「モンテ・クリスト伯(5)」

アレクサンドル・デュマ作/泉田武二訳

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700円

「モンテ・クリスト伯」最終巻。復讐を果たすべき残りの二人、検事総長ヴィルフォールと銀行家のダングラールに、モンテ・クリスト伯の周到に用意された執拗な追求をのがれるすべはなかった。ヴィルフォールは自分の家にふりかかる魔手が娘のヴァランチーヌにまで及んだのを機に、その原因が妻エロイーズであることをついに知る。彼は仮借ない「死刑」の判決を妻に突きつける。だが、威信をかけたベネデットに対する告発は、裁判所というおおやけの場で暗転、ヴィルフォールはかつてないスキャンダルを暴露される。うちひしがれて家に戻った彼を待っていたのは、最愛の子エドゥワールを道連れにした妻の亡骸であった。ヴィルフォールは精神の錯乱をきたす。モンテ・クリストは罪なき幼い者をも罰したことに自責をおぼえ、彼の手中におちて餓死寸前の状態にあったダングラールにはそれ以上の復讐を思いとどまる。彼は若いヴァランチーヌとマクシミリヤンの幸多い未来を祝福し、「待て、希望を捨てるな!」の言葉を残してエデとともに船で去っていく。

第五巻 目次

九十三 ヴァランチーヌ
九十四 告白
九十五 父と娘
九十六 結婚契約
九十七 ベルギー街道
九十八 ホテル『鐘とびん』
九十九 法律
百    亡霊
百一   ロクスタ
百二  ヴァランチーヌ
百三  マクシミリヤン
百四  ダングラールの署名
百五  ペール=ラシェーズの墓地
百六  分配
百七  獅子の檻(おり)
百八  裁判官
百九  重罪裁判
百十  起訴状
百十一 罪のつぐない
百十三 過去
百十四 ぺッピーノ
百十五 ルイジ・ヴァンパの献立表
百十六 免罪
百十七 十月五日

解説

立ち読みフロア
 しーんと静まりかえった中で、判事たちが席に着いた。陪審員たちもそれぞれに席を占めた。注目の的、いや全員の讃嘆の的とさえ言えるヴィルフォールは、帽子をかぶったまま、肘掛椅子に腰をおろし、落ち着き払った目であたりを見渡していた。
 父親としての悲しみも少しもその平静さを失わせてはいないらしい冷厳な顔つきを、皆が皆驚嘆の目で見ていた。そして、人間的な感情などとはおよそ無縁なこの男を、一種恐怖の心でみつめていた。
「憲兵、被告を入廷させよ」裁判長が言った。
 この言葉に、傍聴人の関心はますます高まり、皆の目は一様に、ベネデットが入って来るはずのドアに吸いつけられた。
 やがてそのドアが開き、被告が入って来た。
 すべての者が同じ印象を抱いた。被告の表情を読み違えた者は一人もいなかった。彼の顔には、どの被告の血液をも心臓に押し戻し、額と頬の血の気を失わせさせる、あの激しい心の動揺の痕跡すらなかった。片方を帽子の上におき、もう一方を白いピケのチョッキの前あきに優雅に入れている彼の両手も、まったくふるえてなどいなかった。その目も落ち着いており、輝いてさえいた。法廷に入ると、この青年の視線は、居並ぶ判事たちや列席者たちをながめ廻し、裁判長と、そしてとくに検事の上により長い時間とどまっていた。
 アンドレアのかたわらに、彼の弁護人が位置を占めた。官選弁護人である(というのは、アンドレアは自分から弁護人を依頼する気などまったくなく、そんなことには少しも重きをおいていなかったからである)。色褪せたブロンドの若い男で、当の被告よりも百倍も緊張しているために顔を紅潮させていた。
 裁判長が起訴状の朗読を求めた。ご承知のように、ヴィルフォールの、あの老練な仮借なき筆で認(したた)められた起訴状である。
 ほかの被告であればうちのめされたにちがいないこの長い朗読の間、皆の目はアンドレアに注がれたまま一瞬の間も離れなかった。アンドレアはその重みを、剛毅をもって知られるあのスパルタ人のごとくに平然と耐えていた。
 おそらく、ヴィルフォールがこれほど明晰かつ雄弁であったためしはなかった。犯罪は色鮮やかに描き出された。被告の経歴、その変貌ぶり、かなり幼ない頃からの彼の行跡の因果関係が、検事ほどの優秀な頭脳に人生経験と人間の心についての知識が付加することのできた類い稀な才能を駆使して、詳述されていた。
 この前置きだけでも、ベネデットは、法によって、より実質的な刑を与えられるのを待たずに、すでに世論から見放されていた。
 アンドレアは、続けざまに自分に対して振り上げられ振りおろされるこの攻撃に、いささかの関心も示さなかった。しばしば彼に目を注ぎ、今までに幾度か数多くの被告に対して加えてきた心理学的探究を、彼に対しても続けていたヴィルフォールが、奥の奥まで見通すほどに鋭い目でいかに凝視しても、ただの一度もアンドレアの目を伏せさせることはできなかった。ついに朗読は終った。
「被告」裁判長が言った。「その方(ほう)の姓名は」
 アンドレアは立ち上がった。
「裁判長、お許し下さい」その声の響きは一点の曇りもなく澄みきっていた。「ですが、裁判長は、私がお答えしかねるような順序で質問をなさっておられます。私がふつうの被告とは違うということを、後ほど証明してごらんにいれたいと思います。ですから、どうか、違う順序でご返事することをお許し下さい。どのようなご質問にもお答えするつもりでおりますから」
 裁判長は驚いて陪審員たちを見た。陪審員たちは検事を見た。
 居合わせた者全員の間に大きな驚きの色が見えた。だが、アンドレアにたじろぐ様子はまったくなかった。
「年齢は」裁判長は言った。「この質問には答えるかね」
「そのご質問にも、ほかのご質問にもお答えします。その順番が来れば」
「年齢は?」裁判長は繰り返した。
「二十一歳です。と言うより、あと数日で二十一歳になります。一八一七年九月二十七日から二十八日にかけての夜に生まれましたから」
 メモをとっていたヴィルフォールがこの日付を聞いて顔を上げた。
「どこで生まれたのか」裁判長が続けた。
「パリ近郊のオートゥイユです」ベネデットは答えた。
 ヴィルフォールはふたたび顔を上げ、恐ろしいメズサの顔を見るようにベネデットをみつめ、血の気を失った。
 ベネデットのほうは、刺繍のある上等な麻のハンカチを優美な手つきで口もとにあてた。
「職業は?」裁判長が訊ねた。
「はじめは文書偽造」アンドレアは平然として言ってのけた。「ついで泥棒になり、最近人殺しとなりました」
 ざわめきが、いやむしろ憤(いきどお)りと驚愕のどよめきが法廷の至る所からまき起こった。判事たちさえもあっけにとられて顔を見合わせ、陪審員たちは、上流階級の人士のものとしては予想もできないこの皮肉な態度に、心からの嫌悪の色をあからさまに示した。
 ヴィルフォールは片手で額をおさえた。はじめは蒼ざめていたその額が、赤く燃えるような色になった。いきなり彼は立ち上がり、うろたえた者のようにあたりを見廻した。息がつまったのだ。
「検事さん、なにか探しておられるのですか」ベネデットがこの上なく愛想のいい笑顔で訊ねた。
 ヴィルフォールは答えなかった。そして、また腰をおろした、と言うよりも、椅子に倒れこんだ。
「被告、今度はその方(ほう)の名前を言うことに同意するか」裁判長が言った。「その方が自分の犯した数々の罪を自らの職業と見なし、一つ一つ数え上げた際の兇暴さをてらう態度、そしてそれを己が名誉と心得ていること、これは、道徳と人間に捧ぐべき尊敬の名において、当法廷はその方を厳しく非難せねばならぬが、おそらくはこれが、その方が姓名を名乗るのを遅らせた理由なのであろう。その方はそうした数々の肩書きを先に述べることによって、その方の名前を際立たせようとしたのだな」
「裁判長、恐れ入りました」ベネデットはあくまでも上品な声音で、この上なく礼儀正しく言うのだった。「それほどまでに、私の考えの奥の奥までもお見通しとは。たしかにそういう目的でご質問の順序を逆にして下さるようお願いしたのです」
 驚愕は頂点に達した。被告の言葉には、もはや駄ぼらもなければ皮肉もなかった。動揺した傍聴人たちは黒雲の奥に雷鳴が轟くのを予感していた。
「では訊ねる、その方の姓名は」裁判長が言った。
「私には、名前を申し上げることができないのであります。自分の名前を知らないからです。ですが、父の名前は存じております。父の名前は申し上げることができます」
 重苦しい目まいに襲われ、ヴィルフォールは目の前が真暗になった。苦しい汗のしずくが頬をつたい、わなわなとふるえる取り乱した手がうちふるえさせている紙の上にぽたぽたと落ちるのが見えた。
「では父の名を言いなさい」裁判長は言った。
 しわぶき一つ、息づかい一つ、満場を埋めた人びとの沈黙を乱すものはなかった。みながみな被告の言葉を待った。
「私の父は検事であります」静かにアンドレアは答えた。

……百十 「起訴状」冒頭部分


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