「白鯨(下)」

メルヴィル作・高村勝治訳

エキスパンドブック 635KB/ドットブック版 368KB/テキストファイル 321KB

600円

男の世界を描いて、19世紀最大のアメリカの小説家といわれるメルヴィルの代表作。まぼろしの鯨を追う船長エイハブは、ついにその姿を発見する。高村勝治氏の新たな改訳でおくる。
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 「やれやれ!」スタッブがどなった。「甲板の、このすげえ速さが、足を這(は)いあがって、心臓をくすぐらあな。船とおれとは勇敢な仲間さ! ハ、ハ! だれかおれを抱きあげて、あお向けに海に放りこんでみろよ! 生きた樫(かし)の木にかけて、おれの背骨は竜骨なんだ。ハ、ハ! おれたちゃ、あとに塵(ちり)ひとつ残さねえ道を行くんだ!」
 「汐吹いてるぞ ……汐吹いてるぞ!  汐吹いてるぞ! まっ正面だ!」檣頭(しょうとう)から叫び声がした。
 「よし、よし!」スタッブがどなった。「わかっていたよ……逃げられやしないさ……どんどん吹けよ、裂けるまで吹け、よお、鯨! 気ちがいの悪魔様が追いかけてるからな! ラッパを吹け……肺も裂けんばかりにな! 水車の番人が河の水を水門でせきとめるみてえに、エイハブがお前の血をせきとめてくれるだろうよ!」

 スタッブは、水夫全員の考えていることを代弁していたといってもよかろう。この時までに、狂気の追跡は、まるで、もういちど絞りだされる古葡萄(ぶどう)酒みたいに、泡立つほどにみんなを興奮させていたのだった。彼らの中には、かすかな恐れや虫の知らせを感じていた者もいたろう。だが、そんなものは、エイハブに対する畏敬(いけい)の念のために姿を消してしまったばかりでなく、まるでおどりあがる野牛の前に逃げまどう臆病な平原の兎(うさぎ)のようにちりぢりにされ、四方に追いだされてしまっていた。「運命」の手がみんなの魂をひっつかんでいた。前日の身の毛もよだつような危険、前夜の不安の拷問、逃げていく標的めがけて飛びこむ狂暴な船の不変の恐れを知らぬ盲目的で向こうみずなやり方……これらのすべてのことによって、彼らの心がするするとすべりだしていたのだ。風が船の帆を大きくふくらませ、抗しがたい目に見えぬ手によって船を突進させたが、この風は彼らをこの追跡のとりこにしてしまった見えない力の象徴に思われた。

……《第134章 追跡―第二日》より


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