「モンテ・クリスト伯(3)」

アレクサンドル・デュマ作/泉田武二訳

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700円

モンテ・クリスト伯はまんまとパリの社交界に地歩を固める。シャン=ゼリゼーに邸宅を購入し、郊外のオートゥイユには別荘をかまえる。その別荘こそは検事総長ヴィルフォールの暗い過去を宿した場所であった。モンテ・クリストはアルベールを通じて父親のモルセールと、そして母親のメルセデスと顔をあわせる。ダングラールには金の力にものをいわせて無制限貸付の口座をその銀行に開かせる。そしてその夫人を通じてヴィルフォールの現在の妻と知り合いになり、やがてヴィルフォール本人と顔をあわせる。モンテ・クリストはオートゥイユの別荘に一同を招待するのだった……一歩一歩着実に復讐劇は進行していく。

第三巻 目次

四十六 無制限貸付
四十七 連銭葦毛(れんせんあしげ)
四十八 イデオロギー
四十九 エデ
五十   モレル家の人々
五十一 ピラムスとチスベ
五十二 毒物学
五十三 魔王ロべール〔マイエルベールの歌劇の題名〕
五十四 暴騰暴落
五十五 カヴァルカンティ少佐
五十六 アンドレア・カヴァルカンティ
五十七 ムラサキウマゴヤシの畑
五十八 ノワルチエ・ド・ヴィルフォール
五十九 遺書
六十   信号機
六十一 ヤマネズミに桃をかじられる園芸家の悩みの解決法
六十二 亡霊
六十三 晩餐
六十四 乞食
六十五 夫婦喧嘩
六十六 縁組
六十七 検事の部屋
六十八 夏の舞踏会
六十九 調査

立ち読みフロア

 食堂へ移るとき、客の誰もが同じ思いにかられていたのは明らかであった。自分たちをこの家に引き寄せたのは、いかなる奇怪な力によるものかとわが身に問いかけていたのだ。しかし、ここへ来てしまったことに、どれほどの驚き、いや、ひどい不安すら感じた者も、来なければよかったとは思っていなかった。
 しかし、伯爵とのつきあいの日の浅いこと、常のものとは変わったその孤独な境遇、誰も実体を知らない夢のような財産のことを思えば、男たちは警戒心を起こして然るべきであったし、女たちは、客を迎える女性のいないこの家に足を踏み入れてはならぬと考えるべきだった。だが、男たちは警戒心を、女たちは社会のしきたりをそれぞれなおざりにしてしまった。抗しがたい力で胸をえぐる好奇心がすべてに優越したのである。
 カヴァルカンティ父子に至るまで、一方はこちこちになり、一方はうきうきしていたけれども、誰一人として、どういう目的を持っているのか理解できないこの男の家に、自分たちが初対面の相手と一緒にいることに、奇異な感じを抱いているようには見えなかった。
 ダングラール夫人は、モンテ・クリストに言われたヴィルフォールが、自分に腕を貸すために近づいて来たとき、びくっと身体を動かした。ヴィルフォールは、男爵夫人の腕が自分の腕にのせられるのを感じたとき、金縁の眼鏡の下の自分の目が動揺するのを意識した。
 この二つの動きの、そのいずれをも伯爵は見逃さなかった。こうしてただちょっと二人の人間を触れ合わせてみるだけでも、この観察者にとっては、きわめておもしろい眺めだったのである。
 ヴィルフォールの右がダングラール夫人、左がモレルの席であった。
 伯爵はヴィルフォール夫人とダングラールの間に腰をおろした。その間の席は、カヴァルカンティ父子にはさまれたドブレと、ヴィルフォール夫人とモレルにはさまれたシャトー=ルノーによって埋められた。
 食事は豪華なものであった。モンテ・クリストは努めてパリ流の調和を完全にくつがえした。客の食欲を満足させるよりは、好奇心を満足させる料理を出そうとした。出されたのは東洋風の食事であった。ただし、アラビアの仙女たちの食事もかくやと思われる類いの東洋風の料理であった。
 ヨーロッパの豊作角(コルヌコーピア)〔果物や花を一杯につめた角。豊作の象徴〕を満たすため、無きずのまま世界各地からやって来る美味なあらゆる果物が、中国の鉢や日本の皿にピラミッド型に盛られている。見事に輝く羽毛をつけた珍しい鳥、銀盆に横たえられた奇怪な形の魚、エーゲ海、小アジア、希望峰の、奇妙な形をしたびんに入った、それを見れば味わいをいっそう増すように思える酒の数々。これらのものが、アピキウス〔ローマの有名な美食家〕がその客たちと共に眺めた珍味の行列のように、パリジャンたちの前に並んでいるのであった。客たちは、たった十人の晩餐でも、千ルイ〔一ルイは二十フラン〕かかることもあり得るのだと思うのだった。ただし、クレオパトラのように真珠を食べたり、ロレンツォ・ディ・メジチのように金を溶かして飲んだりすればの話だが。
 モンテ・クリストは皆が驚いているのを見ると笑い出し、あからさまにからかい始めた。
「皆さん、これはお認め願えると思うのですが、富もある段階に達してしまうと、それ以上必要なものは、なくもがなのものしかありません。これはご婦人方もお認めいただけるでしょうが、感激もある段階にまで達してしまうと、あとはもう、確実に感じられるのは理想だけしかないのと同じではないでしょうか。ところで、この論をおし進めて行くと、驚異とは何でしょう。われわれが理解できぬものです。真に望ましい富とは何でしょう。われわれが手にすることのできぬ富です。さて、私が見ることのできないものを見、手に入れることのできないものを手に入れる、これが私の人生の課題なのです。私は二つの手段、つまり金と意志の力とによって、これを解決しています。私はなにか一つの気まぐれを起こすと、たとえばあなた、ダングラールさん、あなたが鉄道の新線をお作りになったり、ヴィルフォールさん、あなたが一人の男を死刑に処したり、ドブレさん、あなたがある王国に平和をもたらしたり、シャトー=ルノーさん、あなたがご婦人のご機嫌をとり結んだり、それからモレルさん、あなたが誰にも乗れない馬を乗りこなしたりするときと、まったく同じだけの忍耐心を発揮してその実現をはかるのです。ですから、たとえばこの二匹の魚をご覧下さい。一匹はペテルスブルグから五十里の所、もう一匹はナポリから五里の所でとれたものです。そんな二匹をこうして同じ食卓に並べてみるのも一興ではありませんか」
「で、何という魚なんですか」ダングラールが訊ねた。
「ロシアに住んだことのあるシャトー=ルノーさんがおられますから、シャト=ルノーさんが一匹の名前は教えて下さるでしょう。それから、イタリア人のカヴァルカンティ少佐がもう一匹の名前を」
「これは、コチョウザメと思います」シャトー=ルノーは言った。
「その通りです」
「それからそれは、ヤツメウナギではないでしょうか」カヴァルカンティが言った。
「まさにそうですよ。今度はダングラールさん、お二人に、この魚がどこでとれるかお訊(き)きになってごらんなさい」
「コチョウザメはヴォルガ河でしかとれません」シャトー=ルノーが言う。
「こんな大きさのヤツメウナギがとれる所は、私はフザロ湖しか知りません」カヴァルカンティが言う。
「まさに一方はヴォルガ河から、もう一方はフザロ湖から来ました」
「そんなことはできるはずがない」客がみな異口同音に叫んだ。
「ところが、それこそ私を楽しませるものなのです。私はネロと同じで、『不可能ヲ望ム者』なのです。それに、あなた方をも楽しませるものですよ。おそらくその魚の肉は、実際にはスズキやサケほどうまくはないでしょうが、それがすばらしくおいしいと感じてしまわれるでしょう。あなた方は手に入れることなどできないとお思いなのに、それがここにあるからです」
「それにしても、どうやってパリまでこの二匹を運んだのですか」
「なあに、いとも簡単なことです。二匹をそれぞれ大きな樽に入れて運んだのです。一方の樽にはヴォルガ河のアシや草を入れ、もう一方の樽にはフザロ湖の水草やイグサを入れましてね。特製の貨車にのせました。そのため、コチョウザメは十二日、ヤツメウナギは八日間生きていました。私の料理番がコチョウザメを牛乳、ヤツメウナギをブドー酒にひたして殺すまで、両方とも完全に生きていました。信用できませんかな、ダングラールさん」
「少なくとも疑いは残りますな」ダングラールはその野卑な笑いを浮かべながら答えた。
「バチスタン」モンテ・クリストが言った。「もう一匹のコチョウザメとヤツメウナギを持って来なさい。わかってるね、別の樽の、まだ生きているのを」
 ダングラールは目をみはった。客たちは手を叩いた。
 四人の召使いが、海草の入った二つの樽を運んで来た。そのおのおのに、食卓に供せられたのと同じ魚が入っていて、ぴちぴちしていた。
「なぜ二匹ずつ取り寄せたのですか」
「片方が死ぬかもしれないからです」モンテ・クリストが無造作に答えた。
「まったくあなたは途方もない方ですな。哲学者がなんと言おうと、金があるということはすばらしいことですよ」
「そういうことを思いつくというのがとくにすばらしいわ」ダングラール夫人が言った。
「いえ、これを思いついたのは私の手柄ではありません。ローマ人たちの間ですでに、大へんほめそやされていた思いつきなのです。プリニウス〔ローマの著述家〕が語っているところによると、奴隷たちにリレー式に、頭にのせた魚をオスティアからローマまで運ばせたということです。この魚は、プリニウスは『ムルス』と呼んでいますが、彼が書いた挿絵を見ると、どうやらタイではないかと思われます。生きたままのタイを手に入れるというのがまたぜいたく(・・・・)なのであり、これが死ぬところを見るのがおもしろい眺めだったのです。というのは、死ぬ際に三、四回色が変わり、消えて行く虹のように、プリズムの七色の色合いを次々にたどったのです。その後で調理室にまわされました。その死ぬ真際の姿に価値の一部があったのです。生きているところを見られないのでは、死んでしまったものなど軽蔑されました」

……六十三 「晩餐冒頭部分


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