる。無教養な俗物の刻印がはっきりとこの男には押されている。

……「 海から来た男」冒頭より


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