「モンテ・クリスト伯(2)」

アレクサンドル・デュマ作/泉田武二訳

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700円

 ダンテスはスパダの秘宝を手にいれる。神父の話は嘘ではなかった。次に取りかかるべきは、自分をおとしいれた陰謀の全容を知ることだ。彼は司祭に化けて、昔の隣人の元仕立屋で今は落ちぶれた宿屋を営むカドルッスのもとを訪れる。そしてもとマルセーユの検事代理、今はパリの検事総長ヴィルフォールこそが保身から手紙を抹殺し、同時にダンテスを獄中に幽閉した張本人であることを知る。いっぽう、同じく陰謀の首謀者ダングラールはスペインで一財産こしらえ銀行家の娘と結婚、今は男爵となってパリに住んでいた。さらにメルセデスの従兄でカタロニアの貧しい漁師フェルナンはメルセデスと結婚。王党派の軍人として手柄を立てて今はモルセール伯爵だ。ダンテスは「船乗りシンドバッド」と名乗ってまずモレル商会の窮状を救ったあと、復讐の誓いを新たにする。
 そんなとき、ローマに旅行中の二人の青年を知る。そのうちの一人アルベールはモルセール伯爵の一人息子だった。モンテ・クリスト伯と名乗るダンテスは巧みに二人を籠絡し、ついにパリでの再会を約す。

第二巻 目次

二十四 眩惑
二十五 見知らぬ男
二十六 ポン・デュ・ガール亭
二十七 物語
二十八 収監簿
二十九 モレル商会
三十  九月五日
三十一 イタリア――船乗りシンドバッド
三十二 めざめ
三十三 ローマの山賊
三十四 出現
三十五 撲殺刑
三十六 ローマのカーニヴァル
三十七 サン=セバスチアーノのカタコンブ
三十八 再会の約束
三十九 招待客
四十  午餐
四十一 紹介
四十二 ベルトゥチオ
四十三 オートゥイユの家
四十四 復讐
四十五 血の雨

 

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 フランツが正気にもどったときアルベールは水を飲んでいた。その顔の蒼さが、水を飲まずにはいられなかったことを示していた。伯爵はすでに道化の衣装に袖を通していた。フランツは機械的に広場に目を向けた。処刑台も死刑執行人も殺された者も、すべてが姿を消していた。ただあるものは、騒がしく、せわしない、喜びにあふれた群衆の姿だけであった。法王の死とカーニヴァルの仮装行列の開始を告げるときにしか鳴らぬチトリオの丘の鐘が、高らかに鳴り響いていた。
「どうなったんですか」彼は伯爵に訊ねた。
「べつに、ごらんの通りなにも起きてませんよ。カーニヴァルが始まっただけです。早く着替えましょう」
「ほんとうに」フランツは答えた。「あの恐ろしい光景は夢としか思えませんね」
「あれは夢だったからですよ。あなたは悪い夢をご覧になっただけだ」
「ええ、僕はね。でも、処刑された男には」
「それも夢です。ただあの男は眠り続けているが、あなたのほうは目が覚めた。ですが、どっちが幸せか、これは誰にもわからんでしょう」
「でも、ペッピーノは、彼はどうなりました」
「ペッピーノは頭のいいやつです。自惚(うぬぼ)れなどみじんもなくて、人はふつう自分のことにかまってくれないと怒るものですが、それとはまるで逆でね、皆の注意が仲間のほうに向けられているのを見て大喜びでした。だから、あれは皆がもう一人のほうにばかり気を取られているのを幸い、群衆にまぎれこんで、姿を消してしまいました。つき添っていてくれたありがたいお坊さんたちに礼も言わずにね。まったく人間というやつはとんでもない利己的な恩知らずのけだものですよ……ところで着替えをどうぞ。ほらモルセールさんがお手本を見せてますよ」
 事実アルベールは、自分の黒のズボンとエナメルのブーツの上に、機械的なしぐさで、タフタのズボンをはいているところだった。
「ねえ、アルベール」フランツは訊ねた。「馬鹿騒ぎできるかい、正直に言ってくれないか」
「いや、とても。だがね、あんなものを見たんで今はむしろ安心しているのさ。伯爵が言ったことがわかったんだよ。一度あんなものに馴れてしまえば、ああいうものに驚かなくなるってことがね」
「人間の性格を見きわめることができるのは、あの瞬間だけだ、ということもおわかりでしょう」伯爵が言った。「処刑台の最初の段に足をかけたとき、死が、その人間が生涯かぶり続けてきた仮面を剥ぐのです。そして素顔が現われる。もっともアンドレアの素顔はあまり見よいものじゃありませんでしたが。まったくおぞましい悪党だ!……さ、着替えましょう、お二人とも」
 すねた女のように、つれの二人の手本に従わぬのは、フランツにはむしろ滑稽に思えた。だから彼は、自分も仮装の衣装に袖を通し、白い仮面に劣らず蒼白な顔に仮面をつけた。
 仮装ができ上ると、三人は階下(した)へ降りて行った。戸口の所にコンフェッティと花束をいっぱい積みこんだ馬車が待っていた。
 馬車は行列に加わった。
 今行なわれたばかりのもの以上に対照的なものを思い描くことは困難である。あの陰惨で静まりかえった死の光景とはうって変わって、ポポロ広場は、騒々しい気違いじみたどんちゃん騒ぎのるつぼ(・・・)と化しているのであった。仮面をつけた群衆が、戸口という戸口から外へ出、窓という窓をつたい降りて、四方八方からあふれ出て来た。町の辻々から、ピエロ、道化(アルルカン)、ドミノ、侯爵、テヴェレ右岸の百姓、グロテスクな化け物、騎士、農夫といった思い思いの扮装をこらした連中の乗った馬車が大通りへどっとくり出した。みな口々にわめきちらし、身ぶり手まねし、粉をつめた卵やコンフェッティや花束を投げている。親しい者も赤の他人も、知人も見知らぬ人も、互いに言葉とつぶてで攻撃し合う。腹をたてることは許されず、なんぴともただ笑いとばしてしまわねばならない。
 フランツもアルベールも、激しい心の痛みをいやすには、乱痴気騒ぎの中に引っぱり出してやれば、飲むほどに酔うほどに過去と現在をへだてるヴェールが次第に厚くなってくるのを感ずる男といった具合であった。相変わらず、というより、ずっと彼らは、今しがた目にした光景の残映を追い続けていた。しかし、徐々に群衆の陶酔が彼らにもうつってきた。あやふやな理性が自分たちから離れて行くように思えた。二人とも、この喧騒、雑踏、逆上に自分たちも加わりたいというおかしな気分になっているのを感じていた。隣りの馬車からモルセールめがけて投げつけられた一握りのコンフェッティが、つれの二人もろとも彼を粉まみれにし、まるで百本もの針を投げつけたように、彼の首と仮面から出ている顔の部分につきささった。これが、出会う仮面同士がみなすでに開始していたつぶて合戦にモルセールを巻きこむ結果となった。アルベールは馬車の上に立ち上がった。彼は袋の中から両手いっぱいにすくい取ると、力いっぱい、見事な腕の冴えを見せて隣りの連中に卵と砂糖菓子を投げつけた。

……三十六 「ローマのカーニヴァル」冒頭部分


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