「木綿以前の事」

柳田国男著

ドットブック版 534KB/テキストファイル 205KB

600円

ごわごわした麻と異なり、木綿のふくよかな肌ざわり、多彩な色彩は人々の生活感覚を大きく変化させた。それは身ごなしにまで影響を与えた……この「木綿以前の事」からはじまって、著者は「団子と昔話」あるいは「家の光」「女と煙草」「酒の飲みようの変遷」「遊行女婦のこと」など食住から恋の話題まで、おもに女性が深くたずさわってきた事柄を中心に、民衆生活の歴史をさぐる。その手がかりとなったのは、従来等閑に付されてきた俳諧歌仙であった。ユニークな生活史読本。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。

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 木綿がわれわれの生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前の、いわゆるメリンスなどよりも、はるかに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、特に一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移してゆくのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布よりほかに、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行してきて珍しいというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠(ものどお)く、かつあまりにも滑らかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿のほうが優っていた。第二にはいろいろの染めが容易なこと、これは今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿もわれわれの好みしだいに、どんな派手な色模様にでも染まった。
 そうしていよいよ棉種(わただね)の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりもはるかに簡単で、わずかの変更をもってこれを家々の手機(てばた)で織り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹くころには、急に月夜が美しくなったような気がした。麻糸に関係ある二千年来のいろいろの家具が不用になって、後にはその名前までが忘れられ、そうして村里には染屋が増加し、家々には縞帳(しまちょう)と名づけて、競うて珍しい縞柄の見本を集め、機(はた)に携わる人たちの趣味と技芸とが、わずかな間に著しく進んできたのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地をいろいろに染めて悦んで着た時代が、こうしてやや久しくつづいていたらしいのである。

 色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変わったことと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪廓は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。その上に袷の重ね着がおいおいとなくなって、中綿(なかわた)がたっぷりと入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味ができてくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前よりは明らかに外に現われた。ただ夏ばかりは単衣(ひとえ)の糊を強くし、あるいは打盤(うちばん)で打ちならして、わずかに昔の麻の着物の心持ちを遺(のこ)していたのだが、それもこのごろは次第におろそかになってゆくようである、われわれの保守主義などは、いわばただ五、七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。そんな事をしている間に、以前の麻の、すぐな突っ張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる撫で肩と柳腰とが、今ではいたって普通のものになってしまったのである。
 それよりもさらに隠れた変動が、われわれの内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚(はだ)を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわちわれわれには裸形の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よってきて各人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間にこまやかになってきたことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていたわれわれにも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。

……「木綿以前の事」より


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