「移動祝祭日―回想のパリ」

アーネスト・ヘミングウェイ/福田陸太郎訳

ドットブック版 355KB/テキストファイル 130KB

600円

ヘミングウェイは1921年から6年間、22歳から27歳という最も多感な時代をパリに送った。「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」これは彼が友人に語った言葉だが、それがそのまま遺作の本書のタイトルとなった。サン・ミシェル広場のカフェで、カフェオレを飲みながら、黙々と小説を書くヘミングウェイ…スタイン女史、エズラ・パウンド、ジョイス、フィッツジェラルドなどとの交流を通して、20年代のパリがよみがえる。

アーネスト・ヘミングウェー(1899〜1961)  イリノイ州生まれのアメリカの作家。第一次大戦後、新聞記者としてパリに行き、パウンド、スタインなどとの交流のなかから『日はまた昇る』を完成、一躍「失われた世代」の代表作家となった。独特の簡潔な文体は、文学界のみならず、人々のライフスタイルに大きな影響を与えた。釣と狩猟を愛したことでも知られる。

立ち読みフロア
 サン・ミシェル広場の良いカフェ

 それからわるいお天気になった。秋が終ったときの或る日に、それはやってくるのだ。私たちは、雨に備えて、夜、窓をしめなくてはならない。冷たい風は、コントルスカルプ広場の木立から葉をもぎとった。葉っぱは雨に打たれてびしょぬれになっていたし、風は終点にとまっている大きな緑のバスに雨をたたきつけていた。カフェ・デ・ザマトゥールは客で混雑し、内側の熱や煙のために、窓はどれも一面にくもっていた。それは、その界隈の酔っぱらいどものむらがり集まる、もの悲しい、経営の思わしくないカフェで、私はそこに近づかないようにしていた。汚い体から発散するにおいや、酔っぱらいのすっぱいにおいがいやだったからである。アマトゥールの定連の男女は、四六時中、あるいは自分たちの自由になる時間中ずっと、たいていぶどう酒を半リットルか一リットルずつ買っては、飲みつづけていた。たくさんの奇妙な名前の食前酒(アペリチフ)が広告されていたが、それで、あとから飲むぶどう酒の下地をつくるというくらいのことしかできなかった。女の酔っぱらいは、ポワヴロットと呼ばれた。その言葉は女の飲んだくれという意味である。
 カフェ・デ・ザマトゥールは、ムーフタール通りの下水だめみたいなものだった。その通りは、狭い、混雑する、あのめざましい市場通りであって、それはコントルスカルプ広場へ通じているのである。古いアパートの蹲坐(そんざ)式便所は、各階の階段の横に一つずつあって、借家人(ロカテール)が足をすべらさないように、穴の両側に少し高く、セメントの足型が二つとりつけてあったが、その便所は下水だめに通じるようになっており、その下水だめは、夜の間に、馬のひく清掃車ヘポンプで汲みこまれるのだった。夏季には、窓がすべて開かれているので、ポンプの音が聞こえたし、ひどい悪臭がした。清掃車は茶色とサフラン色に塗られ、月光の中で、カルディナル・ルモワンヌ街を清掃しているとき、馬にひかれてゆく車輪つきの円筒(シリンダー)は、まるで、ブラック〔ジョルジュ・ブラック。フランスの画家〕の絵のように見えた。でも、どの車も、カフェ・デ・ザマトゥールを清掃しにはこなかった。そして、公衆の前で酔っぱらうことを禁ずる法律の条文や罰則の書いてある黄色くなった店の貼り紙は、客が絶えず出入りし、悪臭をただよわせている一方において、すっかり汚れ、無視されたままであった。
 冬の最初の冷雨とともに、この都市のすべての悲しみが、突然やってきた。背の高い、白い建物の頂上は、歩く人の目にはもはや映らなくなり、あるのはただ、街路のしめった黒さと、小さな店の閉じたドア、薬味売り、文房具店や新聞店、産婆(さんば)さん――二級助産婦――それに、ヴェルレーヌが死んだホテルくらいのもの。そのホテルの最上階に私は一室を借りて、そこで仕事をしていた。
 最上階までは、六つか八つかの階段を上らねばならなかった。そこはとても寒かったが、小枝のひとたばや、枝から点火するための、松の木を鉛筆半分くらいの長さに割ったものや、さらに、部屋をあたためる火を作るために、どうしても買わなくてはならない半乾きの固い薪のひとたばを手に入れるには、どのくらい金がかかるか、私にはわかっていた。そこで、私は、街路の向こう側へいって、雨の中の屋根を見上げ、煙を出している煙突があるかどうか、また、煙の出具合はどうかを見た。ところが煙が出ていなかったので、きっと煙突が冷えていて、通りがわるいんだろうということや、たぶん煙で部屋が一杯になり、燃料がむだ使いされ、同時にお金も浪費されていることなどを考えながら、雨の中を歩きつづけた。官立中学校リセ・アンリ・カトルや、古教会サン・テチエンヌ・デュ・モンや、風の吹きさらすパンテオン広場の横を通り、風雨をよけて、右側へ入り込み、とうとうサン・ミシェル通りの風下へ出てきた。そしてその通りをずっと下りてゆき、クリュニ〔博物館の名前〕とサン・ジェルマン通りを過ぎ、しまいにサン・ミシェル広場にあるカフェへやってきた。私が前から知っている店だった。
 それは、あたたかく、清潔で、親しみのある気持の良いカフェだった。私はコート掛けに私の古いレインコートをかけて乾かし、ベンチの上の方の帽子掛けに、自分のくたびれて色のさめたフェルト帽をかけ、カフェ・オ・レを注文した。ウェイターがそれをもってくると、私はコートのポケットからノートブックを出し、鉛筆をとり出して書きはじめた。私はミシガン湖畔について書いていた。その日は荒れた、寒い、風の吹く日だったので、物語の中でも、そういうふうな日になった。私はすでに少年時代、青年時代、それから大人になりかけの時代に、晩秋のやってくるのを見てきた。そのことについて、ある場所では、他の場所でよりも、うまく書けた。それは、自己を移植することと呼ぶのだ、と私は考えた。そのことは、人間にとっても、他の成長するものにとっても、同じくらい必要なことなのだ。しかし、物語の中では、少年たちは酒を飲んでいたので、そのため、私ものどがかわいてきて、ラム酒セント・ジェイムズを注文した。寒い日には、これはすばらしい味がした。で、私はとてもいい気持になり、この良いマルチニークのラム酒が私の全身と私の精神をあたためるのを感じながら、書きつづけた。
 一人の女がカフェへ入ってきて、窓近くのテーブルにひとりで腰をおろした。とてもきれいな女で、新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔をしていた。雨ですがすがしく洗われた皮膚で、なめらかな肌の貨幣を鋳造できればの話だが。それに彼女の髪は黒く、カラスの濡れ羽色で、ほおのところで鋭く、ななめにカットしてあった。
 私は彼女の顔を見ると、心が乱れ、とても興奮した。私の物語の中か、どこかへ、彼女のことを入れたいと思った。けれど、彼女は、街路と入口を見守っていられるような位置に身を置いていた。だれかを待っていることがわかった。だから私は書きつづけた。
 物語はひとりでに展開していったので、それに歩調をあわせて書いてゆくのに、私は苦労していた。もう一杯ラム酒セント・ジェイムズを注文した。そして私は目を上げるたびに、あるいは鉛筆削りで鉛筆を削るたびに、その女の子を見つめた。鉛筆の削り屑は、くるくる巻いて、私の飲物をのせてある台皿の中に落ちた。
 美しいひとよ、私はあなたに出会った。そして、今、あなたは私のものだ。あなたがだれを待っているにせよ、また、私がもう二度とあなたに会えないにしても、と私は考えた。あなたは私のものだ。全パリも私のものだ。そして、この私はこのノートブックとこの鉛筆のものだ。

……冒頭より


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