「蒙古来たる」(上中下)

海音寺潮五郎作

(上)ドットブック 314KB/テキストファイル 186KB


(中)ドットブック 308KB/テキストファイル 180KB


(下)ドットブック 325KB/テキストファイル 198KB

各600円

朝鮮海峡のはるか彼方に不気味な牙をむくフビライの蒙古。フビライは何度も使者をよこし、「友好」と称した臣従を日本に求めてきた。鎌倉幕府はおののき、国論は分裂した。幕府の執権北条時宗は悩みつつも強硬派に組していた。一方、幕府の御家人で伊予の豪族・河野通有はこの指針を危ぶみ、時宗に諫言しようと鎌倉をめざす。その途上の京都で、通有は公卿の中納言実兼に遭い、実兼が和平論者と知るが、疑念もいだく。事実、実兼には蒙古などどうでもよく、幕府の支持する現天皇をしりぞけて、上皇をかつぎだす思惑で動いていたのである。その手足が幕府の六波羅探題(京都)の長官赤橋義宗であり、鎌倉にいる義宗の弟義直であった。実兼はすでに肥後天草の武士・獅子島小一郎を籠絡し、天皇暗殺さえ企てていたが、これは小一郎に見抜かれて失敗していた。これらの人物たちに、日本に逃げてきているペルシャの王女と家来たち、それを援助するクグツの一団が絡む。さらにはおどり念仏を主唱する智真房、声高に救国を説く日蓮などの時代の動きをもまじえて、物語はアジアにまで広がる舞台と複雑な経緯を描きながら、ついに蒙古の襲来というクライマックスへ。…「元寇」を壮大なスケールで描いた雄渾の歴史ロマン。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア
 朽ちかけた板ぶきの屋根に、風おさえにごろた石をならべた、みすぼらしい家ばかりならんでいる小路(こうじ)から、風を切る勢いで、子供が三人、飛び出して来た。
 なにがおこったのか、どこへ行くのか、ものも言わずに、いきせき切って、大路を飛んで行く。
 七つか、八つ。赤ちゃけたおんぼろ髪を、矜羯羅(こんがら)童子か、制咤迦(せいたか)童子みたいに、明るい初夏の日に逆立てて走る。ひざぎりの、糸目もよれよれの着物、はだし。よごれたほッぺたに、目と血色がいきいきと美しかった。
 すると、その子供等の走りすぎるあとの、小路小路から、同じような子供等が、いくらでも走り出して来る。
 なんとまあ、子供ってたくさんいるものだろう。穴からはい出してくる蟻みたい。うじゃうじゃと出て来て、出て来るや、同じ方に飛んで行く。ほッぺたをほてらせ、目をかがやかし、憑(つ)きものでもしたような、やみくもな様子である。
 もちろん、だまってはいない。わいわいべちゃべちゃと、子供のかんだかい声でわめきながら、語りながら、走って行く。
「あれまあ、どうしたことかいの」
「クグツかいな。田楽(でんがく)かいな。それとも、けんかかいな」
 通りすがりの大人等も立ちどまって、子供のあとを見送った。暗い家の中から出て来て、まぶしそうに目をしばたたき、手をひたいにかざして見ている人もあった。
 子供等は、大路を真直ぐに、三町ほど走って、土御門(つちみかど)通りまで出ると、そこの角にあった、空(あき)やしきの前に立ちどまった。
 以前、公家(くげ)の邸宅があったのが、二、三年前、火事で焼けたまま、あとが建たない空やしきである。築垣(ついじ)だけがのこって、方々くずれながら、とりまいていた。
 子供等は、築垣のくずれから、こわごわ、しかし、呼吸(いき)をつめた熱心さで、小さな顔を内側にのぞけていたが、やがて、ぞろぞろと入って行った。
 所々、ばかでかい礎石のちらばっている五、六百坪の、その空地には、いちめんに雑草がしげり、明るい陽(ひ)が照って、陽炎(かげろう)が立ち、はるかに向うに、ガラス板のように光っている古池のほとりの木立ちに、まといつくように、白い蝶が二、三匹、ひらひら、ひらひらと、舞っているだけであった。
 子供等は、一歩一歩、ひどく用心深げに歩いて、二、三間進み入ったが、その時、一番大きな礎石のかげに、むくりと動くものがあった。
「わッ」
 一時におびえ切った声を上げて、逃げ出したが、五、六歩で立ちどまって、ふりかえった。礎石のかげから立ち上ったのは、一人の男だった。
 おそろしく大きい。たけも、横も。僧形(そうぎょう)だ。墨染の法衣、裹頭(かとう)ずきん、腰に長い刀をさしている。
 山法師か、寺法師か、と、思われたが、それにしては、どこかだらしがない。酔っているのかも知れない。その大きなからだを、ふらふらさせながら、礎石に腰かけた。
 僧形のその男は、ぐたりと首を前に垂れていたが、やがて、手をのばし、草むらの中からなにやらつかみ出した。酒徳利。およそ二升ほども入りそうな。
 両手でかかえこんで、口をつけた。しだいに顔が仰向いて、徳利の尻が上にあがる。むさぼりのむ姿であった。
 その間に、子供等はじりじりと近づいて、二、三間の距離までせまった。近くによると、体格の大きさが、さらによくわかる坊さまである。
 大きな顔、はばひろい肩、酒壷をかかえた、黒い毛がもじゃもじゃと生えた、たくましい腕、草むらに踏んばった、太く長い、はだしの脚。
 あおむいて、あらわになった太いのどの咽喉仏(のどぼとけ)が、律動的に上下にうごいている。ゴクン、ゴクン、という音も、はっきりと聞こえた。
 一種の壮観であったが、母親の乳房にしがみついている赤ん坊のような、ひたむきな、あどけなさもあった。子供等ののども、ゴクンと鳴った。
 間もなく、坊さまは、徳利を口からはなした。大きな手のひらで、横なでに口をふいた。フー、と、長いいきをついて、子供等の方を見た。裹頭ずきんの下のその顔は、まことに異様なものだった。まず、真直ぐにとおった隆(たか)い鼻筋、次に秀でた鼻骨に半月の弧をえがいて生えた眉(まゆ)の下の目が、大きいくせにおそろしく奥まっていること。不思議な顔立であった。
 その奥まった大きな目は、本来なら、恐ろしいものに見えたろうが、今は酔いに、とろんとくもって、視線が定まらないようであった。にたにたと、子供等に笑ってみせた。すると、大きな口から、よくそろった健康そうな真白な歯が出て、なんとも言えず、愛嬌のある顔になった。
 呼吸(いき)をこらして、目をはなさず、見ていた子供等の中で、不意に言ったものがあった。
「おれ、この坊さま、三べん見たで」
「おれかて!」
 と、別のがこたえると、たちまち、蜂の巣をつついたように、口々にしゃべりはじめた。
「おれ、三べんぐらいやない。五へんも、六ぺんも見てるで」
「おれなんか、十ぺんも見てらい」
「この坊さま、酒好きなんや、いつも、鞍馬口(くらまぐち)の酒屋で酒買っては、このへんで飲んではんのや。おれ、ちゃんと知ってるで」
「そんなこと。この坊さま、弓が上手(じょうず)なんやで、小っさな弓持ってはるで。矢も小っさいんやで。おれ、この坊さまが、その弓で、鳶(とんび)を射落さはるの見たんやで」
「知ってらい、坊さまは、その鳶を食うてしまはったんやで」
「鳶食べはった?」
 子供等が顔色をかえて、逃腰になった時、とつぜん、坊さまがへんな声を上げた。
「レロ、レロ、レロ、レロ……」
 子供等は、ニタリニタリと笑いながら、レロレロレロレロといいながら、片手を上げて招いている坊さまを見ると、ワッとさけんで、逃げ出した。
 みんなが行ってしまつて、坊さまは、ただひとり、陽炎の立つ緑の真中にとりのこされたが、様子は一向かわらない。
「レロレロ、レロレロ、レロレロ」
 身をゆすりながら、舌ッ足らずな、まぬけた、奇妙な声を上げつづけた。
 いつか、リズミカルな節調のあるものになっている。唄をうたっているつもりかも知れない。
 レロレロ
 レロレロ
 レロレロ
 だんだん愉しくなったのか、赤んぼのように頼りない声が、せり上って来たかと思うと、足許をさぐって、一張(はり)の弓をひろい上げた。
 半弓より、まだ短い弓、この国ではめずらしいが、その道の人に言わせると「胡弓(えびすゆみ)」というやつ。楽器を奏でるように爪びいて、鳴らしはじめた。
 思いもかけないことであった。指まで剛(こわ)い黒い毛の生えた、無骨そうな大きな手の、どこにこの微妙な技がひそんでいるのであろう、左の五指で調子をとり、右の指を流れるように弦(ゆんずる)の上を走らせるにつれて、哀しく美しいひびきが、立ちのぼって来た。かぼそく青い香煙のように、きえぎえになってはつづき、つづいてはきえぎえになりつつ、青い空にひろがって行くひびき。
 おのれの指の奏で出す、この哀婉(あいえん)で、はかなげなひびきに、坊さまは聞きほれているようだった。
 口はきびしく一文字に結ばれ、小さくふるえていた。深い眼窩(がんか)の奥に瞑目(めいもく)している眼から、涙があふれて、隆い鼻梁のわきを、筋を引いて伝っていた。胸をしぼってやまない強い感動が、大きなからだを、切なくゆり動かしているようだった。
 次第に高まる感動が、嗚咽(おえつ)に似たうめきとなって、二度ほど、はばひろい胸をうねらせて漏れたかと思うと、坊さまは弾奏をやめた。
 早潮(はやしお)の落ちるようだった。緊張の色はたちまちその顔から消えて、あの間のぬけた、人の好さそうなものにかえった。
 数時間の後、坊さまはさっきより一層酔って、土御門の通りを、東にむかって歩いていたが、前方から一人の行商女(ひさめ)の来るのを見ると、おや! という顔をした。
 桂(かつら)あたりから川魚の鮨(すし)でも売りに出て、家に帰りつつあるのだろう。浅い桶(おけ)を四段に重ねて、頭にのせていた。
 頭上の荷物のバランスをとるために、女は正面を切って歩いてくる。外八文字に両手をふり、思うさまに尻をつき出し、プリンプリンと、腰をふりながら来る。
 次第に近づいて、すれちがおうとした時、とつぜん、坊さまはあの奇声を上げて、女の腕をひっつかんだ。行商女(ひさめ)は、魂切(たまぎ)る悲鳴を上げた。力一ぱいにもがいたが、ふり切れなかったばかりか、片方の腕までつかまれて、グィと抱き寄せられた。平衡を失った頭の上の桶が落ちて、転々ところがりながら、乾いた路面を四方に走った。坊さまの手からも、弓と酒徳利がはなれた。弓はピンとはねかえって、一間ばかり向うに飛んだが、酒徳利はみじんにわれた。それらのけたたましい音が、一層行商女(ひさめ)を逆上させた。
 行商女は、自分の背が、鉄のようにかたく頑丈な腕に、抱きしめられるのを感じた。空から真黒な雲がかぶさって来るように、裹頭ずきんの顔が、自分の顔をめがけて、蔽(おお)うてくるのを見た。悪酒の臭いと、異様な体臭とがごっちゃになって、えずき上げて来そうな悪臭。
「アレー、誰か来てえ! 誰か来てえ!……」
 必死な叫びを上げながら、女は反抗にうつった。山猫か、豹(ひょう)かなんぞのようであった。鋭い歯のかかりにかみつき、とがった爪のかかりにひっかいた。
 大坊主はあわてた。あの不明瞭な声しか、声を出す術(すべ)を知らないのであろうか、おそろしく早口に、あれをくりかえして、ぴょこぴょこと頭を下げる。それによって、行商女の猛烈な反抗をなだめようと、考えているようであった。そのくせ、背中を抱いた手は、寸分もゆるめようとしない。
「この破戒坊主め! 堕地獄(だじごく)坊主め! 淫乱(いんらん)坊主め! だまされへんで! 追剥(おいはぎ)ぞや! 人殺しぞや! 人々、出合えや!」
「レロレロレロレロ……」
「だまされへんでーッ! だまされへんでーッ! 人々、出合えやッ! 人殺しーッ!」
 今はもう、坊主は、裹頭ずきんは引裂かれ、顔はむざんに噛みつかれ、引ッかかれ、血だらけになっていた。けれども、あくまでも思いをとげるつもりなのか、なだめるつもりなのか、へばりついたまま、レロレロをくりかえしていた。
 不意に、馬蹄(ばてい)の音が聞こえたかと思うと、向うの辻に、数騎の武者があらわれた。暗くはなっていたが、暮れきってはいない。一目でわかった。きびしく鎧(よろ)った武者六騎。京の町の要所要所の篝屋(かがりや)につめて、市中の警備にあたっている武士である。
 行商女(ひさめ)は、声をかぎりに、わめいた。
「人殺しーッ! 追剥ぞーッ! 助け給えーッ」
 篝屋武士は、当時の武士中の花である幕府の御家人(ごけにん)によって、組織されていた。一斉に馬首をめぐらし、キッとこちらを見入ったが、次の瞬間には、もう、突進に移っていた。馬蹄の音と、物具(もののぐ)のひびきの、騒然たる中に、するどい武者声がおこる。
「なにものの痴者(しれもの)ぞ! かしこまりも存ぜず、王城の地において、尾籠千万(びろうせんばん)の狼籍! しずまれ! しずまれ! しずまれ! 下におろう!」
 坊主はうろたえた。行商女から飛びはなれ、逃げようとしたが、こんどは、行商女の方から、そうさせない。武士達の出現は、マムシを食った山猫ほどに、この女の気を猛(たけ)り立たせていた。坊主の腰をめがけておどりかかった。ダニのようにしがみついて、はなれなかった。
「このヘゲタレ坊主め! この淫乱坊主め! この堕地獄坊主め! 逃がしてなろうか!」
 と、悪態のかぎりをつくして罵(ののし)り、その合間合間には、武士達に呼びかけた。
「殿様方やア、ここですぞよオ! ここですぞよオ……」
 七尺ゆたか、ちょいとした大仏様ほどもある坊主だ。渾身(こんしん)の力をこめて腰をふったら、行商女をふり飛ばすくらいのこと、わけなかったろうが、因果(いんが)な性質だ、こうなっても、女には手荒くふるまえないのだ。やむなく、女を腰にぶら下げたまま、走り出した。
 女一人を腰にぶら下げながら、なんという体力か、なんという脚力か、あの要領のわるさ、あの薄のろさを、夢かと疑わせる超人ぶりであったが、とたんに、頭すれすれの所を、ヒュー! と、するどい音とともに、かすめすぎたものがあった。夜目にも、あざやかであった。白羽の征矢(そや)。
 二矢、三矢、四矢。
 わざと、矢坪(やつぼ)をはずしているのであろう、あたりはしなかったが、坊主は肝(きも)をつぶした。もう女にも礼儀をつくしておられなかった。「レロ!」とまぬけた懸声とともに、腰を一ふりすると、まりのケシ飛ぶようだった。三間ほどもはなれた築垣(ついじ)の根元にたたきつけられて、ヒーと、悲鳴をあげた。
 ゆるせ、いとしの君よ、とでも言うつもりであったろうか。
「レロレロレロレロ……」と、投げつけておいて、走りつづける。
 身軽になると、坊主の脚には羽が生えたようだ。たちまち、追跡者等を引きはなして、射程外にのがれた。
 しかし、安心するには、まだ早かった。ふと、行く手の辻のあたりが、ボーと明るくなったかと思うと、手に手に松火(たいまつ)をたずさえた騎馬の武者、七、八騎が駆けだして来た。
 明るい松火の明りは、それも篝屋武士の一隊であることを教えた。追尾して来る武士等が、大呼した。
「これは、四条の大宮の篝(かがり)の者、その曲者、おさえ給(た)び候え」
「うけたまわるーッ!」
 前方の一団はこたえた。四人ずつ二列の陣形をつくるや、手ンでの松火を、前方に投げた。
 松火はきえぎえになりながら、宙を飛んで、器械のような正確さで、路の中ほどに積み重なり、積み重なるや、長い大きな炎を上げて燃え立った。武士等のたくましい馬、きらめく鎧の金具が、その明るい火明りに照らしだされた。
 坊主は、右手の築垣の下に立ちよった。ほっぺたのあたりを掻きながら、路の前後を見ていた。途方にくれた、遅鈍な様子であった。やがて、弓を持ちなおして、矢をつがえた。ひきしぼって狙いをつけた。しかし、思い切れなかったらしい。すぐはずした。泣き出しそうな顔になっていた。
 その間に、追跡の武士等は追いついた。坊主が居すくんでいるのを見ると、馬を飛びおりた。包囲の陣形をとって、じりじりとせまった。
 武士等の包囲陣の真中に、坊主はノソノソ出て行った。
「捕(と)ったア!」
 武士等は、精一杯の声でどなり、精一杯の力で飛びついたようであった。ピリリとも、相手を動かすことは出来なかった。
「手ごわい曲者(くせもの)ぞ!」
「心してかかれい!」
 さらに、気力をはげました。一人が弓をうばい、一人が太刀をうばった。これには無抵抗であったが、押しても、引いても、足の位置一つ動かすことの出来ないのは、同じだ。
 そのくせ、気がついてみると、坊主はヒョコヒョコと頭を下げていた。前後左右にぶら下った鎧武者の一人一人に、物悲しげで間のぬけた微笑を浮かべて、おじぎをくりかえしていた。武士等は、侮辱を感じた。
 一人が飛び上ってなぐりつけた。かたい拳(こぶし)は、裹頭ずきんの中の鼻柱に、したたかな打撃をあたえた。坊主は奇妙なうなり声を上げた。
 はじめて見る反応であった。皆勇み立ってならった。
 しかし、いくらなぐられても、坊主にはこたえる様子がない。うなりを上げたのは、最初の一回だけ、あとはヌウと無感動に立っていた。
 武士等はつらにくくなった。一種の練武心をそそられもした。坊主の両手を左右からおさえておいて、それに向って、一人一人かわり合ってはなぐりつけた。たしかに七尺はある相手だ。普通のなぐり方では十分に力が入らない。だから、なぐり手は三間ほど退って走りかかりに飛び上ってはつきを入れた。
 辻の一隊には、これがよくわからない。もみ合っていると見て、馬を急がせて行ったが、様子を知ると、すぐそれに加わった。
 しばらくの後――。
 辻に人影が近づいて来た。二人。積みかさなって燃えている松火の明りが、次第にはっきりと、その姿を浮かび上らせる。
 長身の若い武士と、小柄な老女であった。
 二人は旅装していた。背に網袋入りの荷物を負い、老女は片手に市女笠(いちめがさ)、片手に細い竹杖をつき、若者は左手に、当時の武士の旅には欠くことの出来ないものになっていた弓を、たずさえていた。
 最初に、老女が、行く手の暗中に行われているさわぎに、気づいた。
「お待ち」
 と、若者をひきとめて、前方をすかし見た。若者もそれにならった。
 二人はそこに多数の馬の影と人影とがうごめいているのを見、物具のふれ合う音を聞いた。また、時々、わア! と笑い出す声を聞いた。しかし、なにが行われているかは、わからなかった。
「見てまいりましょう」
 若者は、弓を老女にあずけておいて、いそぎ足に近づいて行った。
 武士は、あきれて、大坊主の受難を見ていたが、やがて進み出た。
「おうかがい申す」
 二、三人がふりかえった。冑(かぶと)の眉庇(まびさし)の下から向けた目で、じろじろと、見上げ、見下ろした。
「なんだ」
「これは一体、どういうわけでありましょうか」
「見ればわかるだろう。こらしめている」
「各々方は、篝の衆でありましょうな」
「そうだ」
「職権をもって、おとりおさえになったにしても、無抵抗の者にたいして、このなされ方は、いかがなものでありましょうか。罪科(つみとが)ある者なら、警固所に連れて行かるべきで、路上においての、ほしいままな制裁は、不当と存じます」
 いつの時代でも、下級役人が人民の正しい抗議に出あった時の態度は、判子でおしたようだ。高飛車にどなりつけた。
「余計なことを申すな! その方は何者だ!」

……冒頭より

購入手続き/(  


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***