「モンテ・クリスト伯(4)」

アレクサンドル・デュマ作/泉田武二訳

ドットブック 754KB /テキストファイル 229KB

700円

ヴィルフォールの後妻エロイーズは実子エドゥワールを溺愛して先妻の娘ヴァランチーヌに冷たい。ヴァランチーヌは元ボナパルティストで今は全身不随の祖父ノワルティエに献身的な愛情をそそぎ、両親の決めた婚約者フランツがあるにもかかわらず、マクシミリアンと相愛の仲になっている。そんななか、ヴィルフォール家には次々と変事が起こる。先妻の両親サン=メラン侯爵夫妻はあいついで変死をとげ、家全体にふりかかるいまわしい魔手にヴィルフォールはおおのく。一方、モルセールはかつてフランス士官としてジャニナのアリ・パシャに仕えてギリシアにあったとき、アリを裏切って財産を蓄えた過去を暴かれる。息子アルベールはその風説の出所がモンテ・クリストであることを突き止めて決闘を申し込むが……息子と妻メルセデスにも背を向けられ、追いつめられたモルセールは銃弾をおのれの頭にぶちこむ。復讐劇はテンポを速めてクライマックスへ。

第四巻 目次

七十   舞踏会
七十一 パンと塩
七十二 サン=メラン侯爵夫人
七十三 約束
七十四 ヴィルフォール家の墓
七十五 要録
七十六 アンドレア地歩を進める
七十七 エデ
七十八 ヤニナからの通信によれば
七十九 レモネード
八十   告発
八十一 パン屋の隠居の部屋
八十二 押込み
八十三 神の御手(みて)
八十四 ボーシャン
八十五 旅
八十六 審判
八十七 決闘の申し込み
八十八 侮辱
八十九 夜
九十   決闘
九十一 母と子
九十二 自殺

立ち読みフロア

 ヴィルフォールの邸では、悲痛な場面がくりひろげられていた。
 ヴィルフォール夫人がいくら執拗にすすめても夫に同行する決意をさせることのできなかった舞踏会に、夫人と娘とがでかけた後、検事はいつものように書類の山とともに書斎に閉じこもった。余人であればうんざりしてしまうようなその書類の山も、これがふだんの日であれば彼の旺盛な仕事への欲を満足させるにはむしろ足りないぐらいであった。
 が、今日は、書類は見せかけだけの道具にすぎなかった。ヴィルフォールが書斎にこもったのは仕事をするためではなく、考えるためであった。ドアを閉め、重要な用事以外は仕事の邪魔をせぬように命ずると、肘掛椅子に腰をおろし、ここ一週間ほどの間に起きた、彼の暗い懊悩と苦い追憶の盃から溢れ出ているものを、一つ一つ記憶をたどってみるのだった。
 目の前に山と積まれている書類には手をつけずに、彼は机の引出しを開け、秘密の仕掛けを動かして、個人的なメモの束を取り出した。彼の政治的生涯、金銭問題、法廷での追及、あるいは秘められた情事において彼の敵となった者全員の名前が彼だけにしかわからない番号を付して整理されている貴重なメモである。
 その数は今では膨大(ぼうだい)なものになっており、見ればぞっとするほどであった。しかし、そこにある名前が、たとえどれほど権力を持ち恐るべきものであっても、彼はそれを見てなん回となく微笑を浮かべたものであった。それはあたかも、山頂に立つアルピニストが足下に、そこに到達するまでにあれほどの時間をかけ苦労してよじのぼった、鋭い断崖、とうてい登ることのできぬルート、両側が絶壁の痩せ尾根を見下ろすときに浮かべる微笑であった。
 これらの名前のすべてを、もう一度記憶の底にたどり、そのリストを繰り返し読み、吟味し、あれこれ考えてみた末に、彼は首を振った。
「違う」彼はつぶやくのだった。「これらの敵の誰一人として、あの秘密によってこの俺を叩きのめすために、今日のこの日まで忍耐強く苦しい思いに耐えていたなどということはあり得ない。時には、ハムレットが言ったように、地の奥底深く埋められたものの音が、地中から洩れ出て来て、燐光のように、空中を狂ったように走ることもある。しかしこれは、一瞬目をくらますだけの仄光(そくこう)にすぎない。あのコルシカ人があの話をどこかの司祭に話し、その僧が誰かに話したのだ。それをモンテ・クリストが知ったのだろう。そしてモンテ・クリストはその真相を知ろうとして……」
「だが、真相を知ったとて何になるのだ?」一瞬考えた後にヴィルフォールはまたつぶやいた。「モンテ・クリスト、マルタの船造りの子で、テッサリアの銀山を掘っている、フランスヘ初めてやって来たザッコーネにとって、こんな役にもたたない暗い秘密を知ったとて、いったいどんな利益があるというのだ。あのブゾニ神父、あのウィルモア卿、この友と敵との二人から得た情報は支離滅裂ではあるが、ただ一つだけ明確で、俺の目にははっきりしていることがある。それは、いついかなる時期にも、いかなる場面でも、いかなる状況のもとでも、俺と奴との間にはまったくつながりがないということだ」
 ヴィルフォールはこうつぶやいたが、この言葉を、彼は自分でも信じてはいなかった。彼にとって最も恐ろしいのは秘密が暴露されることではなかった。というのは、彼は否認し、反論することさえできたからだ。忽然(こつぜん)として壁に血で書かれた、あの『数(カゾ)エタリ、秤(ハカ)レリ、分(ワカ)レタリ』〔旧約聖書ダニエル書第五章にある不吉な予告〕の文字そのものはさほど気にしなかった。彼の心を不安にしたのは、その文字を書いた手が、いったい何者の手なのかということであった。

……七十二 「サン=メラン侯爵夫人」冒頭部分


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***