「月世界旅行」

ジュール・ヴェルヌ/鈴木力衛訳

ドットブック版 253KB/テキストファイル 151KB

400円

アメリカ南北戦争で大砲づくりに命をかけた連中も、平和のなかで意気阻喪していた。ガン・クラブ会長バービケインはその沈滞を打ち破り、技術の粋をつくして世界をあっといわせる「快挙」をなしとげようと決意した。それが巨砲を使っての「月への旅行」だった。弾道学・金属学・天文学・気象学・冶金学などを総動員しての準備計画…そして「発射!」。なぜアメリカの宇宙基地がフロリダ半島にあるのか、ヴェルヌのこのSFはそうした疑問にも答えてくれる。
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 南北戦争のさいちゅう、アメリカのメリーランドの中心地、ボルチモアの町に、非常に強力な新しいクラブが創立された。船主たちや、商人たちや、技術者たちのこのような集まりで、闘争本能がどれほど力づよくかりたてられたかは、よく知られている。名もない平凡な商人が、帳場をまたいで出てゆくと、ウェスト・ポイント士官学校の訓練をうけていなくても、すぐに大尉になり、大佐になり、将官になってしまう時代のことだ。彼らは《戦争技術》において、あっという間に、旧大陸の同僚たちと肩をならべ、砲弾や、お金や、人間を惜しみなく使って、勝利を手に入れたものである。
 しかし、アメリカ人がヨーロッパ人を追いこしたもののなかでも、特筆大書しなければならないのは、大砲の発射術であった。アメリカ人の大砲が、完成の域に、一歩近づいたからではなく、いままで考えられなかったほど大きくなり、その結果、想像もつかないほどの射程距離をもつようになったからだ。掃射(そうしゃ)〔物を掃くように、左右に連続して射撃すること〕や、瞬射〔見おろして砲撃をくわえること〕や、斜射、縦射、背後射撃といったことについてなら、イギリス人も、フランス人も、プロシア人も、アメリカ人に学ばなければならないことは、もう何もなかった。けれども、ヨーロッパの大砲や、曲射砲や、迫撃砲は、アメリカの砲兵のおそろしい武器にくらべると、まるで、ポケットのなかのピストルのようなものであった。
 こんなことを言っても、びっくりするひとはひとりもいないだろう。つまり、世界最初の技術者であるヤンキーは、イタリア人が音楽家であり、ドイツ人が形而上(けいじじょう)学者であるように、生まれながらの技師なのだ、と。だから、アメリカ人が、発射術にすばらしい成果をあげたのも、当然であろう。それに、巨大な大砲などというものは、ミシンほど役にはたたないが、ミシンの出現とおなじくらい人びとをおどろかせるし、より大きなショックをあたえるものなのだ。パロットや、ダールグリーン〔アメリカの提督。一八〇九〜七〇〕や、ロドマン〔アメリカの士官。一八一五〜七一〕の驚嘆すべき巨大な大砲がお目見えしたのである。こうなると、アームストロング会社や、バリセール会社や、トルイユ・ド・ボーリュー会社など旧大陸の兵器会社は、海の向こうのライバルに頭をさげざるをえなくなってしまった。
 さて、この北部諸州の人たちと、南部諸州の人たちとのおそろしい戦争のあいだ、大砲製造者たちは大いに重んじられていた。合衆国の新聞は、彼らの発明を熱烈にほめたたえた。どんなに欲のない商人でも、どんなにばか正直な《まぬけ》でも、みんな、夜となく昼となく、気ちがいじみた弾道の計算に、頭をしぼっていた。
 ところで、アメリカ人たちは、あることを思いつくと、それに協力するもうひとりのアメリカ人を探しもとめるくせがある。三人協同で何かをする場合には、会長ひとりと、ふたりの秘書を選ぶ。四人いれば、書類整理係をひとり任命する。そして、事務所としての機能を発揮する。五人になれば、総会を招集して、クラブが組織される。つまり、こうした組織が、ボルチモアにできたのである。新しい大砲を発明したひとが、その大砲を最初に鋳造したひとと、その大砲に最初に砲口をあけたひとと、手を組んだのだ。この三人が《ガン・クラブ》の中核である。クラブができてひと月たったときには、正会員が一八三三人、通信会員が三万五七五人になっていた。
 この協会に入会を希望する人たちすべてに課せられた必要かくべからざる(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)条件は、ある種の大砲を思いついたか、でなければ、改良したことがあるひと、というのであった。大砲でなくともかまわない。火器ならなんでもいい。しかし、実際には、一五連発のピストルや、回転騎兵銃、サーベル・ピストルなどの発明家たちは、それほど尊敬を受けなかった。なんと言っても、大砲の専門家が優位に立っていた。

……《
一 ガン・クラブ》より


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