「鳴門秘帖」(上・下)

吉川英治作

(上)ドットブック 498KB/テキストファイル 365KB

(下)ドットブック 427KB/テキストファイル 291KB

各巻500円

江戸時代中期、阿波徳島の藩主、蜂須賀重喜(しげよし)を黒幕として倒幕の陰謀があると疑った幕府は、隠密の甲賀世阿弥(よあみ)を送って動向を探らせるが、世阿弥は10年このかた行方知れずになる。幕府は隠密、法月弦之丞(のりづきげんのじょう)を、世阿弥の消息を探り、阿波藩の動静をあらためて探るため派遣する。だが、弦之丞はたちまち、お十夜孫兵衛、スリの見返りお綱という正体不明の者たちに跡を追われる。世阿弥は捕えられ、剣山の山牢に幽閉されていた。そして探り当てた阿波の秘密を遺書ともいうべき血で書いた「秘帖(ひじょう)」にまとめていた! 弦之丞と阿波藩の剣客たちは「秘帖」をめぐって熾烈な戦いを繰り広げる…

吉川英治(1892〜1962)神奈川県生まれ。小学校中退。いくつもの職業を転々としつつ独学。新聞社にはいって作家活動を本格的に開始し、傑作『鳴門秘帖』で人気作家となった。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、代表作となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を発表して幅広い読者を獲得し、「国民文学作家」といわれた。

立ち読みフロア
夜魔(よま)昼魔(ひるま)

 安治川尻(あじがわじり)に浪が立つのか、寝しずまった町の上を、しきりに夜鳥(よどり)が越えて行く。
 びッくりさせる、不粋(ぶすい)なやつ、ギャーッという五位鷺(ごいさぎ)の声も時々、――妙に陰気(いんき)で、うすら寒い空梅雨(からつゆ)の晩なのである。
 起きているのはここ一軒。青いものがこんもりした町角(まちかど)で、横一窓の油障子(あぶらしょうじ)に、ボウと黄色い明りが洩(も)れていて、サヤサヤと縞目(しまめ)を描(か)いている柳の糸。軒には、「堀川会所(ほりかわかいしょ)」とした三尺札が下がっていた。
 と、中から、その戸を開けて踏み出しながら――
「辻(つじ)斬りが多い、気をつけろよ」
 見廻り四、五人と町役人、西奉行所の提灯(ちょうちん)を先にして、ヒタヒタと向うの辻へ消えてしまった。
 あとは時折、切れの悪い咳払(せきばら)いが中からするほか、いよいよ世間森(しん)としきった時分。
「今晩は」
 会所の前に佇(たたず)んだ二人の影がある。どっちも、露除(つゆよ)けの笠に素草鞋(すわらじ)、合羽(かっぱ)の裾(すそ)から一本落しの鐺(こじり)をのぞかせ、及び腰で戸をコツコツとやりながら、
「ええ、ちょっとものを伺いますが……」
「誰だい」と、すぐ内から返辞があった。
「ありがてえ、起きていますぜ」
 後ろの連れへささやいて、ガラリと仕切りを開ける。中は、土間二坪(つぼ)に床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然(じゃくねん)と構えている。
「何だえ、今ごろに」
 錫(すず)の酒瓶(ちろり)を机にのせて、寝酒を舐(な)めていた会所守(かいしょもり)の久六(きゅうろく)は、入ってきたのをジロリと眺めて、
「旅の人だね」
「へい、実は淀(よど)の仕舞船(しまいぶね)で、木村堤(づつみ)へ着いたは四刻(よつ)頃でしたが、忘れ物をしたために、問屋で思わぬ暇を潰(つぶ)しましたんで」
「ははあ、そこで何かい、どこの旅籠(はたご)でも泊めてくれないという苦情だろう」
「自身番(じしんばん)の証札(あかしふだ)を見せろとか、四刻客(よつきゃく)はお断りですとか、今日、大阪入りの初(しょ)ッぱなから、木戸を突かれ通しじゃございませんか」
「当り前だ、町掟(まちおきて)も心得なしに」
「叱言(こごと)を伺いに来た訳じゃござんせん。恐れいりますが、その宿札(やどふだ)と、事のついでに、お心当りの旅籠を一つ……」
「いいとも、宿をさしても上げるが……」と久六、少し役目の形になって、二人の風態(ふうてい)を見直した。
「一応聞きますが、お住居は?」
「江戸浅草の今戸(いまど)で、こちらは親分の唐草銀五郎(からくさぎんごろう)、わっしは待乳(まつち)の多市(たいち)という乾分(こぶん)で」
「ああ、博奕(ばくち)打ちだな」
「どう致しまして、立派な渡世看板(とせいかんばん)があります。大名屋敷で使う唐草瓦(からくさがわら)の窯元(かまもと)で、自然、部屋の者も多いところから、半分はまアそのほうにゃ違いありませんが」
「何をいってるんだ」側(わき)から、銀五郎が押し退(の)けて、多市に代った。
「しゃべらせておくと、きりのねえ奴で恐れ入ります。殊には夜中(やちゅう)、とんだお手数(てかず)を」
「イヤ、どう致して」見ると、若いが地味づくりの男、落ちつきもあるし人品(じんぴん)も立派だ。
「そこで、も一ツ、行く先だけを伺いましょう」
 久六も、グッと丁寧に改まる。
「的(あて)は四国、阿波(あわ)の御領(ごりょう)へ渡ります」
「阿波へ? フーン」少しむずかしい顔をして、
「蜂須賀(はちすか)家では、十年程前から、ばかに他領者(たりょうもの)の入国を嫌って、よほどの御用筋(ごようすじ)か、御家中(ごかちゅう)の手引でもなけりゃ、滅多(めった)に城下へ入れないという話だが」
「でも、是非の用向きでござりますから」
「そうですか。イヤ、わしがそれまで糺(ただ)すのは筋目違い。いますぐ宿証(やどしょう)を上げますから、それを持って大川南の渡辺すじ、土筆屋和平(つくしやわへい)へお泊りなさい」と、《こより》紙を一枚剥(は)いで、スラスラと筆をつけだす。
 その時その間、何とも怪しい女の影。会所の横の井戸側(がわ)にしゃがみ込んで、ジッと聞き耳をたてていた。
 白い横顔、闇にツイと立ったかと思うと、
「どうも、ありがとう存じました」
 中の声と一緒に戸が開(あ)いて、さッと明りが流れて来た。途端に、《のしお》頭巾の女の魔魅(あやかし)、すばやく姿を消している。
「あ、お待ちなさい――」会所守の久六は何思ったか、あわてて、出かける二人を呼び止めた。

「え、何ですッて?」
 唐草銀五郎に乾分(こぶん)の多市、出足を呼び返されて何気なくふりかえると、
「気をつけて行くことだぜ、物騒な刻限(こくげん)だ」
 会所の久六が、手真似(てまね)でバッサリ、いやに小声で注意をする。
「フン、辻斬りかあ」多市が鼻ッ先で受けると、
「これ、冗談に聞きなさんな」と、久六は叱るように、「今し方もここへ見えた、見廻り役人の話では、刀試しじゃない物盗(ものと)りの侍(さむらい)で、しかも、毎晩殺(や)られる手口を見ると、据物斬(すえものぎ)りの達者らしいというこった」
「ご親切様……」銀五郎は丁寧に会釈(えしゃく)をして、スタスタと先へ歩きだした。
 教えられた道すじどおり、堀川から大川河岸を西へ曲がる。所々に出水(でみず)の土手壊(くず)れや化けそうな柳の木、その闇の空に燈明(とうみょう)一点、堂島開地(どうじまかいち)の火(ひ)の見(み)櫓(やぐら)が、せめてこの世らしい一ツの瞬(またた)きであった。
「親分」多市は、追いつくように側へ寄って、
「自身番のおやじ奴(め)よけいなことを言やがったんで、何だかコウ背筋が少し寒くなった」
「おや、てめえはさっき、フン辻斬りかアと涼しい顔をしていたじゃねえか」
「そりゃ、関東者の病(やまい)でしてね」
「出るなと思う奴(やつ)はとかく出たがる。多市、今からてめえの腕前を頼んでおくぜ」
「鶴亀(つるかめ)、いい当てるということがあら。第一、うちの親分は至ってたのもしくねえ」
「なぜ」
「こんな時の要害に、永(なが)の道中、大枚の金をわっしに持たせておくんだからな」
「ばかをいえ、それほどてめえの正直を買っているんだ」
「エエ詰らねえ、明日(あした)からは、少し小出しに費(つか)いこむこッた」無駄口を叩きながら、淀屋橋(よどやばし)の上にかかると、土佐堀(とさぼり)一帯、お蔵(くら)屋敷の白壁も見えだして、少しは気強い思いがある。
 その二人は知らなかったが、堀川会所の蔭に潜(ひそ)んでいた、《のしお》頭巾の女の影はまたいつの間にか後ろをつけて、怪しい糸を手繰(たぐ)ってくるのだった。
「おや?……」と、渡り越えた橋の袂(たもと)で、待乳(まつち)の多市、不意にギクリと足をすくめてしまった。
「親分、誰か来ますぜ、向うから」
「人の来るのに不思議はない。いい加減にしろよ、臆病者」
「だが、しっかり、目釘(めくぎ)を湿(しめ)していておくんなさいね」
「心配(しんぺい)するな」笑いながら、さっさと足を進めると、なるほど河岸(かし)ッぷちの闇から、チャラリ、チャラリ……と雪踏(せった)を摺(す)る音。
 近づいた時、眸(ひとみ)を大きくして見ると、侍だ。はっきり姿の見えない筈、上下(うえした)黒ぞっきの着流しに、顔まで眉深(まぶか)なお十夜頭巾(じゅうやずきん)。
 当時、宝暦(ほうれき)頃から明和(めいわ)にかけて三都、頭巾の大流行(おおばや)り、男がた女形(おんながた)、岡崎(おかざき)頭巾、露(つゆ)頭巾、がんどう頭巾、秀鶴(しゅうかく)頭巾、お小姓(こしょう)頭巾、なげ頭巾、猫も杓子(しゃくし)もこの風(ふう)に粋(すい)をこらして、寒いばかりにする物でなくなった。
 チャラリ、チャラリと雪踏を鳴らして、今、銀五郎の左を横目づかいにすれ違った黒縮緬(くろちりめん)の十夜頭巾は、五、六間(けん)行き過ぎてから、そっと足の穿(は)き物をぬぎ、樹の根方へ押しやッた。
 かなぐり捨てた羽織もフワリとその上へ――。
 と思うと身を屈(かが)めて、双(そう)の眼(まなこ)をやり過ごした闇へ――蝋色(ろいろ)の鞘(さや)は肩より高く後ろへ反(そ)らしてススススと追い縋(すが)ったが音もさせない。
「ウム!」と据物斬(すえものぎ)りの腰、息を含んで、右手は固く、刀の柄糸(つかいと)へ食い込んだ。
 グイと前へ身をうねらせる。
 斬(や)るな――と思えたが、銀五郎の後ろ構えを、多少手強(てごわ)く思ったのか、そこでは抜かずにもう一、二間。
 すると、場合もあろうに、すぐ足もとの土佐堀(とさぼり)で、ドボーン! と真ッ白な水けむり、不意を食わせて凄じい水玉がかぶった。
「あッ――」と音を揚げたのは待乳の多市。そのほうよりは、後ろの死神に気がついて、
「親分ッ」と、銀五郎を突き飛ばしておいて、自分も宙を飛んでしまった。
「ちぇっ……」舌打ちして戻りかけた侍、ひょいと淀屋橋の上を仰ぐと、《のしお》形(がた)に顔を包んだ美(い)い女が、橋の手欄(てすり)に頬杖ついて、こっちへニッコリ笑ったものだ。
 取って返しの勢いで、十夜頭巾の侍が、ぴたぴたと自分の影へ寄ってくるのに、橋の女は、その欄干に片肱(かたひじ)もたせて澄ましたもの。
 馴れない頭巾(もの)と見えて、うるさそうに、解(と)いて丸めて川の中へフワリと捨てた。――ついでに、下からさッとくる風と、頭巾くずれの鬢(びん)の毛を、黄楊(つげ)の荒歯(あらは)でざっと梳(と)いて、そのまま横へ差しておく。
「女!」ズンと凄味(すごみ)のある声だ。
 いうまでもなく今の侍、逃がしたほうの身代りに、斬らねば虫が納まるまい。
「あい、わたしのことですか?」
 小褄(こづま)を下ろした襟掛(えりかけ)の婀娜女(あだもの)はどこまでも少し笑いを含んで、夏なら涼んでいるという形だ。
「知れたこと、なんで邪魔いたした」
「邪魔をしたって? アアそうか、今わたしが石をほうり込んだので、斬り損なった飛ばッちりを持ってきたんですね」
「ウム、どこまでも承知でしたことだな」
「百もご承知、お前さんは、縮緬(ちりめん)ぞッきじゃいるけれど、辻斬り稼(かせ)ぎの荒事師(あらごとし)――、そう知ったからこそ横槍(よこやり)を入れたのさ。悪かったかい」
「なんだと」
「お前みたいな素人(しろうと)仕事に、あの二人はもったいない。どこか、河岸(かし)を代えたらいいでしょう」
「ウーム……、じゃてめえもあれをつけてきたのか」
「それもおまけに江戸からだよ。双六(すごろく)にしたって五十三次(つぎ)、根(こん)よくここまでつけてきたところを、横からさらわれて埋(う)まるかどうか、胸に手を当てて考えてごらん」
「読めた、さては道中騙(かた)りか美人局(つつもたせ)の」
「いいえ、これでも一本立ち、お前さんも稼業人(かぎょうにん)になるなら覚えておおき、女掏摸(すり)の見返(みかえ)りお綱(つな)というものさ」
「あっ、お綱か」
「おや、わたしを知ってるの」
「一昨年(おととし)江戸へ行った時、二、三度落ち合ったことのあるお十夜孫兵衛(じゅうやまごべえ)だ」
「まあ……」笑いまじりに寄ってきて、「それじゃ少し啖呵(たんか)が過ぎたね、早くいってくれりゃあいいのに」
「なアに、こっちがドジを踏み過ぎている。それにしても、たいそう遠出をしてきたものだな」
「ちっと仕事が大きいのでネ」
「たしかに見込みはついているのか」
「お蔑(さげす)みだよ、お綱さんを」

……「上方の巻」巻頭より


購入手続きへ  (上) (下)


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***