クリスティ短篇傑作集

「情婦」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

ドットブック版 143KB/テキストファイル 102KB

600円

かつてマレーネ・ディートリッヒの主演で映画化されて有名になった名編「情婦」のほか、愛すべきポワロが活躍するクリスティの珠玉の短篇「西方の星」「首相誘拐事件」「ダベンハイム氏の失踪」「クラパムの料理女」「イタリア貴族の怪死」「エジプト人墓地の冒険」を収録したハンディな1冊。誰でも親しめるポワロ入門。
立ち読みフロア
  ポワロと行動を共にした多くの冒険の中で、もっともスリルが多く劇的だったのは、メン・ハア・ラア王の墓地の発見とその開発に続いて起こった一連の怪死事件の調査だったと私は思っている。
 カーナボン伯、ジョン・ウィラード卿、およびニューヨークのブリーブナー氏によってカイロからほど遠からぬギゼエのピラミッド付近でツータンカーメンの墓が発見されてから、さらに発掘作業を進めていくうちに、思いがけなく、いくつかの埋葬室に行き当たった。この発見は非常な興味を巻き起こした。その墓は、老王国が凋落(ちょうらく)しかけた時代の第八王朝の影の薄い王たちの一人メン・ハア・ラア王のものらしかった。その時代についてはあまり知られていなかったので、この発掘は詳細にわたって新聞に報道された。
 それから間もなく起こった出来事は、国民一般の心をすっかり捕らえてしまった。というのは、ジョン・ウィラード卿が心臓麻痺で急逝した事件であった。
 煽動的な二、三の新聞は、早速、あるエジプトの宝物にまつわる不運に関する昔ながらの迷信的な物語をいろいろと書き立てる機会をつかんだ。大英博物館にある不幸なミイラについての古めかしい陳腐な物語がまたしてもむし返され、博物館側では穏やかにそれを否定したが、それにしてもその記事は例によって人気に投じた。
 それから二週間後にブリーブナー氏は急性敗血症で死に、それから数日して彼の甥(おい)はニューヨークでピストル自殺をした。メン・ハア・ラア王の呪いは今日の話題となり、遠い昔に死んでしまったエジプト人の魔法の力は崇拝の的にまで高揚される有様であった。
 死んだ考古学者の未亡人ウィラード夫人から、ケンジントン・スクエアにある同夫人の家へ訪ねてきてもらいたいという短い手紙をポワロが受け取ったのは、そうした時であった。で、私もポワロについていった。ウィラード夫人は背の高い夫人で、やせたからだを黒い喪服に包んでいた。彼女のやつれた顔が最近の悲嘆を雄弁に語っていた。
「ポワロ様、早速においで下さいまして、誠にご親切さまでございます」
「奥方様のご用を喜んで勤めさせていただきます。奥方様は何ぞ私にご相談なさりたくておいで遊ばすのでございますね?」
「私はあなた様が探偵でいらっしゃることはぞんじあげております。けれども私はあなた様を探偵としてだけでなく、ご相談申し上げたいのでございます。あなた様は世の中の経験に富んでいらっしゃると承っております。そこでお聞かせいただきたいのでございますが、ポワロ様は超自然的なことに対してどういうご見解をお持ちでいらっしゃるのでございましょうか?」
 ポワロは答える前に、ちょっとためらった。彼は考え込んでいる様子ではあったが、ついに口を開いた。
「奥方様、お互いに誤解のないようにいたしましょう。奥方様がお尋ねになっておいでになるのは、一般的なご質問ではございませんね。それは個人的に適用されるものではございませんか? 遠回しに亡くなられたご主人の死について、おっしゃっていらっしゃるのでございましょう?」
「おっしゃるとおりでございます」と夫人は肯定した。
「奥方様は私にご主人の死因調査をご希望でいらっしゃるのでございますね」
「私は新聞が書き立てておりますことがどの程度まで事実にもとづいておりますか、お確かめいただきたいのでございます。ポワロ様、三つの死は、それぞれ説明はついておりますが、一緒にして考えますと、信じがたいほど偶然の一致でございますもの! これは単なる迷信かもしれませんが、あるいはまた現代の科学では夢想もできないような方法で作用する過去の呪いかもしれません。ここに残されている事実は──三つの死でございます。私は心配なのでございます。ポワロ様、ひどく案じられてならないのでございます。これで終わりではないような気がいたしますのでございます」
「奥方様は、どのようなことをご案じになっておいでなのでございますか」
「息子のことでございます。良人(おっと)の亡くなりました知らせが参りました時、私は病床におりました。それでオックスフォード大学を卒業したばかりの息子が現地へ向かいましたのでございます。息子は遺骸を宅まで送ってまいりまして、私が頼んだり祈ったりいたしましたのにそれを振り切って、またあちらへ参ってしまいました。息子は発掘の仕事にすっかり心を奪われてしまいまして、亡き父に代わって発掘の計画を遂行するつもりなのでございます。ポワロ様は私を愚かな迷信家だと思召(おぼしめ)すでございましょうが、もしも死んだ王様の霊魂がまだ浮かばれないでいるといたしましたら? きっとこんなことを申しましたら、あなた様はばかげた話だと思召すでしょうけれど……」
「いいえ、奥方様。私もまた世界で知られる限り最も大きな力の一つである迷信の力を信じておるものでございます」とポワロは急いでいった。
 私は驚いて彼の顔を見た。私はポワロが迷信家だなどということは絶対に信を置かない。しかし彼は明らかに本気でそういっているのであった。
「奥方様が実際に要求しておいでになるのは、私がご子息様をご保護申し上げることでございましょう? 私は全力を尽くしてご子息様に害が及ばないようお護りいたします」
「はい、普通の場合はそうでございますが、なお、神秘的な作用からもお護りいただけましょうか?」
「奥方様も、中世の多くの書籍の中に凶悪な魔術の力を消す方法をいろいろご発見なさいますでしょう。恐らく昔の人たちは、科学を誇っている私ども現代人よりも、はるかに多くを知っておりましたようでございます。さて、私が何か手がかりを得ますために、事実について聞かせていただきましょう。ご主人様はずっと熱心なエジプト学者でいらっしゃいましたね。そうではございませんでしたか?」
「はい、若いころから今日に至りますまで、研究しておりました。そのほうでは現代随一の権威者でございました」
「しかしブリーブナー氏はどちらかと申すと、素人(しろうと)でいらしたように承知しておりますが」
「はい、おっしゃるとおりでございます。あの方はたいそうなお金持ちで、気が向くと何にでも手をお出しになる方でいらっしゃいました。それで主人はあの方にエジプト研究に興味をお持たせすることに成功いたしましたわけで、この度の遠征では経済的にあの方のお金がたいそう役立ちましたのでございます」
「ではブリーブナー氏の甥の方はいかがでしたでございましょうか。どのような趣味でおられたかご存じでいらっしゃいますか。この発掘隊に関係しておいでだったのでしょうか」
「私はそうは思いません。実はあの方の亡くなられたことを新聞で読むまでは、甥御様がいらしたことさえぞんじませんでしたぐらいでございます。ブリーブナー様とその甥御様とはお親しい仲でいらっしたとは考えられません。あの方は一度だってお身内の方々のお話をなすったことがございませんでしたもの」
「その他の隊員の方々はどなたでしたか」
「さようでございますね。トスウイル博士、この方は大英博物館に関係していらっしゃる職員で、シュナイダー氏はニューヨークのメトロポリタン博物館員、それから若いアメリカ人の秘書、それからエイムス博士、この方はこのほうの専門家として加わっていらっしゃいました。それに私の良人に忠実に仕えておりました、土人のハッサンでございます」
「アメリカ人の秘書の名をご記憶でいらっしゃいましょうか?」
「ハーパーと申したようにぞんじますが、確かではございません。たいそう長いことでブリーブナー氏の秘書をしておりましたようでございます。たいへん快活な青年でございました」
「どうもありがとうございました」
「他に何か……」
「ただ今のところ何もございません。万事私にお任せおき下さいまし。人力の及ぶ限りご子息様をお護り申し上げますから、ご安心下さい」
 これはあまり安心のいく言葉ではなかった。私はウィラード夫人がその言いぐさを聞いて、眉をひそめたのに気がついた。それにしてもポワロが夫人の恐怖を一笑に付してしまわなかった事実が、夫人に慰めを与えたらしかった。
 私としては、今までポワロの性格にそれほど迷信的な素質があるとは思いもよらぬことであった。私は帰宅の途中で、その問題で彼と渡り合った。彼の態度はまじめで真剣であった。
「しかし君、私はこういうようなことを信じておりますよ。ヘイスティングス君、君も迷信の力を見くびらないほうがよろしいと思いますね」
「で、僕らはこの件について、これからどうするんですか」
「ヘイスティングス君は、常に現実的ですね。よろしい、ではまず手はじめにニューヨークへ打電して、ブリーブナー氏の甥の死について、もっと詳しい情報を得ることです」


……「エジプト人墓地の冒険」より

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