「ムーン・プール」

A・メリット/川口正吉訳

ドットブック 493KB/テキストファイル 316KB

700円

白い光に包まれて忽然と船上から消え失せた友人フロックの残した地図を頼りに、グッドウィン博士が到達した異世界は、百花咲きみだれ、樹陰に荘大なパヴィリオンが建ち、貝殻のような奇妙な乗物が行き交い、緑の小人たちが闊歩する楽園にちかい場所だった。だがそこは、南太平洋の先史遺跡、ナン・タウアッチの地底世界だった! そこは楽園とは程遠い暗黒の世界、光を駆使して巧妙に築かれた世界であり、消えたスロックは、この世界を支配する絶対神「輝くもの」の生贄に供されたのだった。博士一行のひとり、オキーフがみめ麗わしい地底の美女に恋したとき、彼らには恐るべき危機が迫っていた。SF黎明期に君臨した幻想冒険作家の最大傑作!

エイブラハム・メリット(1884〜1943)米国のSFファンタジー作家。秘境冒険ものを得意とし、絢爛たるイメージと華麗なる描写が特徴である。代表作に『イシュタルの船』『金属モンスター』『蜃気楼の戦士』など。

立ち読みフロア
 わたしはその頃すでに二た月ダントルカストウ諸島〔ニューギニアの東にある火山島群〕にあって、南太平洋火山諸島の植物に関する自著の最後の数章を書きあげるためのデータ集めをしていたのである。前日、わたしはこのポートモレスビーに到着していて、サザーン・クイーン号に安全に貯蔵されていたわたしの植物標本をしらべ終っていた。わたしは上甲板のデッキチェアにすわりながら、なにやらホームシックにかかったような気持で、自分とメルボルンを隔てている幾百リーグ、またメルボルンからニューヨークまでのさらに遠い波濤に思いを馳せていた。
 それはパプア島〔ニューギニア島の旧称〕の黄色っぽい朝のひとつであった。パプアのときどきみせる、このうえなく沈欝で不機嫌なムードの朝がそれであった。空は燻(くすぶ)っているような黄土色であった。島ぜんたいの上に、むっつりとした、険しくて近よりがたい、宥(なぐさ)めようのないひとつの精気(スピリット)がじっと蟠踞(ばんきょ)していて、内にひそめた凶悪な勢力(フォース)を、いまにも綱を解いて放とうと待ちかまえているかのように感じられた。精気(スピリット)は、パプア島自身の、野生そのままの、不吉な予兆をひそめた心臓そのものから発してくる悪気(エマネーション)のように思われた。パプアといえば、彼女は微笑しているときでさえ、なにか不吉な、不気味なたたずまいの島なのである。ときどき海風に乗って、処女ジャングルの吐息がふき流れてきた。嗅いだこともない妙な異臭、薄気味のわるい、なにかそら恐ろしい神秘的な異臭が微風にまじっているように感じられた。
 パプアが彼女の無限の古さとその威力とについてあなたに囁(ささや)きかけるのはこんな朝である。はからずもこのわたしは、白人すべてが一度は経験しなければならないように、彼女の呪縛と戦い、それに反抗をこころみていたのであった。わたしがそんなムードに落ちこんでいたとき、わたしは桟橋を一人の背の高い男が大股であるいてくるのを見た。一人のカパカパの少年が真新しい旅行カバンをぶらぶらさせながら、男のあとについてくる。男のあるき方にはなにかわたしの知っている人のような特徴がみえる。男は歩み板のふもとに着くと、ふと頭をあげ、その眼がぱったりとわたしのそれと合った。男はしばしわたしを見詰め、それから手をふった。
 わたしもようやく誰であるかがわかった。スロックマーチン博士なのだ。わたしにとってはもう以前から、縮めてスロックと呼んでいる間柄で、ずいぶん昔からの友人のひとりであった。彼はまた学界で第一級の頭脳であって、その実力と業績とは、わたし自身はもちろんのこと、数えきれないくらい多くの学者たちにとっても、絶えざる刺激となっていたのである。
 驚いたのはわたしだけではなかった。スロックマーチンのほうがもっと驚いた――しかも不快感のまじった驚きである。疑う余地もなくスロックマーチンその人なのだが、なにか妙である。わたしの永年つきあっている彼、しかもわずか一カ月たらず前、わたしが航海へでるに当って、この人の主催してくれたささやかなパーティでさようならをいってきたばかりのスロックマーチンとは、まるで人間がちがったような妙な気配がつきまとっているのだ。彼はつい数週間前に結婚したばかりである。花嫁は、ウィリアム・フレイジア教授の愛娘エディスである。花嫁はスロックマーチンよりすくなくとも十は若かったが、彼の理想を理想とし、また愛については、スロックマーチンの情熱に劣らぬ惚れ方ともみえていた。エディスはつとに父親の薫陶をうけて夫のよき研究助手であり、その稟質(ひんしつ)であるやさしくて健康な性情によって、スロックのなまめかしい恋人――わたしはどちらかといえば古めかしい意味にこの語をつかう――でもあった。スロックマーチン夫妻は、スロックの若い(エディスと同じくらいの年齢の)研究同僚チャールズ・スタントン博士、それに赤ん坊のころからのエディスの乳母であるスウェーデン女のトゥラ・ハルヴェルセンといっしょにナン・マタルへむけて出発したのである。カロリン諸島のうちポナペ島の東海岸べりにあつまっているあの異常な島嶼遺跡群、ナン・マタルへである。
 わたしは、彼がポナペ島だけでなくレーレ島の先史遺跡をも、すくなくとも一年間滞在して探検する計画であることを知っていた。ポナペとレーレの遺跡はいずれも、エジプト文明の種子がまだ播かれないはるか以前に開花を見せた不思議な先史文明の双生児的センターであり、人類の巨大なナゾである。この文明の工芸についてはまだほとんど充分なことは知られていず、またどんな科学がおこなわれていたかについても、皆目わからないのである。スロックマーチンは探検と現地研究のため、異常ともいうべき完全装備をととのえてでかけた。事実またこの研究は彼のライフワークとなるはずであり、彼自身もそれを望んでいたのだった。
 ではなぜスロックマーチンはポートモレスビーへ来たのだろうか? そして、わたしが彼の様子のなかに感じとった奇妙な変化はいったい何なのであろうか?
 わたしは急いで下甲板へおりて、船の事務長といっしょにいる彼をみつけた。わたしが呼びかけると彼は振りむき、元気よく手を差しだした――そのときわたしは、さっきから気懸りになっていた彼の様子の変化が何であるかを知ったのである。彼もまたわたしが真近に彼の顔をみてひどいショックをうけたことを知った。もちろんそれは、わたしが声を呑み、同時にわれしらず彼の眼の前で尻込みしたからであった。彼は眼に涙をためていたのだ。彼はだしぬけに事務長のそばから離れ、しばらくためらい――やがて自分の特等室へそそくさと去っていったのだった。
「あの方、ちょっと様子が変ですね」と事務長が言った。「旦那のご存知の方なんですね? びっくりなさったでしょう」
 わたしは受け答えだけはし、ゆっくりと椅子のあるデッキへと昇っていった。わたしは椅子に腰をおろして心を落ち着け、わたしにこれほどのショックを与えた原因を見きわめようとした。やがて思いあたることがあった。わたしの脳裡にあるスロックマーチンは、冒険旅行へ出立の前日に四十歳の誕生日を迎えたばかりで、身体は柔軟で、ぴんと背筋が伸び、筋肉も衰えてはいなかった。表情の主調は熱意のそれであり、同時に知的な鋭さ――それから期待をつつみこんだ旺盛な探究心といったものであった。常時、問いかけて止まない頭脳は、彼の顔貌にいきいきとした進取の気宇をみなぎらせていた。
 だが下甲板でみたスロックマーチンはまるで違っていた。歓喜と恐怖とがいりまじった何かの衝撃の跡を刻みつけられた人間であった。何か魂の激変が起こって、その昂揚の頂点で、深く内部から顔貌をつくり変え、恍惚と絶望とのまじりあった極印をおしたのであろうか。まるで歓喜と絶望とが手をたずさえて彼におそいかかり、虜囚(とりこ)にし、そのまま去っていった――そしてあとには二つの情動の連結された陰影が拭い去られるすべもなく残されたかのよう!
 わたしを驚かせ、畏(おそ)れさせたのはそれだ。なぜといって、どうして恍惚と恐怖とが、天国と地獄とが、手を結びあい、キスし、結合することがあり得ようか?
 だが事実、スロックマーチンの顔貌をしっかりと蔽(おお)っているものはこの二つ以外の何ものでもなかったのだ!

……
冒頭より

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